「で、コアオハナムグリさん。団子虫、返してください」
「は? コアオ……なに?」
「ハナムグリさん」
「誰?」
「いや、あなたの名前、知らないから」
だからって、人を変な名前で呼ぶな。
いやいや、その前に。
「団子虫なんて私、持ってないわよ」
え?と虫王子はきれいな瞳をまん丸にして私を凝視した。
鳩が豆鉄砲をくらった時はこんな顔ですよ、のお見本みたいな顔だ。
「じゃあ……どうしたんですか? 俺の団子虫」
「どうしたって……」
振り回している間にどこかへ飛んで行った、と言おうとして、ふと気がつく。
なぜだか知らないけれど、さっきから彼は『俺の団子虫』と言う。
それはつまりあの団子虫たちは彼にとっては大事なものだったのかもしれない。
つまり……食料にするとか。
まさか!
それはさすがにないと思うけれど。
「えっと。逃がした」
飛んで行った、よりはこっちのほうがまだましな気がしてそう答えると、虫王子は一瞬ぽかんとして、それからにっこりと笑って「なぁんだ」とほっとしたように言った。
「優しいんですね。コアオハナムグリさん」
虫王子はそっかそっか、とつぶやきながらリュックサックのファスナーをじじーっと開いて、中のものを取り出した。
「ひっ」
虫かごだ。
小学生が夏休みに持って出かけるような、透明のプラスチックのもの。
蓋の部分は青色で網のようになっている。
一瞬、身構えたけれど、その中身は空っぽだった。
「でも違うんですよ」
コアオハナムグリさん。
虫王子はにこにことしながら話を続けた。
「俺、団子虫たちを捕まえてこういうところに閉じ込めたりなんてしないですよ」
安心してください、と虫王子はわけのわからない言葉を口にする。
「ここに入れようとしたのは、彼らを家に安全に連れて帰るためだけであって、家に着いたらちゃんと飼育セットがあって、そこはいい土壌だし適温に保たれてるしそれに」
「もういい」
家の中で、団子虫を飼育しているだって?
一瞬、想像してしまいそうになって、あわてて話をさえぎった。
「わかったから、もうその話はいい」
「わかってもらえましたか?」
虫王子は満足そうに微笑んで、リュックサックの中に虫かごをしまった。
「コアオハナムグリさんも虫がお好きなんですね」
「いや、全然。むしろ大嫌いだから」
さっきからなんだか盛大な勘違いをされている。
このへんでしっかりと否定しなければと思い、きっぱりとそう言うと、虫王子はまた目をまん丸にして、しばやく私をじっと見つめた。
だから、そんなに無駄にきれいな瞳で私を見つめるのはやめてください。
「あぁ。なるほど。了解です」
心得た、とばかりに虫王子は何度かうなづくと「そうですよね」と微笑む。
「わからなくもないですよ、その気持ち」
わかってもらえたらしい。
「恥ずかしいんですね」
わかってなかったらしい!
「俺は男だから、全然気にならないんですけど、コアオハナムグリさん、女の子ですもんね。虫が好きってあんまり知られたくないっていうか、あれですよね、そういう趣味とか秘密にしておきたいみたいな?」
趣味……。
この人、なにを言っているの?
誰か、通訳をお願いします。
「俺、誰にも言いません」
虫王子はきらきらとした瞳を私に向けたまま、力強く宣言した。
「でも、これだけは言っておきたいんですけど、コアオハナムグリさん。虫が好きって恥ずかしいことでもなんでもないいですよ!」
「だから、私は」
「あぁ、いいですいいです。大丈夫です。わかってます。そういうことにしておきます」
違う違う。
どうしてこうなった?
「あのね……えっと君さ」
「あ、俺の名前ですか?」
「ちが」
「すみません。申し遅れました。俺、児島晴(こじまはる)です。農学部生命環境学部で昆虫生態学を学んでます。もうすぐ十九歳の一回生です」
虫王子は目をくりんと動かして「一番好きな昆虫は」と続けようとして言いよどんだ。
「一番を決めるのは難しいけど」
「あ、もういいです」
「いや、男らしくはっきり言います。かなりメジャーだけど、エサキモンツキノカメムシかな」
虫王子はなぜかすこし恥ずかしそうにそう言って、照れ笑いまで浮かべた。
「べたですよね、俺」
いや、全然べたじゃないし。
むしろ、初めて聞いた名前だし。
「コアオハナムグリさんの推し虫はなんですか?」
虫王子、こと児島晴は無邪気な笑顔で私に問いかける。
さっきから、突っ込みたいところが多すぎて、もう追いつかなくなってきている。
「なんか、俺べたなの言っちゃったから、聞くのどきどきするなー」
「何度も言うけど、私、虫好きじゃないし」
それに。
反撃する隙を与えないように、私はまくしたてた。
「コアオなんとかって名前で呼ぶのやめて。虫、嫌いだから寒気がするの」
「コアオハナムグリは嫌ですか? ほら、ハルジオンの花に頭突っ込んで花粉食べたあとに、顔に花粉つけてるとことか、すごくかわいくないですか?」
「全然わかんない」
「そっかぁ。じゃあきれい系でカラスアゲハさんはどうですか? 羽、青や緑に輝いて見えるとことか神秘的だし」
「全然、わかんない」
「うーん。きれい系もだめかぁ。じゃあかっこいい系でクルマバッタモドキさんとか?」
「もうやめて」
「じゃあなんて呼べばいいんですか!?」
ちょっと怒ったようにそう聞かれて私は思わず「桜子」と答えていた。
「サクラコ? そんな虫いましたっけ?」
「虫の名前じゃないわよ!」
本当に失礼な人!
失礼だし変な人だし。
「あ、そういうことでしたか!」
晴は納得した様子でにっこり笑うと言った。
「桜子さん、いい名前ですね」
それからこう続けた。
王子様みたいなきらきらの笑顔で。
「俺、桜子さんともっと仲良くなりたいです」
と。
そうやって、私たちは知り合った。
彼は最初からずっと誤解をしていて、私があれから何度も虫は嫌いだと言っているのに、それを照れ隠しだと信じて疑わない。
「桜子さん!」
キャンパス内を歩いていると、どこからともなく走りよってきては、私に虫の話をするから困る。
それは講義で聞いた話だったり、本で得た知識だったり、観察していて気づいたことだったり。
虫のことについて話し出すと止まらなくて、私がどんなに適当な相槌をうっていても平気で一時間でも二時間でも話すから困る。
たまに気まぐれに。
本当にまれにだけど、話を聞いている途中にふと感じた疑問を晴にしてみると、リュックサックから大事そうに取り出した昆虫図鑑を見せながら、丁寧に説明してくるから困る。
そこまで専門的な回答なんて求めていないのに、必死で教えてくれるから困る。
学食にいても。
通学途中も。
麻衣や他の友人とおしゃべりをしていても。
「桜子さん!」
私を見つけると、しっぽをぶんぶん振りまわす柴犬みたいに嬉しそうに走ってくるから困る。
困る。
困る。
私は困っている。
そんな彼に。
困る。
困る。
私は困っている。
そんな彼をきっぱりと拒絶できない自分自身に。
全く。
自分にあきれる。
最初の印象は間違いなく最悪だったのに。
虫が大好きな変な人。
人の話を聞かず、思い込みが激しい人。
今だって、虫の話をされると鳥肌がたっちゃうくらいなのに。
それでも、虫の話をするときに、子どもみたいに目をキラキラさせて夢中で話したり、いつも寝癖で髪がぴょこんとはねているのにも無頓着だったり、ずけずけと近寄ってくるのに、話し方がとても丁寧で全然厚かましくないところとか。
嫌いじゃない。
だから。
困ったなぁ、と私はぼやくのだ。
両腕の鳥肌をさすりながら。
ぶっきらぼうな態度で相づちを打ちながら。
「桜子さん!」
愛車の赤い自転車にまたがり、まさにペダルを漕ごうとしたとき、いつもの明るい声が聞こえてきた。
「なによ、でっかい声で呼ばないでよ。本当に恥ずかしい」
振り向いた私は、迷惑そうな顔ができているのだろうか。
「桜子さん、今帰りですか?」
話すようになって、一ヶ月が経った今も晴は敬語をやめない。
なんだか、自分がえらそうにしているみたいだからやめてよ、と何度言っても、「いやいや、先輩ですから」などと言ってやめない。
「先輩だから」というのは体のいい言い訳で、相手がたとえ同級生でも敬語で話しているのを私は知っている。
晴はまだ一回生だから、下級生というものはいないけれど、きっと下級生が相手でもきっと敬語で話すのだろう。
晴はつまりそういう人なのだ。
ずけずけと距離をつめてくるくせに、礼儀正しくて誰にでも丁寧。
「見てわからない?」
はぁ、とわざとらしくため息をはいてから悪態をついた私を見て、晴はくすくすと笑った。
「わかってましたよ」
「じゃあいちいち聞かないでよ」
「はい、すみません」
全く気にしてなどいないことがわかる口ぶりで謝ったあと、晴は当たり前のように私の隣に並んで歩き出した。
乗るタイミングを逃した私は『しぶしぶ』自転車を押して歩く。
リュックの肩紐に両手をかけて、肩紐を浮かすようにする仕草は、晴の癖なのだと思う。
きっと、リュックがかなり重いのだろう。
今だって、見た感じパンパンだし。
今日もあの中に、採集した昆虫がたくさん入っているのかと思うと、また背中を寒気が走った。
門にいる警備員さんに、丁寧にお辞儀をして「さようなら」とまるで小学生みたいな挨拶をしたあとで、晴ははたと足を止めた。
「桜子さんのおうちはどっちですか?」
私が無言でマンションの方向を指差すと、晴は眉を八の字に下げて「俺は、こっち……」と反対側を指差して残念そうな声を出す。
なにそのかわいい表情は。
「じゃあここでバイバイね」
あまりのかわいさに心の中で悶絶しながら、冷たくそう言うと、晴は捨てられた子犬みたいな顔で私を見て「話したいことがあったのに」と小さい声で言った。
「……話したいことって……なに?」
夕方の湿った風が、晴の茶色い髪を揺らして、夕日にきらきらと反射していた。
晴の白い頬を夕日がオレンジに染めていて、そのせいか晴はすこし照れくさそうにも見える。
「ゾウムシのことなんですけど」
「もういい」
これだから嫌だ。
『話したいことがある』
これは晴がよくいうせりふだということは、この一ヶ月間でよく分かった。
分かっているのに、まっすぐ瞳を見ながらこれを言われると、ほんの少しどきどきしてしまう自分が憎らしい。
何回もこの手に引っかかっているのに、いい加減に学習しなければ。
それ以前に、晴はきっと引っ掛けているつもりなんてないのだろうと思うと、なおさら悔しい。
「桜子さん、ゾウムシが死んだふりをするの、知ってましたか?」
「知らないわよ!」
そもそもゾウムシをいう名前自体、今はじめて耳にしたわ。
「でしょ? ゾウムシといえば象の鼻みたいな口部分もかわいいんですけど、触るとコテッと裏返っちゃって死んだふりするんですよ?」
「あ、そ」
「かわいいですよねぇ」
「全然」
晴はなにがおかしいのか、くすくすと笑いながら「大丈夫ですよ」と言う。
「大丈夫ですよ、他に誰も聞いていませんから」
「いや、別に恥ずかしいとかじゃないから」
また勘違いをしている。
この人は私を虫に対して『ツンデレ』だと思っているらしい。
私が虫に対して『デレる』ことなんて絶対にありえないと言うのに。
晴は、私の顔を覗き込んで、なだめるように「はいはい」と言ったあと、
「桜子さんのおうちはどの辺ですか?」
と首を傾げた。
もしかして、送ってくれちゃったりするのかな?
なんて、内心どきどきしているのを隠すように「あっち」と短く答えると、晴は「もしかして」と目を輝かせた。
「河川敷のほうですか? あの大きな公園の?」
「そうだけど?」
「まじですか!?」
いいなぁいいなぁ、と晴はうらやましそうに繰り返す。
なにが?と聞き返せば、「あの公園、よく行くんですよ、俺」と返ってきた。
私が大学入学の時から一人暮らしをしている、学生向けマンションは大学から自転車で十五分の距離にある。
そのすぐそばには、大きな河川が流れていて、河川沿いには大きな国営公園があり、休日にもなれば多くの家族連れでにぎわっている。
芝生広場のほかに、野球場やテニスコートもあるようで、私の部屋のベランダからも見下ろせるのだけど、私は二年間で一度も行ったことはない。
理由はただひとつ。
虫がいるからだ。
「あの公園の景観保全地区や自然地区はすばらしいです」
「景観……なに?」
「景観保全地区」
漢字をひと文字づつ説明してから、晴が教えてくれた情報によると、その場所は私から見ればただの草むらだと思っていたところだったのだけど、晴からすればとてもいい場所らしい。
「昆虫の宝庫です」
ただの草むら以下。
「俺もあのマンションに引っ越したいんですけど、なかなか空きがないんですよね」
晴がもしうちのマンションに引っ越してくるなんてことがあれば、それはかなり楽しいかもしれない。
おかずを作りすぎちゃった、なんていいながら持っていったりして。
まぁ、たいした料理は作れないのだけど。
「桜子さんずるいなぁ。いつでも昆虫採集に行けるじゃないですか」
いや、行きませんけどね。
即答でそう返そうとしたら、晴が先に「あ、そうだ」と口を開いた。
「今度、一緒に行きませんか? 公園!」
もしかして……。
もしかしてこれってデートっていうやつですか?