せきをきったように涙が溢れて、私はどうしようもなくしくしくと泣いた。

「嫌な、こととか、いっばい、あっ、て……」

嫌だったこと、悲しかったこと、傷ついたこと、悔しかったこと……ごちゃまぜな気持ちを、そのまま吐露する。

「福山さんの、せいで、段ボール、が……いっぱい来たから」

「段ボール?」

「貴志先生、が……意地悪なのに、高いとこの棚に、つめこんで……嫌なこと、とか、いっぱい言われて……」

「福山さんのミスなのに、君が責められたの???」

「そう、じゃないけど……なんか、バカにされて……でも、言い返せ、なくて」

「とりあえず少し落ちつこうか。そうしたらまた、ゆっくりを話を聞かせて?」

彼は優しく背中をさすりながら、とても穏やかな口調で言った。

「ご飯は食べられそう? 何なら、少しあとにしようか?」

少し心配そうに気遣う彼に、私はふるふると首を横に振ってこたえた。

「お腹、空いちゃいました……」

「じゃあ、すぐにご飯にしよう。支度をしておくから、よければ顔を洗ってさっぱりしてきたらいいよ」

「ありがとう、ございます……」

「どういたしまして。なんて、あたためるだけだけどね」

冷たい水で顔を洗うと思いのほかさっぱりして、頭がいくぶんかすっきりした。

それにしても、あんなに泣いたりして……。

そりゃあ、想定外のことがいろいろあったし。

週末だから電池が切れかかっているというのもあるし。

たまたま生理だったから、気持ちの振れ幅が大きかったのかもしれないし。

あとは――彼の前だと安心して、甘えられて、泣けちゃうから。

お部屋に戻ると、テーブルの上には美味しいそうな中華総菜が並んでいて、ちょうど彼がプーアール茶を淹れてくれたところだった。

「食べられそう?」

「はいっ」

「よかった。ご飯が食べられるなら大丈夫だ」

嬉しそうな彼の笑顔が、私を元気にしてくれる。

「“食事がとれるなら大丈夫”って、町のお医者さんみたい」

「町のお医者さんだよ」

「そうでした」

ふふふと笑う私に、彼もまた楽しそうに微笑み返す。

「さあ、あったかいうちに食べよう」

「食べながら、お話ししてもいいですか……?」

私は遠慮がちに尋ねると、彼は穏やかに笑って快諾してくれた。

「もちろん。君さえよければ、話を聞かせて」

美味しい夜ご飯を食べながら、私は今日の出来事を順を追って話した。

昼休みの休憩室の話から、福山さんの発注ミス、それから――貴志先生とのやりとりまで。

すっかり頭は冷静になっていて、思い出しながら話しても感情が波立つようなことはなかった。

ただ、“全部話していいと言ったのは貴志先生だもんね”と、告げ口よろしく話した感はあったかも……。

「貴志先生がそういう態度に出るとはね」

意外とういか、彼にはあまり驚いた様子がなかった。

「まえにも言ったとおり、僕は君とのことが知られたからってどうということはないのだけど。君が辛い思いをするようなことがあってはいけないと思って。それだけが気がかりだよ」

「心配かけてしまってすみません……」

「君が謝ることじゃないよ。けど、貴志先生は僕らのことを皆に触れ回ったりするだろうか?」

「それ、私もなんとなくないような気がするんですよね」

桑野先生なら失礼ながら何も考えずにほいほい言いふらしそうなものだけど。

そもそも、暴露しようと思えば昼休みのときに言えたはずだし。

保坂先生に乗り換えようとする福山さんに、爆弾投下よろしくぶちまけるということもできたはず。

「貴志先生の学生時代の話については、実はまえから少し知っていたんだ」

「えっ」

「あ、レイちゃん情報じゃないよ。僕の中高の同級生が貴志先生と同じC大医学部でね。ほら、彼はどうしても人を惹きつけるし、まあいろいろと噂が絶えなくて有名だったということで」

「そうだったんですね」

「正直、親からの援助なしで医学部を卒業するなんて並大抵の努力でできることじゃないから。とても立派だと思うよ。彼に比べれば僕なんてやっぱりぬるま湯育ちと謗られても何も言い返せないもの」

「そんなっ」

彼は拗ねてもいなければ、僻んでもいない。

でも、彼だって努力なしでここまできたはずがないもの。

いくら裕福な家庭でも、K大医学部はお金さえ出せば入れるところでないことくらい、私だって知っている。

「千佳さんはひょっとして、貴志先生にいろいろ言われて不安になったりした?」

「えっ」

(どうしよう……)

なんて答えたらよいのか、ちょっと迷った。

でも、迷うなんて不誠実なような気がして、そのままの気持ちを伝えた。

「正直、ちょっと……。私なんかが秋彦さんの家族になれるのかな、って……」

言ってしまってから、やっぱりちょっと後悔が……。

彼を傷つけてしまったのではないか、彼を――がっかりさせてしまったのではないかと。

けれども、彼は悲しがるでも淋しがるでもなく、ただゆったりと微笑んだ。

「『愛の挨拶』、聴いてくれないの?」

「それはっ……聴きたいに、決まってるんですけど」

「僕のほうこそ、不安で仕方がないよ」

「え?」

「千佳さんのご両親のお眼鏡にかなうかどうか、ってね」

彼は情けなさそうに困ったように笑いながら、私のカップに静かにお茶を注ぎ足した。

「家族のことってやっぱり難しいよね。でも、きちんと話をして理解を得られたらと思ってるよ。それが案外すんなりいくのか、時間がかかるのかはわからないけど。君が貴志先生に言ってくれたように、誰のことでもなく“僕らのこと”だもの。何か乗り越えなきゃいけないようなことがあっても、ふたりで解決していけるって思ってるから」

嬉しくて、幸せで、なんだか誇らしくて。

想いがみるみるあふれて胸がいっぱいになった。

そうして、彼はさらに言ってくれた。

「だから安心していて欲しいけど。でも、不安になったときは無理をしないで言って欲しい」

「えっ、と……」

「“ありのまま”の千佳さんで、って言ったことがあったじゃない?」

そう、もっと自分を大切にしていいんだって、教えてくれたのは彼だもの。

「どんな千佳さんも大切な千佳さんなんだから」

(もう、そんなこと言われたら……また、泣いちゃいそう)

でも、涙を見せないかわりに笑顔で答えた。

「私、やっぱりずっと“ここ”に居たいです」

あなたの隣に、あなたの心に――。

あたたかな食卓と、土曜の夜の気楽さと、ほのかに甘いときめきと。

目の前には大好きな彼がいて、足元にはいつの間にかグレちゃんがいて寛いだ表情でとぐろを巻いている。

穏やかな夜が、疲れた心をゆったりしみじみ癒していく――。