「じゃあここでバイバイね」
あまりのかわいさに心の中で悶絶しながら、冷たくそう言うと、晴は捨てられた子犬みたいな顔で私を見て「話したいことがあったのに」と小さい声で言った。
「……話したいことって……なに?」
夕方の湿った風が、晴の茶色い髪を揺らして、夕日にきらきらと反射していた。
晴の白い頬を夕日がオレンジに染めていて、そのせいか晴はすこし照れくさそうにも見える。
「ゾウムシのことなんですけど」
「もういい」
これだから嫌だ。
『話したいことがある』
これは晴がよくいうせりふだということは、この一ヶ月間でよく分かった。
分かっているのに、まっすぐ瞳を見ながらこれを言われると、ほんの少しどきどきしてしまう自分が憎らしい。
何回もこの手に引っかかっているのに、いい加減に学習しなければ。
それ以前に、晴はきっと引っ掛けているつもりなんてないのだろうと思うと、なおさら悔しい。
「桜子さん、ゾウムシが死んだふりをするの、知ってましたか?」
「知らないわよ!」
そもそもゾウムシをいう名前自体、今はじめて耳にしたわ。
「でしょ? ゾウムシといえば象の鼻みたいな口部分もかわいいんですけど、触るとコテッと裏返っちゃって死んだふりするんですよ?」
「あ、そ」
「かわいいですよねぇ」
「全然」
晴はなにがおかしいのか、くすくすと笑いながら「大丈夫ですよ」と言う。
「大丈夫ですよ、他に誰も聞いていませんから」
「いや、別に恥ずかしいとかじゃないから」
また勘違いをしている。
この人は私を虫に対して『ツンデレ』だと思っているらしい。
私が虫に対して『デレる』ことなんて絶対にありえないと言うのに。
晴は、私の顔を覗き込んで、なだめるように「はいはい」と言ったあと、
「桜子さんのおうちはどの辺ですか?」
と首を傾げた。
もしかして、送ってくれちゃったりするのかな?
なんて、内心どきどきしているのを隠すように「あっち」と短く答えると、晴は「もしかして」と目を輝かせた。
「河川敷のほうですか? あの大きな公園の?」
「そうだけど?」
「まじですか!?」
いいなぁいいなぁ、と晴はうらやましそうに繰り返す。
なにが?と聞き返せば、「あの公園、よく行くんですよ、俺」と返ってきた。
私が大学入学の時から一人暮らしをしている、学生向けマンションは大学から自転車で十五分の距離にある。
そのすぐそばには、大きな河川が流れていて、河川沿いには大きな国営公園があり、休日にもなれば多くの家族連れでにぎわっている。
芝生広場のほかに、野球場やテニスコートもあるようで、私の部屋のベランダからも見下ろせるのだけど、私は二年間で一度も行ったことはない。
理由はただひとつ。
虫がいるからだ。
「あの公園の景観保全地区や自然地区はすばらしいです」
「景観……なに?」
「景観保全地区」
漢字をひと文字づつ説明してから、晴が教えてくれた情報によると、その場所は私から見ればただの草むらだと思っていたところだったのだけど、晴からすればとてもいい場所らしい。
「昆虫の宝庫です」
ただの草むら以下。
「俺もあのマンションに引っ越したいんですけど、なかなか空きがないんですよね」
晴がもしうちのマンションに引っ越してくるなんてことがあれば、それはかなり楽しいかもしれない。
おかずを作りすぎちゃった、なんていいながら持っていったりして。
まぁ、たいした料理は作れないのだけど。
「桜子さんずるいなぁ。いつでも昆虫採集に行けるじゃないですか」
いや、行きませんけどね。
即答でそう返そうとしたら、晴が先に「あ、そうだ」と口を開いた。
「今度、一緒に行きませんか? 公園!」
もしかして……。
もしかしてこれってデートっていうやつですか?
素晴らしく晴れた次の日曜日。
私は袖がシフォンになっている水色のカットソーに袖を通して鏡の前に立った。
今日は、晴と公園に行く約束だ。
行き先は公園だし、スカートではダメだろうと思い、デニムに足を通す。
それでも、公園に出かけるにしては、精一杯女の子らしい格好なのではないかと思う。
これがデートというものなのかはよく分からなかったけれど、この日のためにこのカットソーを買ってしまったのだから、私の中ではデートなのだろうな、と認めざるを得ない。
晴にとってはそうじゃないんだろうと思うと悔しいのだけど。
「桜子さーん」
マンションのエントランスに下りると、晴はもう待っていて、私を見つけると嬉しそうにぶんぶんと手を大きく振った。
かわいい……。
母性本能をくすぐるとはこのことか。
ネイビーのティシャツにデニム、それに腰にシャツを巻いた晴は、今日も大きなリュックサックを背負っていた。
「楽しみですねぇ」
河川敷きに向かって歩きながら、晴は見るからにわくわくとしている。
「俺、タッパーもいっぱい持ってきましたよ」
「……タッパー?」
「はい! 虫入れるやつ」
タッパーに虫を入れる?
食料……?
まさか!
「見ますか?」
晴は歩きながら、リュックサックを前に回すと、中から百区円均一によく売っている食品用の小さなタッパーを取り出した。
半透明で、薄いピンクの蓋にはキリで開けたような小さな穴がいくつか開いている。
「これ、持ち運ぶ時に便利ですよ。おすすめです。ひとつ、あげます。ピンクがいいですか? 水色もありますよ? どっちがいいですか?」
いらない、と言えなかった。
本当は穴の開いたタッパーなんていうなんの役に立たないもの、いらないはずなのに。
それが、晴からのプレゼントだったから。
いらないと言えなくて。
「ありがと」
差し出されたピンクのタッパーを私は受け取った。
晴は嬉しそうに笑う。
私はそんな晴に気が付かないふりをして、前を見て歩く。
穴の開いたタッパー。
晴からもらった初めてのプレゼント。
河川敷きの芝生広場には私たちの他には誰もいなかった。
近くに遊具のある広場もグラウンドもあるから、そっちのほうが人気があるのだろう。
とにかく広々としていて、見渡す限りなにもない。
短く刈られた芝生のさふさふという感触がスニーカーの裏から伝わってきて、なんだかひどく懐かしい気持ちになる。
土手の方は、背の高い草が自然に生えていて、おそらくそこが晴のいう景観保全区域なのだろう。
所々に大きな木があって、その下だけ陰になっているだけで、日陰もなかった。
「よいしょっと」
晴が大きなリュックサックを肩からおろして、その大きな木の根本に置くと、いかにも重そうな音がした。
組んだ両手をぐーっと上にのばしてストレッチをしている姿を見ても、やっぱりかなり重いのだろう。
「前から思ってたんだけど」
ストレッチが終わるのを待って話しかけると、晴は、ん?と小首をかしげた。
「なにが入ってるの? そのリュック」
「なにって、そんな特別なものは……」
言いながら、晴はリュックサックをじじーっと開けて、中身をかざごそと物色する。
「タッパーでしょ、密封袋でしょ、デジカメ、メモ帳、捕虫網、ループ、ライト、虫かご、ポイズンリムーバー……」
「待って! ポイズンリムーバーってなによ!?」
「毒出しキットです」
晴はにっこり笑う。
その笑顔、こわい……。
「え……蛇とかいるの? このへん」
「いませんよ。大丈夫です!」
よかった……。
「蜂とかそういうのに刺された時用です」
よくない!
晴は捕虫網というものと虫かごを持って立ち上がる。
さながら、夏休みの小学生みたいなスタイルだけど、これでもれっきとした大学生なのだ。
「桜子さん、行きましょ」
「は?」
「え?」
行かないの?みたいな顔をされた。
「わ、私は行かないよ?」
「え?」
じゃあなんで来たの?みたいな顔をされた。
「ほら、このへんにもちょうちょとかいるし! 私はそういうの見てるから。それに、読みたい本もあるの。こういうところで読むのも気持ちいいからさ。晴、行っておいでよ」
バッグから取り出した読みかけの小説を取り出して見せると、晴は、うん!と大きくうなづいた。
「じゃあ、虫いっぱい捕ってきてあげますね」
晴は納得したようににっこり笑うと、土手の方に軽やかに駆けていく。
その後ろ姿から、もうわくわくしているのが伝わってきて、本当に子どもみたいだなぁと半ば呆れてみていると、数メートルのところで急に立ち止まった。
そのまま、くるりときびすを返してたったっと戻ってくる。
「忘れ物ー?」
私が大きな声で聞くと、晴は首を横に振って私のそばまで戻ってくると、腰に巻いていたシャツをほどいて、芝生にひらりと広げた。
「敷くもの、持ってきてなかったから、桜子さん、この上にでも座っててください」
それだけ言うと、晴はさっきと同じ足取りでまた土手に向かって走っていって、あっという間に背の高い草むらの中に消えてしまった。
残された私は、芝生の上に広げられた紺色のタータンチェックのシャツの上でそっと体操座りをしてみる。
緑色の芝生、水色の空、視線の先の草むらがたまにがさがさと動くのが分かる。
晴はしばらく戻ってこないだろう。
今まで付き合った男は片手で数えきれないけれど、両手だと数えられるくらい。
年上も、同じ年も、年下も、大きな声じゃ言えないけど、実は先生となんていうのもある。
遊園地とか、水族館とか、夜景とか。
歴代のオトコたちは、私を喜ばせようと、もしくは私に好かれようといろいろなところへ連れていってくれた。
だから、この世にデートコースなんてものがたくさんあることも知っていたし、一通り行ったと思っていたけれど。
こんなところにデートで来たのは初めてだ。
そもそも、これがデートかどうかはあやしいのだけど。
デートだろうと、そうじゃなかろうと、きっと、これからだってないだろう。
こんなところに日曜日の昼間にわざわざくるなんてこと。
紫外線だって気になるし、見ないように気づかないようにしてはいるけど、きっとこの芝生にだって虫はたくさんいる。
これからもきっと出会わないだろう。
こんな場所に連れてきて、女の子を残して一人で嬉々と虫探しに行っちゃうような人。
「本当、信じられない」
木漏れ日の下、小説に目を落とす。
読みかけ、なんて言ったけど、本当は何回も読んでいる推理小説は、結末を知っていているからこそ穏やかで、こんな日曜日にふさわしいと思った。
知らなかった。
こんな日曜日も悪くない。
頭がガクッと落ちた衝撃で、目を開けると、芝生の上に広げられた晴のシャツの上で体操座りをしたまま、どうやら寝てしまっていたらしい。
芝生の広場には寝る前と変わらず、私ただひとり。
晴はまだ土手の方から戻ってきていないようだ。
さっきまで読んでいた小説は、いつのまにか私の脇に置いてある。
よく見ると、本の間に緑色の葉っぱが挟んである。
「あれ……」
偶然に挟まったんだな、と本を開いてみると、そのページは、私が読んでいたページだった。
晴に違いない。
私が寝ているのを見て、しおりがわりに葉っぱを挟んでいったのだろう。
「桜子さーん」
顔をあげると、土手の方から晴が捕虫網を持った右手を大きく振りなから、こちらに向かって歩いてきていた。
左手には虫かごを持っている。
「おはようございます」
目の前に立った晴はいたずらっぽく言ったあと、「じゃじゃーん」と言いながら、私の目の前に虫かごを差し出す。
「ひぃっ」
思いきりのけぞった。
最近では、晴がいろいろと話してくるおかげでほんの少し慣れてきてはいたけれど、不意打ちの虫はやっぱりきつい。
じりじりとうしろにおしりで移動する。
「いっぱい、捕まえたんですよぉ」
晴は嬉しそうに虫かごの中を見つめていて、そんな私には全く気がついていないようだ。
虫かごの中には細い草がたくさん入れてあって、虫そのものの姿は見えなかったけど、草がかさかさと動いているところを見ると、相当な収穫があったに違いない。
「トノサマバッタ、たくさん捕まえたんです。今、開けますからね」
待って待って。
開けなくていいから。
晴は私の隣に座り込むと、ふたを開けようと虫かごに手をかける。
「あ、いい! いや、てか開けないで」
慌てて止めると、晴は不思議そうな顔を上げた。
「……逃げると、困るし」
いつからだろう。
はっきりと、拒絶できなくなった私がいる。
『私、虫なんて大嫌いだから』
一ヶ月前なら迷わずこういっていたはずなのに。
「あ、そっかそっか」
晴は納得したように笑うと、私の隣に体操座りをして、蓋を閉めたままの虫かごを目の高さに持ち上げた。
「この時期はやっぱりバッタが多いですよねぇ。ショウリョウバッタもオンブバッタもクルマバッタモドキもたくさんいました」
私にはまるで暗号のような虫の名前をすらすらとあげながら、晴はうっとりと虫かごを見つめている。
その姿についつられて虫かごをのぞきこんだ。
緑色の葉っぱの中に、緑色のバッタと茶色のバッタがいるのが見えて、一気に鳥肌が
立ってしまったけれど、それよりも気になることがあって。
「ねぇ、晴?」
「なんですか? 桜子さん」
「これさぁ、なんで緑と茶色のバッタがいるの? 違う種類?」
バッタから視線を外して、晴を見ると、晴はああ、これはですね、と説明を始めた。
「密度の関係です」
「密度?」
「密度が高い場所、つまりトノサマバッタがたくさんいるところの種は茶色になります。羽も長くて気性も荒いんです」
「へぇ……」
なんていうか。
素直に感心してしまった。
少し、面白いとさえ思ってしまったのは、たぶん気のせいだと思うのだけど。
捕まえたバッタは、てっきり持って帰るのだと思っていたけれど、晴はしばらくうっとりと眺めながら、私にバッタの話(クルマバッタとクルマバッタモドキの違いは、背中にXの模様があるかどうかだとか)をしたあとで、土手に返してくると言う。
「やっぱり仲間といるほうが楽しいだろうし」
それでも少し名残惜しそうな顔で晴は土手の方へ歩いていった。
しばらくして戻ってきた晴は、私の顔を見るとふふっと笑って後ろ手に隠していた手をすっと伸ばした。
「な、なにっ?」
虫でも持ってきたかと反射的に身を退いてしまう。
だけど、それは虫なんかではなくて。
「ありがとう……」
たくさんの黄色の菜の花だった。
お花屋さんに売っているバラとかガーベラとかユリとかじゃなく。
土手で摘んできた菜の花。
きっと、よく見たらあぶらむしとかついてるに違いないのだけど。
私は受け取った。
あぶらむしくらい、なんだっていうの。
五月に入って、日に日に初夏らしい暑さが続くようになっても、相変わらず晴の頭の中は虫でいっぱいらしい。
「五月といえば」
学食で白玉あんみつを食べている私の隣で、チキンカツ定食を食べながら、晴はさっきからずっと虫の話ばかりしている。
お昼過ぎの学食は昼時ほどではないにしろ、そこそこ込み合っていて、私と晴の座っている長いテーブル席も、ほとんどが学生で埋まっている。
もともと、私は同じ学部の女友だちと食後のデザートを食べていたのに、晴がいつものように「桜子さーん」と(尻尾を振って)来たものだから、みんな「晴くんによろしく」なんていいながら席を立ってしまったのだ。
「ゴマダラカミキリですよねぇ」
ですよぇ、と言われても。
普通は五月といえば、ゴールデンウィークとか鯉のぼりとかさ。
そういえば、ゴールデンウィークの五日間、晴は山で一人キャンプをしていたらしい。
もちろん、昆虫採集が目的の。
その話を、ゴールデンウィーク空けに三時間ほどぶっ通しで話続けたことから、相当楽しかったと推測される。
サクサクと衣のいい音を立てながら、それでもこの人らしいお行儀のよさで、晴はチキンカツをおいしそうに完食すると、ごちそうさまでした、と手を合わせた。
そんな子どもじみたしぐさがかわいくて、思わずじっと見ていると、顔を上げた晴と目があった。
「かわいいなぁ」
晴は私を見るとそんなことをどこかしみじみとした顔で言った。
「え!? か、かわいい?」
「なんか、その白玉がゴマダラカミキリの模様みたいでかわいいなぁって思ってたんですよ」
「……あ、そ」
一瞬、ドキッとした自分が腹立たしい。