――あなたはまるで花のようですね。

それが、初めて彼が私に言った言葉だ。

立てば芍薬(しゃくやく)、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
そんな言葉があるように、美しい女性のことを花に見立てて言うことがある。

花のようですね、なんて言われて嬉しい気持ちにならないなんて言えば嘘になる。

女の子なら誰だってそんな言葉をかけられたら、(しかもそれを言ったのがなかなかの容姿の持ち主の男性であるならなおさら)嬉しいに決まっている。

そう、こんな状況でなければ、誰だって……。

四月。

まだまだ落ち着かない様子の新入生たちがキャンパス内の秩序をなんとなく乱している。

四月の電車がいつもより込むのは、通勤電車に慣れていない新入社員たちが、満員電車内の暗黙のルールを乱すせいだと聞いたことがあるけれど、まさにそんな感じ。

まだ自分がどのカーストに位置するか定まっていない女の子たちは、あいまいな笑顔で群れの中にいて、男子学生はというと、どのサークルに入ればもてるかをリサーチするのに一生懸命だ。

三回生ともなると、そんな新入生がほほえましくて、私にもそんな時期もあったねなんて目を細めながら、医学部と薬学部と農学部が入る、この私立大学のキャンパス内を歩いていた。

やや郊外にあるこのキャンパスは、最寄の駅から直通のバスで二十五分もかかるのだけど、その分敷地面積が広くゆったりとしているので、人気があった。

郊外にある分、家賃も安いし、一人暮らしのマンションから自転車で薬学部に通っている私としては、交通の便が悪かろうとなんら問題はない。

ただ、ひとつ問題があるとすれば。

「あ……」

私は足を止めた。

私の前方、わずかいちメートルほどしか離れていない場所に、見つけてしまったから。

どうして、苦手なものに限って、苦手な人に限って、気がついてしまうんだろう。

どうしてこんな道の真ん中に。
都会だったら絶対にこんな場所にはいないのに。

そろそろと慎重に " 彼女 " を刺激しないように横目で見ながら、私は大きく軌道を右にずらしてそこを通り過ぎた。

無事に " 彼女 " をやり過ごして、そっと振り向くと、 " 彼女 " はゆっくりと休めていた羽を広げて春の空に羽ばたいていった。

黄色いちょうちょだ。
名前は知らないし、興味もない。
虫の中では比較的かわいい部類に入るのだろう。

だけど、蛾とどこが違うのかわからないし、あのひらひらとした羽にはなんと呼ぶのか知らないけど、粉がついているらしい。それに、彼らはちょっと前まで毛虫だったのだ。

ちょっと見た目はかわいくても、あの小さな目とかたくさんある足とか、やっぱり虫は虫だ。

このキャンパスには無駄に虫がたくさんいて、私にとってそれが唯一の不満だったりする。

肌にぞわっと湧き上がった鳥肌をさすりながら、私は薬学部構内に向かって足を速めた。

そのときだった。

「あなたはまるで花のようですね」

彼が私にそういったのは。





彼は私の右前方に立っていた。

155センチの私が首をかなり傾けないと顔を見上げられないほどの長身は適度に引き締まっていて、その上に乗った顔は憎らしいほど小さい。

暖かな春の風に揺れる、柔らかそうな茶色の髪は、寝癖風にちょこんとはねていて、それがなんとも母性本能をくすぐられる感じだ。

涼しげな目もと、すっと通った鼻筋に、口角のきゅっと上がった薄い唇。

あっさりとした白いシャツに紺色のデニム、それに登山にでもいくような大きなリュックサックを背負っていた。

え……?

私のこと、だろうか。

他の誰かに対して言ったのかもしれないと、周りを見回してみても、彼の視線はどう見ても私に向けられていて。

戸惑っている私に彼はゆっくりと近づいてきて、ふわりと微笑んだあと、すっと優雅な手付きで私の左肩に手を伸ばす。

肩に優しく触れられて、思わずぴくりと身を固くすると、彼は少し首を傾けて、もう一度ふわっと微笑むと、自分の手のひらの中のものを「ほら」と私に見せた。

「……ひっ」

目の前に差し出された彼の大きな左手のひらの中には、私の大嫌いな昆虫ーーなんという名前かなんて知らないし興味もない。ただ、黒っぽい虫ーーが載せられていた。

あまりの恐怖と嫌悪感で声も出せない私に、彼はにこにこと話しかける。

「肩に載っていましたよ」

彼はその虫を右手の人差し指でなんだかとてもいとおしそうにそっと撫でると、

「コアオハナムグリって言うんですよ。かわいいですよね。ハルジオンとかの花に潜るからハナムグリ。あなたのこと、花と間違えたのかな。かわいいなぁ」

と、微笑んだ。

花と間違えられても、全然嬉しくないんですけど。
というか、肩に止まってた!?
いつから!?
あぁ、気持ちが悪い。
吐き気がする。

彼の手のひらの虫が小さく身震いしたかと思ったら、ふいにぱっと飛び立った。

「ひぃっ」

その瞬間、私は駆け出した。
飛ぶ虫なんて恐怖でしかない。
虫からもあの変な男の人からも一刻も早く逃げなければ。
肩についていたなんて、出来れば服も着替えたい。

「あれ、どうかしましたか!?」

後ろから男の人の間の抜けた声がしたけど、私は振り向かなかった。

虫を取ってくれたお礼とかどうでもいい。
とにかく、早く建物内へ。
早く虫のいない安全な場所に避難するために。

途中で自分の肩に虫がのっていたことを想像してしまうと涙が出てきて、きっとすごい顔になっていたと思うけど、ピンヒールをカッカッカッと鳴らし、なりふり構わず走った。


ぜえぜえと肩を揺らしながら、薬学部の建物内に入ると、同じ薬学部の麻衣(まい)が私に気づいて小走りでやってくるのが見えた。

「桜子! 探してたんだよ」

「麻衣……、私の肩になにか載ってないよね!?」

「肩? なにも載ってないけど……どしたの?」

「さっき……私の肩に虫が載ってた」

そのまで言って、改めてさっきの出来事を思い出すと、私は思わず「おえ」とえずいてしまった。

本当に気持ちが悪い。あの黒くてもぞもぞとした得たいの知れない生き物がついさっきまで私の肩にのっていたなんて。
無意識に両腕を抱え込むようにさする。

「ええ……虫? ほんと、このキャンパスって虫が多いよね」

私と同じで虫が苦手な麻衣は顔をしかめて、私の肩の辺りを気持ち悪そうに眺める。

「その虫は? 飛んでいった?」

「なんか……よくわかんない男の人が取ってくれた」

「よかったじゃん。もし、まだ載ってても、私、絶対取らないからね」

わかってるって。
もし、麻衣の肩に虫が載っていたって私も取らない。
むしろ、猛ダッシュで逃げる。

「で、なんか用だった?」

麻衣が私を探していたらしきことをふと思い出して聞いてみると、麻衣はそうそう、と嬉しそうにうなづいた。

「今度の新入生に王子様みたいな子がいるらしいよ!」

「あ、そ」

自称男前同好会会長の麻衣がたまに私に回してくる『男前情報』は、どこから仕入れてくるのかわからないけれど、それなりに正確でいつも驚かされるのだけど。
私はあんまり興味がない。
そりゃあ見る分にはいいけれど、あまりにも顔が整った男の人って、実は性格が悪いとか、束縛がきついとか、さもなくば変な性癖があるとか。
なにか裏があるような気がしちゃうのだ。




「なによ、その興味なさそうな返事は」

「興味ないもん」

「王子様だよ? 王子様にも興味ないなんて、桜子ってほんと干物みたい」

干物みたい、だって。
私は、はっはーとわざとらしく声に出してわらってみせた。
あ、そういえばさっき『花のようですね』なんて言われたんだっけ。

「王子様ねぇ。で、また医学部なの?」

「それがね、農学部なの! 私ってさぁ、今まで医学部しかチェックしてこなかったじゃない? まさかの農学部よ。盲点だったなぁ」

私としたことが固定観念に縛られてしまっていた、と麻衣は深いため息をついた。
なんて大げさな……。
いつもながら、この男前に対する情熱というか、執着にはあきれてしまう。

薬学部に入ったのは医者の卵と付き合うためだ、ときっぱり言い放つこの女友だちが、私は心から好きなのだけど。

「医学部の子も薬学部の子もみんな騒いでるよ。桜子、見た?」

王子様ねぇ。
そんなにかっこいい人なら、いくら私でも記憶の片隅には残るだろうけど。

「見てないし、興味もありません」

麻衣は手にしたトートバックをぎゅっと抱えるようにして「よし! 探してくる」と言い残すとくるりときびすを返して走っていってしまった。

「がんばってー」

麻衣の背中に声をかけて、一体なにを?と自分で自分に突っ込んだ。
その王子様とやらは割とすぐに見つかったらしい。
なんでも女の子たちの集団を見つけて近づいてみると、その輪の中に王子様がいたのだと言う。

「背が高くて、髪が茶色くて、ほんとにきれいな顔してるの! にこっと笑ったら歯並びのきらいな歯がきらっと見えるのね! 手足もすらっとしてて、ただの白いシャツがすごくおしゃれに見えた」

お昼時の学食はかなり混んでいて、ちょっと大きな声を出さないとお互いの声が聞き取りにくい。
私は、日替り定食の照り焼きチキンを咀嚼しながら、はいはいとかふぅんとか適当な返事を返した。

「けどね、周りに女の子がいっぱいいたのよ。四、五人に囲まれてた。もう王子様っていうあだ名でよばれてるみたい。あれ、医学部の子かな。全く、医学部は医学部内でなんとかしろっての」

医者の卵がたくさんいるくせに。
麻衣は悔しそうにぼやいて、髪コップのコーヒーを一口飲む。

周りに女の子がいっぱいねぇ。
一体、どんな人なのだろう。
王子様って呼ばれて、本人はどう思っているんだろう。
恥ずかしくないのかな。
なんとなくだけど、女の子に囲まれてすました顔で歩く男の人が頭に浮かぶ。
顔がいい男っていやだな。
性格悪いに決まってる。
見るだけならいいかもしれないけど、仲良くなりたいとかまして付き合いたいなんて、私は思わない。

「ほんとにかっこいいんだから。いくらイケメンに興味のない桜子でも、一度見たらすぐわかると思うな」

そうですかね、と笑いながら、食べ終えたお皿を重ねると立ち上がった。
王子様ねぇ。
同じキャンパスなのだし、そのうち会うこともあるだろう。
私からすれば、イケメンに会うことよりも、虫に会わないようにすることのほうが大事なことなのだけれど。