静かな診察室にふたりきり。

先生だけど先生じゃない保坂先生が、診察以外のことをしてる。

「反則、と言われても……」

この状況、絶対に反則なのは保坂先生のほうだと思う……。

ためらいがちに顔を上げると、愛おしそうに私を見下ろす彼がいて――。

「お願いだから」

眼鏡の奥の静かな瞳が、微かな甘い熱を帯びて切なく揺れた。

「僕専用にして」

抱きしめる力がわずかに緩んで、彼の手が私の頬にそっと触れる。

そうして、細く長いその指がゆっくりとした動作で髪を梳き、その手のひらが耳に触れ、うなじを伝い肩に触れた。

(もう、そうやっていつもこの人は……)

やっぱり、反則なのは彼のほう。

とろけるような甘い空気が、あっという間に理性を奪い、切ない熱をくすぶらせる。

こんなの、求めずにいられるわけがない。

「返事は?」

抗える、わけがない。

「……はい」

「よろしい」

そうして、素直な私に与えられたご褒美は、夢のように甘いキスだった。

唇を重ねるほどにあふれる想い。

想いがあふれるほど互いを無遠慮に求め合い、いっそう深くその唇を重ね合う。

惜しみなく与えあっているのか、奪い合っているのか、或いはその両方か。

肩を抱く力がわずかに強まって、私は呼応するように白衣をぎゅっとつかんだ。

(ああ……もう、こんなこと……)

本当にきりがない。

いつまででもこうしていられるくらい。

なんなら――いつまでも、こうしていたい。

でも、そういうわけにもいかないから。

心の中で切ないため息をつきながら、名残惜しくも唇を離した。

「反則というのはこういうことを言うんです」

照れ隠しに悪態をつきながら、白衣の上からそろそろと彼の背中に腕を回す。

「ごめん、ちょっと調子にのりました」

彼は苦笑いしながら、私の頭をよしよしと撫でた。

「そうだ、調子にのるといえば――」

(うぅ、嫌な予感が……)

「お昼のあれは何ですか、“清水さん”」

旗色が悪くなった私の顔を、彼がじーっと覗き込む。

「答えてください。何ですか、と聞いています」

「えーと……ミイラ、ですね。ただのミイラですよ、ええ」

どきまぎと視線をそらすも、彼が許してくれるはずもなく。

「あんなことをして、まったく君という人は」

「なんかすみません……」

そうです、私も調子にのりました。

半ば開き直る私に、彼の小言は続く。

「いいですか、今後職場でツタンは禁止です」

「ツタン呼び……」

「君ねぇ」

彼は大袈裟に溜息をついて見せた。

「あんなことされたら、仕事が手につかなくなるじゃない」

「えー、ちゃんとついていたじゃないですか」

「ちゃんと“つけて”いたんです。これでもプロなんでね」

ここ以外の照明をほとんど落としているせいか、室内の感じがずいぶん違う。

とてもとてもよく知っている場所なのに、ぜんぜん違う場所のような。

昼間はここでふたりとも、しっかりとお仕事していたのに。

でも――。

「動揺したりとかするんですね、“保坂先生”も」

「君だけです」

「え?」

「こんなふうに僕を振り回すのは、君だけだ」

彼はちょっと困ったように微笑むと、おでこにおまけのキスをくれた。

私は今さらながら、おそるおそる彼にたずねた。

「こういうのって見つかったらクビでしょうか……」

すると、彼からは意外と暢気な答えが返ってきた。

「あー、クビはどうかなぁ。患者さんに手をだしたとかではないし。ベッドで行為におよんだとかでもないし」

「なっ……!? でもっ!」

「なにせ人手不足だからね。ありそうなのは、左遷とか? ほら、ここの法人よそにも病院持ってるし」

「左遷……」

これはちょっとリアルに想像できるかも。

人手不足というのも本当だし。

「もしそうなったら、千佳さん一緒についてきてくれる?」

「えっ」

手と手を取って、向かい合って、見つめ合う。

「どう?」

(一緒にって……だって、そもそも……)

「あの、島流しってセット流し的なことってあるんでしょうか?」

「セット流し……」

「いやその、ふたり一緒に流してもらえるとかはないんじゃないかと。あ、でも!例えば、秋彦さんが遠くへ流されることになったら、私もここをやめて流され先の街で何か仕事探して頑張りますよ!」

私の答えに対する、彼の反応はというと――。

「まいったな、まったく……本当に、君という人は」

なんだか困っているような、それでもやっぱり嬉しそうな、どうにもどこか照れたような、とても愛おしい笑顔だった。

「さあ、そろそろ帰ろうか」

「ですね」

「ん? あれ???」

ちょうど帰り支度を始めようとしたときだった。

彼のポケットのスマホが鳴りだした。

「あ、電話。レイちゃんからだ」

「え? 麗華先生から???」