未熟女でも大人になっていいですか?

「未熟な私の元へ新しい生命が来たような気がするの」


まだハッキリとはしないけれど、多分間違いない気がする。



「えっ……まさか……」


身に覚えのある男は一瞬で顔をひきつらせた。



「本当か…?」


嘆くような響きにも似ている。


「間違いでなければ、迎えてあげてもいい?」


私と高島の愛の結晶。

これ以上ないくらいの宝物になる筈だ。



「……駄目だと言ったらどうするんだ?」


喜んでくれると思った相手は、冷たい目線を向けて聞き直した。


自由でいたい男を確実に縛る存在。

その奇跡を前にして、両手を挙げて歓迎とはいかない風だ。


「どうするもこうするも粗末にはできないし」


覚悟ができているようで出来ていなかったのかもしれない。

高島の顔を見つめたまま沈黙の時間が流れた。


私から目を逸らした男は仏壇の方へ向き直り、静かに拝み続ける。

バクバク…とした動悸が耳の中にこだましてきて、余計に心配が広がっていく。



もしも、高島が産んではいけないと言ったら……

その時は……どうすれば……いい……?









「………産んでいいよ」


横を向いていた男の顔がこっちを向いた。

バクバクと打ち震えていた心音が急に跳ね上がる。


 
「……産んでいい…って言うか、産んで欲しい」


真面目そうな顔が赤く染まった。


「婆ちゃんも望んでいることだし」


「の、望さんは!?」


思わず問い質してしまう。



「俺?まぁそこまで熱望もしてなかったけど……」


「でしょうね……」


しょんぼりと肩を落とす。



「でも、できないで欲しいと思ったことは一度もねぇぞ」


明るい声が返ってきた。



「えっ!?」


微かに膨らむ期待。

高島は私の手を持ち上げ、両手でぎゅっと挟んだ。


「アラフォーだから無理はしなくてもいいと思ってた。でも、本当なら体を大事にして元気な子を産んで欲しい。

一緒に育てていこう。カツラと俺の子供。…あっ、でも、これでまた暫くお預けだなぁ……」


残念そうに呟く。

さっきの不満そうな顔はそっちのことが気になっていたせいか。



「もうっ、望さんったらヒヤヒヤさせて!」


縮こまりそうだった心臓が、ホッとしたように脈を打ちだす。

鎖骨の上に額を乗せ、馬鹿馬鹿!と胸を叩いた。



「ごめん、ごめん」


よしよし…と子供のように後ろ髪を撫でられる。



「良かった……嬉しい……」


涙が頬を濡らす。


30歳をとっくに越して、出産どころか妊娠もできるかどうか不安だった。

その中で気づいた今日の出来事は何よりも嬉しい吉報に違いない。



「婆ちゃん達に知らせるか」


「でも、まだハッキリしていないし」


「いつになったら分かるんだ?」


「多分、検査薬を使えば簡単に」


「よし!買いに行こう!」


「えっ!?今すぐ!?」


言うが早いか立ち上がっている。


「望さん、待って!」


今はまだ不安定期だから走りたくても走れない。



「カツラは待ってろよ」


「嫌よ。一緒に行く」


お互いの手を取り足を支えながら、大人への階段を上って行こうと決めたじゃないの。



「だったらゆっくり行くか」


「うん、帰りに美味しい物でも食べて帰りましょ」


「気分悪かったんじゃねぇのか?」


「それ急に治った!」


「現金なやつ」


「あはははは…!」


笑い飛ばして歩き始めた。


外へ出ると、夏雲が高く広がっている。



「今夜もむし暑くなりそうだな」


「だって、夏真っ盛りだもん」


お互いの腕を組みながら、蝉時雨の中を歩みだす。

これからもこうして、季節を共に過ごそう。




………そして望さん、




私達





ゆっくり大人になって





いきましょうね……。







続編 END




*この後、番外編もあります*


…………ポトッ。


(ポト?)


右の肩口に何か落ちた。

まさか、鳥のフン!?と思いつつ、思わず服を確認してみる。



(何!?この黄色は……)


鳥のフンにしてはやけに明るい。

おまけに直ぐに染み込んだ。


「えっ!!シミ!!!」


ギョッとして空を見上げ、まさか…と思った矢先にまた降ってくる黄色い水。




……水じゃない。



これはどう見てもペンキ。



しかも、あろう事か蛍光塗料じゃないの!



「ちょっと!そこのあんた!」


足場の上に立つ男に向かって怒鳴る。


「は……?僕ですか?」


呑気そうに見下ろす。


「僕ですか?じゃないわよ!どうしてくれんのよ、このコート!買ったばかりの新品だったのに、ペンキの色が付いてしまったじゃない!」


「あ……」


「あ……じゃない!何とかして!」


「なんとかと言われましても……」


「とにかく早く降りて来てっ!!」


ぎゃあぎゃあ騒がしい女だと思われても平気。

だって、このコートは会社で働き始めて一番最初に買ったばかりの一張羅だから、形振りなんて構ってられないんだ。



ガシャガシャと音を立てて足場から降りてくる男。


年の頃は同じくらい。

身長は頭一つ分くらい向こうが高い。

薄っすらと日に焼けた肌、澄んだ瞳。

荒ぶれた様子もなく、どちらかと言うとバンビみたいな優しい顔立ちをしてる。


そのオドオドと震えた眼差しを私に向けながら近づき、深々と頭を項垂れた。


「本当に申し訳ございません!」


男らしいのは認めよう。

素直なところも好感が持てる。

でも、それを差し引いても許せない!


「このコートは私が自分の初任給で初めて買ったものなの!だから、何とかしてこのペンキを落としてよ!」


「そう言われましても、僕にはどうやったらいいか……そのペンキは油性ですし、落とすとなると強い薬剤を使用しなくてはいけなくなる。そうすると服の生地が傷んで、尚のこと着れなくなります」


「そんなことあんたに言われなくても知ってる!でも、私はこれが気に入って買ったの!だから、何とかして!」


20歳過ぎた女が幼な子みたいに駄々こねるのもタブーな気はする。

でも、ホントに悲しくて悔しい!


「本当にすみません。謝ることくらいしか僕には方法が見つからない」


頭を更に下げて謝り続ける左官工の男。

その旋毛を見つめ返して、向かっ腹立ったから言い返した。


「それじゃあ、せめて新しいコートを買い直して!このコートと同じくらい上等な物を!」


「そう言われましても、今は持ち合わせがありません」


狼狽えながらも拒否はしない。


「誰も今直ぐ買ってとは言ってないでしょう!でも、なるべく早くして!」


根っからの強気な性格を発揮してしまった。

鼻っ柱の強い私を見つめ、左官工は肩を落とす。


「分かりました……弁償させて頂きます……」


ションボリと泣きそうな瞳をしてる。

バンビのように気弱な男を虐めているようで、こっちは凄く後味が悪い。


「私、平日は仕事で毎日この道を歩いてる。だから買えたら声をかけて。素敵なコートを期待して待ってるからお願いね!」


問答無用を押し付けて踵を返した。

二、三歩先に進んで「そうだ!」と声に出して向き直る。


「あんたの名前は何?私は『山縣 蜜(やまがた みつ)』と言うの」


「あ…僕は『仙道 保(せんどう たもつ)』と言います」


「船頭さんね。左官工なのに船頭なんて、あんた職業間違ってんじゃない!?」


自分が勘違いしてるのは棚に上げて、あははは…!と声を立てて笑った。

左官工のバンビはぽかんとした顔つきで、笑いもせずにこっちを見てる。


「こほん。…じゃあ頼むわよ!」


馬鹿みたいに1人だけ笑うのを止めて家に戻った。

玄関口の扉を開けて中へ入ると、父がすっ飛んでやって来る。



「蜜、お帰り」


「父様、只今戻りました」



父の『山縣 徹(やまがた てつ)』は、長女の私にメチャクチャ甘い。

幼い頃から他の兄弟達よりも愛されて、今でもそれは続いてる。



「仕事はどうだい?楽しいかったかい?」


ほくそ笑むこの表情は苦手だ。

楽しくも面白くもないあの会社のことを一切悪くも言えなくなる。


「うん、まあまあ」


適当に答えておく。

それで父の機嫌が良ければそれでいい。


「そうか良かった。あっ、仕事の帰りに餡蜜を買ってきたぞ。食べるか?」


「餡蜜!?食べる食べる!」


二つ返事で玄関を駆け上がり、コートを脱いで思い出した。


「あ……そうか、これもう着れないんだ……」


ガッカリしながらペンキの染み込んだ部分を見つめる。

肩口以外にも袖や背中の方にまで数滴付着してる。



「悔しい。大のお気に入りだったのに」


ブツブツ文句を言う私を父が振り返って見る。


「何か言ったかね?」


「ううん!何も。着替えたらすぐに行く。居間でいいよね?」


「いいよ。慌てずにおいで」


父は嬉しそうな顔をして逃げる。


その背中が鬱陶しいと思うことが少なからずある。

でも、この狭い鳥籠を逃げ出すだけの勇気はまだない。



「ハラ立つからさっさと着替えてしまおう」


バサッと藤色のコートをハンガーに引っ掛けた。

明日からはまた、隣に掛かったグレーのコートを着なければならない。

季節はやっと花の時期を迎え、新緑が伸び始めようとしてるのに。


「本当に悔しい!あの左官工め、買い直すまで絶対に許さないんだから!」


バンビな左官工の彼と恋に落ちる前の一瞬の出来事。


それを運命と語るには、まだ早過ぎる春のことーーーー。



1週間ほど前だ。

苦手なペンキ塗りをさせられた。

会社の現場監督でもある爺さんは、半人前の僕を揶揄うのが楽しみらしい。



「お前も左官の端くれならペンキ塗りくらいできるだろう」


この会社に勤め始めて3カ月、ペンキで壁を塗ったのなんて数える程しかない。

不安を隠しつつも塗料の缶を開け、刷毛を突っ込んで作業を始めたのはいいけれど。



「ちょっと!そこのあんた!」


あんた呼ばわりされて振り向くと、足場の下に怖い顔をした女がいる。


「は……?僕ですか……?」


何故にそんなにも恐ろしい顔をしているんだと思いながら見下ろした。


「僕ですか……?じゃないわよ!どうしてくれんのよ、このコート!……」


甲高い声を張り上げて怒鳴りつけ、終いには「降りてきて!」とまで付け加えられた。



(やれやれ、ついてない……)


重い体を引きずりながら足場を降り、女の前に立った。


頭一つ分くらい背の低い女はパッと見美人で驚いた。

くっきりと目鼻立ちの整った顔で、怒っていなければ尚いいのに…と思われる。


「本当に申し訳ありませんでした!」


謝っても怒りは鎮まりきれず、とうとう上着を買い直して…とまで言われた。


「でも、今は持ち合わせがありません」


冗談じゃないよ…と開き直りたくなるのを我慢していると、女の方は更に怒って息を巻く。


「誰も今すぐなんて言ってないでしょう!でも、なるべく早くして!」


やっぱり諦めないんだな…と言いたくなるのを抑えて頷く。

少しだけ満足そうな表情に変わった女は、買えたら声をかけてと言った。


(あーあ、こっちの給料安いのに上等品のコートを買えっていうのか……)


心で泣いて女の背中を眺めていると、怒った肩が振り向いて名前を聞く。



「仙道 保と言います」


イントネーションは間違っていなかったと思うのに、何故か『船頭』と間違われてしまった。



「あんた職業間違えたんじゃないの!?あはははは…!」


間違えているのはそっちです…とは言えずに黙っていると、細まった目は大きくなり、恥ずかしそうな横顔を見せて立ち去って行った。



「……最初からそんな顔してればいいのに」


息を吐きながら背中を見送った。


怒り肩の女の恥ずかしそうな横顔を忘れられないまま週が変わり、問題の休日になった。




「……さて、ここからがネックだ」


デパートの婦人服売り場の前でたじろぐ。

買い直せと言われたのはいいけれど、どんな物を買ったらいいのかが分からない。

そもそも本人の服のサイズも知らずに、どうやって品物を見つければいいんだ。



「コートをお探しですか?」


香水くさいマネキンが寄ってくる。


「あ…はい…」


逃げ出せないのはいつものことだ。


「どの様な色味をお探しですか?淡いベージュ?それともパステル調のブルーとか?」


「え、え……と………」