フロアタイルの音がカツンと反響して見開いた私の瞳に映る、冷たい眼差しで口角を上げた佐川専務。
忽然と触れ消えた淡白な感触に、何が起きたのかまだ理解できない。

これが、ただの悪夢ならどれほど良かっただろう。

「君が振り向くまで諦めないよ」

専務は硬直する私に不適な微笑みで言い残し、オフィスを出ていった。



知らない指先に囚われた両頬が気持ち悪い。
擦れたリップの跡が生々しくて、力任せに手の甲を押しつけた。

「……酷い」

突然、あんなことするなんて。
込み上げる怒りの矛先は佐川専務。
じゃなくて、私自身。

司さんに言われてたのに。
私、よくわかってなかった。

勤務時間になってもオフィスのドアが開くたびフラッシュバックする光景。
涙が溢れそうになるのをこらえて、PCの画面に薄っすら反射する自分を呪った。



「美琴?今日はいつになくボーッとしてるわね」
「……理子先輩」
「ほら、ランチ行こうよ」
「……ランチ?」
「あんた大丈夫?もうお昼よ」
「私、食欲ないのでいいです」
「なに言ってんの。宮内部長に頼まれてんだから、行くわよ」
「……え?」
「一人にしないようにって。昨日の夜、大介に電話きたみたい。本当優しいわよね」

司さん……。
会いたい、抱き締めて、キスしてほしい。
だけどこんな私、嫌われてしまうんじゃないかと怖くなる。

「……っ」

堪えていた涙が、ボロッと落ちた。

「なっ、なに!?どうしたの?」
「……なんでもないです」

首を横に振りながらゴシゴシと目を擦る。
コンタクトがずれて余計に涙が滲んだ。
理子先輩は溜め息を吐いて、食堂へ行くはずの佐々木先輩を呼び止めた。

「ちょっと大介、コンビニでお昼買ってきて」
「なんで俺が!?……あれ、田代さん?」
「いいから、早く行ってきてよ」
「……うん」


やがて二人だけになったオフィスで、苛立ったようにガシャンと椅子に腰を下ろす。
迷惑をかけないよう唇を噛み殺すのだが、上手くできず湿った息が漏れる。
また憂いに溜め息を吐いた理子先輩は、私の想像と違って優しかった。

「なんかあったの?宮内部長と喧嘩?」
「ち、ちがっ……」
「じゃやっぱり佐川専務ね。今日一度もオフィスに顔を出さないのと関係ある?」
「……っ」
「一人で溜め込むより、話したほうが少しは楽になるんじゃない?」
「……」

誰かにすがりたかったのは本当。
優しい言葉じゃなくていいから、責めてくれるだけでもいいから。

そう思って、朝の出来事を話した。