「おっと」
王子様は再び手のひらに集中した。
元気のいい団子虫が逃走しそうになったのだ。
王子様の手のひらから甲のほうへ行こうと試みているようだ。
「だめだよ、落ちたら怪我しちゃうからね」
まるで小さな子どもにでも言い聞かせるかのように王子様は優しく言って団子虫をそっと手のひらのほうへ誘導すると、「あ、すみませんが」と私に声をかけた。
「すみません、ちょっとこの子たち、持っててもらえます?」
「……はい?」
「あ、俺ちょっとリュックから虫かご出したいんで」
当たり前のように王子様は「はい」と私に手のひらを突き出して、私が手のひらを差し出すのを待っているようだ。
「逃げちゃいますから、早く早く」
私の目の前、数センチのところまで差し出された手のひらは、とても指が長くてきれいだったのだけど、その手のひらの中には、あの有名なジブリ作品に出てくるオウムを小さくしたような黒い物体がもぞもぞと動いている。
恐怖のあまり、もはや声を出すこともできない私の右手首を、王子様は空いている左手で、すっと取ってそして。
まるで宝石でものせるかのように、ともすればロマンチックな仕草で。
私の手のひらに団子虫を乗せたのだった。
そのあとのことはよく覚えていない。
悲鳴すら上げられず、私はその場から走って逃げた。
団子虫を持ったまま。
王子様はなにか言ったのだろうと思うけれど、当然覚えてなんかいない。
そのまま闇雲に走っている間に、無意識に手を振り回したのだろう。
自転車置き場に着いた頃には手の中から団子虫は一匹残らず消えていた。
彼らがどうなったのか知らない。
振り回されて落ちたのだろうから、王子様のいうように怪我をしたかもしれないし、それどころか天に召されたかもしれない。
甲羅が固そうだから、そもそも怪我なんてしないのかもしれない。
そんなことは私からすればどうでもいいことで、自分の手のひらに一瞬でも(一瞬ではないのかもしれないけれど、一瞬だと思い込まなければ気が狂ってしまう)載っていたのかと思うと、冗談でもなんでもなく寒気がした。
すぐにグラウンドの水道で、何度も何度も何十回も手を洗ったけれど、団子虫の足の裏の感触が手に残っているような気がして、まだ冷たい水に手を流しながら、私は泣いた。
思えば、こんなに泣いたのはいつぶりだろう。
実家からこっちに出てくるときにも泣かなかった。
一年間付き合っていたケイタと半年前に別れたときも、こんなに泣かなかったのに。
手も目も赤くなるまで洗ったけれど、団子虫の感触は消えなかった。
本当に一瞬の出来事だったのに。
ここまでくると、想像で補っている部分もあるのかもしれない。
頭の片隅で、黒い物体がもぞもぞとうごめく様子が浮かんで、思わずえずいた。
「あいつ……絶対に許さない」
私はあの『見た目だけ王子』に復讐を誓った。
あんな目に合わせて、ただじゃおかないんだから。
みんなにいいふらしてやる。
あいつは変人だって。
危険人物だって。
王子様だかなんだかしらないけれど。
私は絶対に許さないんだから。
『虫王子』
言いふらすまでもなく、もう彼のあだ名はそんな風に変化していたらしい。
『口を開けば虫の話しかしないよ、あの人』
『虫と楽しそうに会話してたんだって』
『あの大きなリュックの中に、いっぱい虫を入れているらしいよ』
『なんか、虫を食べたりもするみたいだよ』
『かっこいいのに、残念だよねぇ……』
あの日から一週間後の学食で、隣の女の子たちのグループからそんな会話が聞こえてきて、私は心の中で思わずガッツポーズを決めた。
麻衣の話によると、そんな噂があっという間に広がり、虫王子の周りから女の子が一人また一人と離れていっているしい。
「いい気味」
紙コップに入ったコーヒーを一口すすって、私はこっそりと笑う。
「本当なのかな。虫を食べるって」
麻衣はカレーうどんをお箸でつまんだまま、眉をしかめた。
食事時にする話ではないな、と思いながらも私は「あの人なら食べそう」と返す。
「あの人って、知ってるの? 虫王子のこと」
不思議そうな麻衣に私は先日の出来事をかいつまんで話した。
団子虫を載せられたところを話すときは、泣きそうになったけれど。
「気持ちわる……」
麻衣は眉にしわをよせて、カレーうどんを食べる手を止めた。
やっぱり食事時にする話じゃなかったな。
「地面にはいつくばって団子虫を集めて……。そんなに集めてなにするんだろうね」
麻衣の問いかけに私は「さぁ」と首をかしげた。
「食べるんじゃない?」
冗談で言ったつもりだったけれど、口にした途端、そのインパクトに驚いて寒気がしてしまう。
「やめよ、この話」
麻衣の言葉に私が「うん」とうなずいたちょうどそのとき、「あ! いた!!」と背後で大きな声が聞こえた。
私には関係のないことだとコーヒーをすすっていたら、急に肩をつかまれて思い切りむせる。
「ちょっと……なによ!」
振り向いた先にいたのは、噂をすればなんとやら。
虫王子だった。
虫王子が私の隣の椅子をひき、私に体をかたむけて座るやいなや、向かいに座っていた麻衣はわざとらしく「あー、お腹いっぱいだぁ」と言いながら立ち上がった。
嘘つけ。カレーうどん、ほとんど食べてないじゃん。
少し前までは『王子様』今は『虫を食べる変人』である彼には関わりたくないらしい。
少し前までだったら、きっと目を輝かせて座っていたであろう彼女の移り気の速さというか、危険察知能力の高さには驚かされる。
「こらこら、麻衣。座りなよ」
私をこの変な人と二人きりにしないで……。
そんな訴えもむなしく、麻衣は「お先に」と首を傾けてかわいらしく微笑むと目にも止まらぬ速さで返却台に向かってすたすたと行ってしまった。
「探しましたよ!」
待っていました、とばかりに虫王子が私に話しかけてきた。
虫王子は今日は紺色とオフホワイトのボーダーニットを着ていた。
クルーネックからちらっとのぞく鎖骨と、至近距離で見るとビー玉みたいな茶色の瞳がきれいでつい見とれてしまった。
顔だけ見たら、王子様みたいなんだけどなぁ……。
さっきの台詞も『姫、探しましたよ』に聞こえなくもなくはない。
そんな私の夢見る気持ちも、どこからともなく聞こえてきた「あ、虫王子だ」という女の子の話し声で、とたんに打ち砕かれた。
いまやキャンパス中に周知されているこの『変な人』と話しているなんて、私まで変な人だと思われるじゃない。
「探しましたって、なによ?」
無駄に澄んだきれいな瞳で私をじっと見るんじゃないよ。
「こないだの俺の団子虫、返してください」
は?
俺の……なに?
団子虫?
「欲しいなら欲しいって言ってくれたらいいのに。あんなふうに勝手に持っていくなんてひどいですよ」
そう言いながら、虫王子は背負っていたリュックサックをおろし、膝の上に乗せた。
「ひっ」
『あの大きなリュックの中に、いっぱい虫を入れているらしいよ』
さっき聞いたばかりの噂話を思い出して、思わず身を固くすると虫王子は不思議そうに「ん?」と首をかたむける。
そのしぐさと表情がかわいらしくて、なんだか憎らしい。
「で、コアオハナムグリさん。団子虫、返してください」
「は? コアオ……なに?」
「ハナムグリさん」
「誰?」
「いや、あなたの名前、知らないから」
だからって、人を変な名前で呼ぶな。
いやいや、その前に。
「団子虫なんて私、持ってないわよ」
え?と虫王子はきれいな瞳をまん丸にして私を凝視した。
鳩が豆鉄砲をくらった時はこんな顔ですよ、のお見本みたいな顔だ。
「じゃあ……どうしたんですか? 俺の団子虫」
「どうしたって……」
振り回している間にどこかへ飛んで行った、と言おうとして、ふと気がつく。
なぜだか知らないけれど、さっきから彼は『俺の団子虫』と言う。
それはつまりあの団子虫たちは彼にとっては大事なものだったのかもしれない。
つまり……食料にするとか。
まさか!
それはさすがにないと思うけれど。
「えっと。逃がした」
飛んで行った、よりはこっちのほうがまだましな気がしてそう答えると、虫王子は一瞬ぽかんとして、それからにっこりと笑って「なぁんだ」とほっとしたように言った。
「優しいんですね。コアオハナムグリさん」
虫王子はそっかそっか、とつぶやきながらリュックサックのファスナーをじじーっと開いて、中のものを取り出した。
「ひっ」
虫かごだ。
小学生が夏休みに持って出かけるような、透明のプラスチックのもの。
蓋の部分は青色で網のようになっている。
一瞬、身構えたけれど、その中身は空っぽだった。
「でも違うんですよ」
コアオハナムグリさん。
虫王子はにこにことしながら話を続けた。
「俺、団子虫たちを捕まえてこういうところに閉じ込めたりなんてしないですよ」
安心してください、と虫王子はわけのわからない言葉を口にする。
「ここに入れようとしたのは、彼らを家に安全に連れて帰るためだけであって、家に着いたらちゃんと飼育セットがあって、そこはいい土壌だし適温に保たれてるしそれに」
「もういい」
家の中で、団子虫を飼育しているだって?
一瞬、想像してしまいそうになって、あわてて話をさえぎった。
「わかったから、もうその話はいい」
「わかってもらえましたか?」
虫王子は満足そうに微笑んで、リュックサックの中に虫かごをしまった。
「コアオハナムグリさんも虫がお好きなんですね」
「いや、全然。むしろ大嫌いだから」
さっきからなんだか盛大な勘違いをされている。
このへんでしっかりと否定しなければと思い、きっぱりとそう言うと、虫王子はまた目をまん丸にして、しばやく私をじっと見つめた。
だから、そんなに無駄にきれいな瞳で私を見つめるのはやめてください。
「あぁ。なるほど。了解です」
心得た、とばかりに虫王子は何度かうなづくと「そうですよね」と微笑む。
「わからなくもないですよ、その気持ち」
わかってもらえたらしい。
「恥ずかしいんですね」
わかってなかったらしい!
「俺は男だから、全然気にならないんですけど、コアオハナムグリさん、女の子ですもんね。虫が好きってあんまり知られたくないっていうか、あれですよね、そういう趣味とか秘密にしておきたいみたいな?」
趣味……。
この人、なにを言っているの?
誰か、通訳をお願いします。
「俺、誰にも言いません」
虫王子はきらきらとした瞳を私に向けたまま、力強く宣言した。
「でも、これだけは言っておきたいんですけど、コアオハナムグリさん。虫が好きって恥ずかしいことでもなんでもないいですよ!」
「だから、私は」
「あぁ、いいですいいです。大丈夫です。わかってます。そういうことにしておきます」
違う違う。
どうしてこうなった?
「あのね……えっと君さ」
「あ、俺の名前ですか?」
「ちが」
「すみません。申し遅れました。俺、児島晴(こじまはる)です。農学部生命環境学部で昆虫生態学を学んでます。もうすぐ十九歳の一回生です」
虫王子は目をくりんと動かして「一番好きな昆虫は」と続けようとして言いよどんだ。
「一番を決めるのは難しいけど」
「あ、もういいです」
「いや、男らしくはっきり言います。かなりメジャーだけど、エサキモンツキノカメムシかな」
虫王子はなぜかすこし恥ずかしそうにそう言って、照れ笑いまで浮かべた。
「べたですよね、俺」
いや、全然べたじゃないし。
むしろ、初めて聞いた名前だし。
「コアオハナムグリさんの推し虫はなんですか?」
虫王子、こと児島晴は無邪気な笑顔で私に問いかける。
さっきから、突っ込みたいところが多すぎて、もう追いつかなくなってきている。
「なんか、俺べたなの言っちゃったから、聞くのどきどきするなー」
「何度も言うけど、私、虫好きじゃないし」
それに。
反撃する隙を与えないように、私はまくしたてた。
「コアオなんとかって名前で呼ぶのやめて。虫、嫌いだから寒気がするの」
「コアオハナムグリは嫌ですか? ほら、ハルジオンの花に頭突っ込んで花粉食べたあとに、顔に花粉つけてるとことか、すごくかわいくないですか?」
「全然わかんない」
「そっかぁ。じゃあきれい系でカラスアゲハさんはどうですか? 羽、青や緑に輝いて見えるとことか神秘的だし」
「全然、わかんない」
「うーん。きれい系もだめかぁ。じゃあかっこいい系でクルマバッタモドキさんとか?」
「もうやめて」
「じゃあなんて呼べばいいんですか!?」
ちょっと怒ったようにそう聞かれて私は思わず「桜子」と答えていた。
「サクラコ? そんな虫いましたっけ?」
「虫の名前じゃないわよ!」
本当に失礼な人!
失礼だし変な人だし。
「あ、そういうことでしたか!」
晴は納得した様子でにっこり笑うと言った。
「桜子さん、いい名前ですね」
それからこう続けた。
王子様みたいなきらきらの笑顔で。
「俺、桜子さんともっと仲良くなりたいです」
と。
そうやって、私たちは知り合った。
彼は最初からずっと誤解をしていて、私があれから何度も虫は嫌いだと言っているのに、それを照れ隠しだと信じて疑わない。
「桜子さん!」
キャンパス内を歩いていると、どこからともなく走りよってきては、私に虫の話をするから困る。
それは講義で聞いた話だったり、本で得た知識だったり、観察していて気づいたことだったり。
虫のことについて話し出すと止まらなくて、私がどんなに適当な相槌をうっていても平気で一時間でも二時間でも話すから困る。
たまに気まぐれに。
本当にまれにだけど、話を聞いている途中にふと感じた疑問を晴にしてみると、リュックサックから大事そうに取り出した昆虫図鑑を見せながら、丁寧に説明してくるから困る。
そこまで専門的な回答なんて求めていないのに、必死で教えてくれるから困る。
学食にいても。
通学途中も。
麻衣や他の友人とおしゃべりをしていても。
「桜子さん!」
私を見つけると、しっぽをぶんぶん振りまわす柴犬みたいに嬉しそうに走ってくるから困る。
困る。
困る。
私は困っている。
そんな彼に。
困る。
困る。
私は困っている。
そんな彼をきっぱりと拒絶できない自分自身に。