美しい笑顔も、私にとってはカエルを睨むヘビにしか思えない。

でも、カエルだって非力でもひるむわけにはいかないから。

「おかしなことを言わないでください」

「おかしいことはないさ。ボクは本気だよ?」

まったく質(たち)の悪いことに、おそらく貴志先生は本気なのだ。

それはもちろん、私に純粋な好意を寄せているということではなくて。

純粋な好奇心をもって、本気でおもしろがっているという意味で。

「あり得ないですよ、絶対に……」

「キミは、相手との育った環境の違いとか考えないわけ?」

「えっ……」

「福山さんみたいな玉の輿狙いなら御の字だろうけど、キミはそういう感じに見えないし」

「当たり前です」

私は彼がドクターだから好きになったわけじゃないもの。

決して、そんなんじゃない。

「だったら、辛いんじゃない?」

「え?」

「キミってたぶんボクと同じフツーの人でしょ?」

「フツー、と言いますと……?」

「おおかた小中高と公立で、ボクみたいに大学は地方国立かな。両親は共働きの中流家庭。高校も大学も学費のことを考えて選んだ。そんなとこ?」

「そ、そうですけど……」

(なんでそんなことわかるわけ???)

「保坂センセイはk医出身で、家族も医者ばかり。いかにも育ちのいいお坊ちゃんだ。キミ、自分とは育ってきた環境が違いすぎると思わない?」

貴志先生は調子づいた様子でさらに続けた。

「名家のお嬢さんとかならともかく、キミは医者ってわけでもなし」

「それは……」

私はしゅんとうなだれた。

確かに私はありふれた事務職員でしかなくて、幼稚園や小学校からエスカレーターで名門女子大へ、などというコースとも無縁の人生だった。

友達のお母さんのことを「おば様」なんて呼んだことないし?

習い事なんて、小さいときのスイミングと、小学生からの公文くらいだし?

(ああ、なんか嫌だな、私……)

心のどこかで気にしながら、気づかぬふりをしてきたこと。

ちゃんと向き合うのが怖くて、考えないようにしてきたこと。

悔しいけれど、なんだか完全に打ちのめされた気分だった。

「ちょっと休憩」

「え?」

「くれぐれもボクがいない間にとんずらこいたりしないように」

貴志先生は、まるで子どもに念押しするお母さんのような調子で言った。

「しませんよっ」

「どうだか」

そうして、先生は思わずむきになった私を見て愉快そうに笑うと、さらっとクリニックの外へ出て行った。

(もう、なんだかなぁ)

ガーゼの類(たぐい)を吊戸棚に収納できて、気づけば段ボールの山もずいぶん片付いていた。

とりあえず、貴志先生が足台がわりに使ったパイプ椅子を定位置に戻してから、私は待合室の長椅子になんとなく掛けた。

程なくすると、貴志先生が戻ってきた。

「キミはコーヒーよりも紅茶だよね?」

「えっ、あ、はいっ」

差し出されたのは缶入りのミルクティー。

(先生、わざわざフロアにある自販機にこれを買いに???)

「よかったらどうぞ。毒入りだけど」

「こういうときって、毒なんて入ってないよとか言いません?」

「さあね」

貴志先生はミルクティーを私に手渡すと、自分は少し離れた場所に掛けて、ブラックコーヒーの缶を開けた。

(先生、私が職場ではあまりコーヒーを飲まないって知っていたのかな……?)

「あの、ありがとうございます。いただきます」

茶葉もミルクも多めのちょっと濃いめのミルクティーは、疲れた体にかなり沁みた。

「ボクってさ」

「え?」

「人の役に立つ仕事がしたいとか、そういう高尚な理由で医者になったわけじゃないんだよね」

貴志先生は缶コーヒーを飲みながら、ふいに思い出したように話し始めた。

「ボクの実父というのは本当にどうしようもないクズでさ。金と女にだらしなくて。それで、ボクがまだ幼いころに両親は離婚。ボクが中学生のときに母親は再婚したんだけど、その相手も残念ながらあまりいい人とは言えなくて」

とりとめもなく話す貴志先生の表情は、とても穏やかで、けれどもどこか少し淋し気に見えた。

「外に女こそ作らなかったけど、浪費癖のある人でさ。母親はなんだかんだでずっと金に苦労する人生で。ボクはそんな家が嫌で嫌で。地方の国立大に行ったのは、とにかく家を出たかったから。医学部に行ったのは単純に金持ちになりたかったから」

一瞬だけ、「なーんて、うそだけど」みたいなオチがつくのではと疑った。

でも、貴志先生がまとう空気から、そうではないことを察することができてしまった。

オチがつく作り話ならよかったのに、私がからかわれているだけのほうがよかったのに。

なんだかひどく切なくて、胸がちくんと痛んだ。

「そんなんだから、大学んときは勉強とバイトだけの生活で。サークルなんて“何それ食えんの美味しいの”みたいな。国立って言っても金持ちの子どもらが多くて。奴らが親の金で遊んでいる間、ボクは夜のお仕事に勤しんでいたわけ」

「それってひょっとして……」

「ボク、けっこうな売れっ子ホストでさ。まあ、金も稼がせてもらったけど、人生勉強もずいぶんさせてもらったよね」

(なんと……!)

まさか、本当に本物のホストだったとは。

なんだかいろいろなことが腑に落ちた気がした。

貴志先生が持っている、話を聞き出す話術とか、顔と名前とエピソードをセットで覚える記憶術とか、女性に対する鋭い観察眼とか。

それと、男性に対して距離をとりがちになる理由も。