「なんで、野球、またやる気になった?」

「ハッ?」

拓海はびっくりして健大のほうを見る。だけど健大は目をつぶったまま寝ているのか、
起きているのか拓海にはよくわからなかった。

「しってた?やってたの」

拓海はゴロンとうつぶせに体勢をかえて訊き返した。

「ああ」

「なんで?」

すると健大は自分が歯を折ってしばらくマスクをして登校していた時のことを拓海に話して聞かせた。拓海が心配して健大に話しかけたあの日、のことを。

「はじめてしゃべったよな」

「そうだっけ?」

「ああ」

「カン、いいじゃん」

拓海は笑ってそう言った。

「まあな」

健大も閉じていた目を開いて笑い返した。上空は少し風が出てきたのか、
秋の雲がスッーっと東へ流れて行った。

「オマエが入ってくれてよかったよ」

いつの間にか態勢を変えて健大もうつぶせになっていた。

「たぶん、入んないんじゃないかって思ってたから」

ふたりとも靴も脱いで膝から下をまるで何かの練習のように動かしている。

「なんでやめたのか、いまじゃわかんないし」

手のひらを下にして芝生の上に乗せ、その上に顔を当てていた拓海の左頬は赤くなって、
少しだけ芝の跡もついている。

五時間目終了のチャイムが遠くから聞こえてきてそれに続いて実行委員がなにかマイクを使ってしゃべっている声も流れてきた。

「親への反抗?だったりして」

健大はポツリとそう言って、それから言い直した。

それは拓海への気遣いのようにも
聞こえた。

「そんなことないか」

そして、しばらくして言い繋いだ。

「うちのオヤジ、浮気してんだよな」

拓海は流れる雲を見ながら健大の言葉を心の中で反芻してみた。

やめた理由が良くわからないんだからまた野球をやることにした理由も良くわからない。
だけど健大が言ったことは拓海の心に響いた。

教会の鐘の様に。なんどもなんども。                         

 
 教室の片付けが終わってF組の野球部員たちは商店街の店まで借りていたものを
返しに行った。

そしてそのまま勇士や啓太たちと合流して二駅さきにある
バッティングセンターへとくり出していった。
啓太が
「からだがナマッチャいけない」
と言って拓海たちに声をかけたのだ。

「そうだな」

勇士も即答した。

なんたって新監督の口癖がもう全員の耳について「離れない」のだ。

「いちにち休めば三日かかる、いっかげつ休めばさんかげつかかる」

つまり取り戻すには三倍かかる、というのだ、新監督のヤキュウリロンでは。
もうイヤというほど聞かされているのでいい加減レベルの低い彼らにも理解できる。

そして新監督は最後にこう訊いた、全部員の前で。

じゃあ龍ヶ崎、
「さんかげつ休んだらとりもどすのにどんだけかかる?」

 バッティングセンターに着くと啓太たちは口々にこう言った。

「オレ、昔よくここ来たよ!」

そう、東京から引っ越してきた拓海以外はみな、ここのあたりの生まれで育ちだ。
そして小学生のころから野球をやっているのだ、常連で「当たり前」だ。

さっそく誰彼となく打ち出すと、みな自主練の成果が出ているのか、目に見えて
上達していた。打球の速さ、ボールをとらえる正確性、明らかに以前とはレベルが
違っていた。

ひととおり全員が打ち終えると勇士が驚くように
「マジかよ、みんなスゲ~な」
といくぶん大袈裟に聞こえるように言った。

でもそれは決してオオゲサ、じゃなくみんながそれくらい上達していたのだった。

途中、十分くらいのジュース休憩をはさんで全員が五回づつ打つと
「そろそろ行くか」
と健大が言い出したのでみんなはバッティングセンターをあとにして駅へと歩き始めた。

もうあたりはすっかり暗くなってうすら寒くさえなっている。啓太が
「今日はどこもよらず真っすぐ帰ろう」
と言うのでみんな、そうすることにした。

上り列車に乗るもの、下りに乗るもの、
それぞれいたが改札に入ると健大が拓海に話しかけてきた。

「なあ、今日、うちに来ないか?」

健大はうっすらと笑みを浮かべていた。

「いいの?」
と拓海が訊くと
「いいよ」
という。

拓海はじゃあ、と言って祖父母の家に電話を入れると健大の家へと一緒について行った。

健大の自宅の最寄り駅についたふたりはトボトボと人気のない歩道を歩き始めた。
肌寒い、を通り越して本格的に寒くなってきたようだ。

「ねえ、さっきの話、ほんとうなの?」

拓海は今日の午後、学校のグラウンド後方の芝生の上で、健大とふたりで寝ころがりながら聴いていた話を思い出していた。

「オヤジの浮気のことか?」

健大は偶然、父親の携帯を見てしまったこと、そしてその文面からほぼ間違いはないであろうことを拓海に話して聞かせた。拓海はなんとなく健大の父親と顔を合わすのが憚られて
「今日、いるの?」
と尋ねてみた。

すると健大は
「イネ~よ、イサセね~よ」
とやけに小ざっぱりと笑いながらこたえた。

ふたりは寒くて真っ暗だった帰り道を我慢してやっとのこと家に着くと、本当に父親はまだで母親と弟がいただけだった。

拓海はなにかホッとした気分になって、そして少しだけ救われたような気がした。

ふたりは夕飯を終えると外に素振りをしに出てみた。
さっきよりは当然気温は下がっているはずなのに、夕食を食べたばかりだからなのか、
不思議と辛くなるほどの寒さは感じなかった。

健大は三本おいてあるマイバットのうちの一本を拓海に貸すと、自分も一本を手にしてさっそく振り始めた。

「いつもどれくらい振るんだ?」

五分くらい無心でバットを振ったあと、健大が拓海に話しかけてきた。

「一時間くらいかな、アップとクールダウンいれて」

「ずっとか?」

「野球、始めたときから」

「オヤジに、教わってたんだろ?」

「まあ」

「うちのオヤジは、野球、ゼンゼンしらねえんだよ」

「そのほうが、いいじゃん」

「そうか?」

「だって、メンドクせえし、知ってると」

「そんなもんか?」

「そんなもん」

ふたりのバットを振る音、冷たく凍え切った空気を切り裂くような鋭い音しか
あたりには
聞こえなった。

「やっぱ、お前は恵まれてるよ」

健大はバットを持ったまま、視線も拓海には合わさぬまま小声で、でもしっかりとした
口調でそう言った。

「なんで?」

拓海は不思議に思ってそう訊き返したのだけれど、それっきり健大は黙ったまま再びバットを振り続けた。

その日はそのあと互いに家族の話はまるでしなかったのだった。

それは多分、話したいようで話したくない、訊きたいようで訊くのは気が引ける、そんな微妙な感情がふたりの心の中で共通していたのかもしれなかった。

そのかわり健大は拓海の知らない今までの野球部のことや女他のクラスの女生徒のことなんかをいっぱい聞かせてくれた。

拓海も東京時代のことをずいぶんと健大に話して聞かせた。

ふたりはほとんど明け方
近くまで話し込んでしまいあくる日はたがいに寝不足になってしまって、授業中は
ほとんどブチョウ先生より禁止令の出ている「居眠り」になってしまった。

まあそれも、青春の一ページなのかもしれないのだけれど・・・・。