私はいつもコーヒーにはミルクだけと決めているけど、彼はそのときどきの気分しだい。

ちなみに、今朝はミルクと蜂蜜たっぷり目の気分らしい。

(やっぱり、けっこうお疲れなんだろうな)

この家にはとても高級な純粋アカシア蜂蜜が常備されていて、お砂糖のかわりとして贅沢に使われている。

なにしろ彼は蜂蜜こそ元気のみなもとであると信じているから。

なんとなくキッチンに立ったまま、私たちは淹れたてのコーヒーを飲み始めた。

「千佳さんは、今日はどこか行きたいところとかある?」

「とくには。秋彦さんは大丈夫です? 昨夜は遅かったんでしょうし。今日は一日お家でゆっくりでも」

「まったく疲れていないと言えば嘘だけど。仕事は思ったより難儀したけど片付いたから大丈夫。それより、今日はやりたいことがあって」

「やりたいこと?」

「うん。ホームセンターの園芸コーナーに行きたいんだ。ベランダで何か育てるのもいいかなと思って」

うちのベランダはわりと広くて、なんならちょっとしたイスとテーブルを置けるくらいの余裕がある。

残念ながら今まで有効活用されていなかったのだけど、それをどうにかしようというわけだ。

「花でもいいし、プランターでも育つ食べられるものでもいいし。どうだろう?」

私はがぜんわくわくした。

「いいですね!すごくいいと思います!」

「じゃあ決まり。でも、出かけるのは午後でもいいかな?」

「いいですよ」

せめて午前中はぐうたらして“何もしない”をさせてあげたい。

私に気兼ねなく休んで欲しかった。

「コーヒー飲んだあと、なんならもう少し寝るのもありなのでは? 私がちょうどいい頃合いに起こしますし」

「二度寝?」

「そうそう。平日の朝は厳禁の二度寝です。それが今なら堂々と!魅惑の二度寝ですよ」

「うーん。二度寝はないかな」

(あらら……)

おすすめはあっさり却下された。

「もうひと眠りも悪くないんだけどね。ただ、こんなにいい朝だから、せっかくなら――」

彼はカップを静かに置くと、同じように私の手からカップを取って隣に並べた。

(この感じって、なんかちょっと……)

不思議と似ている気がした。

“始まり”のとき、彼が眼鏡を外すときのその感じに。

「僕は、もっと別の“平日の朝は厳禁なこと”がしたいな」

とたんに静けさが増し、二人を包む空気が甘く濃ゆく色づいた。

(もっと、別の……)

それはきっと、二度寝よりも、もっともっと魅惑的なこと。

彼の手が私の肩に柔らかに触れ、その手のひらが甘く滑らかに腕を撫でる。

ゆっくりとした彼の動作とは裏腹に、いっそう速まる私の鼓動。

大きくて華奢な手は妙に色っぽく、緩く絡んだ長い指がどこか切なく悩ましい。

「もちろん、千佳さんさえよければだけど」

胸いっぱい広がる甘酸っぱさに、私はたまらず目を伏せた。

決して意地悪なんかじゃなく、彼は本心から私の気持ちを尊重してくれている。

それはわかってる、わかっているのだけど……。

やっぱりいろいろまだ慣れなくて。

自分の気持ちを遠慮なく伝えることも、或いは――特別に大切にされるということにも。

「千佳さん?」

「……やぶさかではないです、けど」

「けど?」

「いやその、だって……秋彦さん本当は疲れているのではないかと」

「蜂蜜を摂取したので大丈夫」

「すごい蜂蜜信仰……」

「千佳さんは、僕が君のために無理をしていると?」

「それはっ」

私たちは互いのために無理はしないと約束している。

それが結局は互いのための優しさであり、ふたりが幸福になることだと納得したうえで。

(ああもう、これじゃあまるで、私が秋彦さんを信用してないみたいになっちゃうし……)

こんな意地悪で優しい追い詰め方ってあるかしら。

本当、聡明すぎる恋人を持って幸せすぎて困ってしまう。

「蜂蜜は万能薬ですもんね」

私はちょっと背伸びをして、彼の唇にキスをした。

私なりの、精一杯の意思表示。