貴志先生はコーヒーをくいっと飲み干すと、さらに話を続けた。
「いわゆる“育ち”ってやつは残酷だよね。だって、努力でどうにかできるもんじゃないんだから。保坂センセイの隠しきれない品の良さとか、桑野センセイの世間知らずな純真さとか。本人たち、絶対に無自覚でしょ?」
「おそらく、確かに……」
「さらに厄介なのは、そのどうしようもないものに価値をおく人間が世間にはまあいるってこと。福山さんの反応でわかるだろ?」
私の感覚だとドクターというだけでかなり特別だと思うけれど。
福山さんとしては、ドクターというステータスだけでなく、K医というブランドも重要だったわけである。
「キミはあえて茨の道を行くわけ?」
「そんなこと、貴志先生には関係ないですっ」
「ドラマチックだねえ、身分差の大恋愛? もしも、保坂センセイの家がキミを認めなかったら? それで、保坂センセイが苦しむことになったら?」
(この人はどうしてこんなに私の心を上手にえぐってくるのだろう……)
貴志先生の指摘はあながち現実離れしたものではないだろう。
それでも、やっぱり――。
「何があっても、彼と私の問題です。少なくとも貴志先生は関係ありませんし、私が先生を選ぶこともありませんっ」
思いのほか語気が強くなってしまった。
それでも、貴志先生にはどこ吹く風。
「そう? まあ、選ぶのはキミだ」
「ですから、貴志先生のことは選びません!」
私がいくら強く主張したところで、右から左、糠に釘、暖簾に腕押し……。
ゆっくりと足を組んで、肘掛けに頬杖をついて、余裕綽々の表情の貴志先生。
「おせっかいながら、ボクからキミにひとつ忠告してあげる」
そんなものお断りでも、私に拒否権があるわけもなく……。
「医者ってやっぱりモテるんだよ。福山さんみたいにドクターってだけじゃ満足できない欲しがりな子ばかりじゃないからね。正直、あまり頑張らなくても女の人のほうから寄ってきてくれるわけ」
(それは、そうなんでしょうけど……)
「つまり、保坂センセイだってモテるということ。キミが到底敵わないようなステキな女性が、センセイにアプローチしてくることだってあるかもしれないということさ」
「そんな、こと……」
「まあ、よく覚えておくことだよ。心優しいボクからのアドバイス」
(アドバイスって!)
「あ、今日あったことを保坂センセイに話してもボクはかまわないから。ぜーんぶ話して、センセイの考えを聞いてみるといい。もちろん、その上で、ボクを選んでくれてもかまわないんだけどね」
「ですからっ」
「ここはもういいから、キミは帰りなさい。あとは力仕事になるから、キミにはさせられない。スタッフルームに運び込んだ物品の整理は、ボクから麗華先生に報告して福山さんにさせるようにするから、心配しないように」
「でも……」
「いいから、指示に従って」
貴志先生の表情はとても柔らかかったけど、言葉には異論は認めないという強さがあった。
「それでは、申し訳ありませんが……お先に失礼します」
「ハイ、お疲れ様」
そうして、私はまるで追い立てられるようにしてクリニックをあとにした。
ようやくという思いで帰宅すると、彼の姿はなくて……。
(なんか、疲れた……)
かろうじて手洗いとうがいを済ませると、私はソファーにどっさと倒れ込んだ。
とにかく消耗した。
もう、頭の中がぐちゃぐちゃで、何がなんだか、もう――。
「――千佳さん」
ん? 私を呼ぶ声がするような?
「千佳さん」
(んん? 夢、じゃない???)
優しく揺り起こされてゆっくりと目を開けると、彼がちょっと心配そうに、私をのぞきこんでいた。
「ごめんね、帰りが遅くなってしまった」
私はというと、頭がまだぼんやりとしていて……。
「あ、と……おかえりなさい?」
「うん、ただいま。千佳さんも、おかえりなさいだね」
「あ……はい」
「メッセージに返事がなかったから、夕飯買ってきてしまったのだけど」
この台詞で一気に目が覚めた。
「ええっ」
置きっぱなしのスマホをあわてて見てみると、彼からのメッセージが……。
「ごめんなさいっ、すっかりソファーで眠りこけちゃったみたいで」
本当は、私の帰りが先だったら、夕飯の支度をして帰りを待っているつもりだったのに。
なんだか、情けないやら、ふがいないやら……。
「いいよいいよ。なら、買ってきてよかった。中華の美味しいお店を教えてもらったんだ。千佳さん、中華は平気だったよね?」
「はい。大丈夫、です……」
(秋彦さん、優しいから……)
中華は大丈夫だけど、なんかもう、いろいろ大丈夫じゃないみたい。
「よかった。お腹空いてるよね? 早く食べよう」
いつもの家、いつもの夜、いつも聞いている大好きな彼の優しい声。
(ダメだ、もう泣いちゃう感じだ……)
ピンと張りつめていた心が、崩れるように、ほどけたように、感情が一気に噴き出した。
「秋彦、さん……」
「千佳さん???」
「私っ、今日……とっても……」
「どうしたの!?」
「いわゆる“育ち”ってやつは残酷だよね。だって、努力でどうにかできるもんじゃないんだから。保坂センセイの隠しきれない品の良さとか、桑野センセイの世間知らずな純真さとか。本人たち、絶対に無自覚でしょ?」
「おそらく、確かに……」
「さらに厄介なのは、そのどうしようもないものに価値をおく人間が世間にはまあいるってこと。福山さんの反応でわかるだろ?」
私の感覚だとドクターというだけでかなり特別だと思うけれど。
福山さんとしては、ドクターというステータスだけでなく、K医というブランドも重要だったわけである。
「キミはあえて茨の道を行くわけ?」
「そんなこと、貴志先生には関係ないですっ」
「ドラマチックだねえ、身分差の大恋愛? もしも、保坂センセイの家がキミを認めなかったら? それで、保坂センセイが苦しむことになったら?」
(この人はどうしてこんなに私の心を上手にえぐってくるのだろう……)
貴志先生の指摘はあながち現実離れしたものではないだろう。
それでも、やっぱり――。
「何があっても、彼と私の問題です。少なくとも貴志先生は関係ありませんし、私が先生を選ぶこともありませんっ」
思いのほか語気が強くなってしまった。
それでも、貴志先生にはどこ吹く風。
「そう? まあ、選ぶのはキミだ」
「ですから、貴志先生のことは選びません!」
私がいくら強く主張したところで、右から左、糠に釘、暖簾に腕押し……。
ゆっくりと足を組んで、肘掛けに頬杖をついて、余裕綽々の表情の貴志先生。
「おせっかいながら、ボクからキミにひとつ忠告してあげる」
そんなものお断りでも、私に拒否権があるわけもなく……。
「医者ってやっぱりモテるんだよ。福山さんみたいにドクターってだけじゃ満足できない欲しがりな子ばかりじゃないからね。正直、あまり頑張らなくても女の人のほうから寄ってきてくれるわけ」
(それは、そうなんでしょうけど……)
「つまり、保坂センセイだってモテるということ。キミが到底敵わないようなステキな女性が、センセイにアプローチしてくることだってあるかもしれないということさ」
「そんな、こと……」
「まあ、よく覚えておくことだよ。心優しいボクからのアドバイス」
(アドバイスって!)
「あ、今日あったことを保坂センセイに話してもボクはかまわないから。ぜーんぶ話して、センセイの考えを聞いてみるといい。もちろん、その上で、ボクを選んでくれてもかまわないんだけどね」
「ですからっ」
「ここはもういいから、キミは帰りなさい。あとは力仕事になるから、キミにはさせられない。スタッフルームに運び込んだ物品の整理は、ボクから麗華先生に報告して福山さんにさせるようにするから、心配しないように」
「でも……」
「いいから、指示に従って」
貴志先生の表情はとても柔らかかったけど、言葉には異論は認めないという強さがあった。
「それでは、申し訳ありませんが……お先に失礼します」
「ハイ、お疲れ様」
そうして、私はまるで追い立てられるようにしてクリニックをあとにした。
ようやくという思いで帰宅すると、彼の姿はなくて……。
(なんか、疲れた……)
かろうじて手洗いとうがいを済ませると、私はソファーにどっさと倒れ込んだ。
とにかく消耗した。
もう、頭の中がぐちゃぐちゃで、何がなんだか、もう――。
「――千佳さん」
ん? 私を呼ぶ声がするような?
「千佳さん」
(んん? 夢、じゃない???)
優しく揺り起こされてゆっくりと目を開けると、彼がちょっと心配そうに、私をのぞきこんでいた。
「ごめんね、帰りが遅くなってしまった」
私はというと、頭がまだぼんやりとしていて……。
「あ、と……おかえりなさい?」
「うん、ただいま。千佳さんも、おかえりなさいだね」
「あ……はい」
「メッセージに返事がなかったから、夕飯買ってきてしまったのだけど」
この台詞で一気に目が覚めた。
「ええっ」
置きっぱなしのスマホをあわてて見てみると、彼からのメッセージが……。
「ごめんなさいっ、すっかりソファーで眠りこけちゃったみたいで」
本当は、私の帰りが先だったら、夕飯の支度をして帰りを待っているつもりだったのに。
なんだか、情けないやら、ふがいないやら……。
「いいよいいよ。なら、買ってきてよかった。中華の美味しいお店を教えてもらったんだ。千佳さん、中華は平気だったよね?」
「はい。大丈夫、です……」
(秋彦さん、優しいから……)
中華は大丈夫だけど、なんかもう、いろいろ大丈夫じゃないみたい。
「よかった。お腹空いてるよね? 早く食べよう」
いつもの家、いつもの夜、いつも聞いている大好きな彼の優しい声。
(ダメだ、もう泣いちゃう感じだ……)
ピンと張りつめていた心が、崩れるように、ほどけたように、感情が一気に噴き出した。
「秋彦、さん……」
「千佳さん???」
「私っ、今日……とっても……」
「どうしたの!?」