「……アメ」
「もしかしていちご味は苦手でしたか?」
「いえ、好きです。ありがとうございます…」
平塚先生のポケットから出てきたのは小さなピンク色のアメ。普段からこんなのを持ち歩いているのかな……。
貰ったアメをあたしは制服のポケットの中にしまって、テーブルの上に置き去りにしていた課題プリントを持つ。 そのまま理科室から出ていこうと、あたしはこの場から離れようとすると──。
「うわっ」
水屋の下に飛び散った水に、あたしはうっかり足を滑らせる。
その瞬間、平塚先生の前で恥をかくあたしの姿が想像できた。
最悪だ……。
ぎゅっと目をつぶると、いつの間にかあたしの肩には平塚先生の腕が回っていて、強く抱きしめられた。
「大丈夫ですか?」
見上げると、整った顔立ちの平塚先生の顔がすぐ目の前にあった。
「うっかりしてた、床しっかり拭いておけば良かったな。何はともあれ、転ばなくて良かったです」
平塚先生は顔を綻ばせて笑った。本当にあたしのことを心配していたのか、いつもあたしが「嘘くさい」と言っていたような笑顔ではなかった。
「…あっ、ありがとうございます。じゃあ、あたし教室に戻るんで」
平塚先生の腕から抜けて、あたしは早足で理科室から出ていく。
本当最悪だ。
平塚先生の柔軟剤の香りが、少しだけどまだ香っている。
「……あー、びっくりした……」
こんなことなら、ド派手に転んで平塚先生に痴態を晒した方がまだマシだったかもしれない。
今のあたし──いちご味のアメのような顔を平塚先生に見られるなんて、この上ない屈辱だ。
化学の課題プリントは、蒼依に手伝ってもらって、なんとか今日の化学の授業に間に合った。
「ありがとうね、蒼依〜」
「いいよいいよ!大会が終わったら、紅音に化学教えなきゃね」
「本当にポンコツでごめん…」
今回の課題で、蒼依はあたしの化学の出来なさを実感したらしい。
ただでさえ蒼依はバスケと自分の勉強で忙しいのに、あたしのために時間を使ってくれるなんて…。
やっぱり蒼依大好きだ。
「どーしたの紅音〜」
「ん、ささいなお礼」
蒼依に抱きついて、あたしは言う。お礼にしてはずいぶん軽すぎるから、今日の放課後にお菓子買ってあげよ。
そして無事に化学の授業を迎えるあたし。
……全然無事なんかじゃなかった。
「皆さん、無事に課題やって来たようで何よりです。分からないところ、ありませんでした?」
平塚先生の顔を見ると、一瞬で頬が熱くなるのが分かる。おまけに心臓まで苦しくなってくる。
「紅音?顔真っ赤だけど、熱?」
「いや…何でもないよ……」
「そう?」
蒼依にまで心配をかけてしまう様だ。
きっとこうなってしまったのは、あの理科室での出来事だと思う。
その日から、平塚先生を遠くから見ただけで顔を熱くしてしまう。
残念ながらそれを自覚してしまう事が悔しい。
「じゃあ、今日の授業プリント渡しますね」
手に持ったプリントを、平塚先生は生徒ひとりひとりに配っていく。
いつもなら、テーブルに座っている人数分をまとめて配っているのに、今日に限ってひとりひとりに配っている。
「はい、どうぞ」
いつの間にか平塚先生があたしのすぐ隣まできていた。
「どうも……」
なるべく顔を見ないように、あたしはプリントを受け取る。
配られたプリントは、元素記号やわけのわからない記号だらけのプリント。これはいつもと同じだ。
「ん………?」
プリントの端っこに、細くて綺麗な字で小さく何かが書かれていた。
──放課後、理科室で
たったそれだけ。
放課後、理科室で……?
頭の中で、プリントに書かれた文字を繰り返す。
特に深い意味もない。
別に何かの暗号でもない、ただのメッセージ。
隣の人のプリントをこっそり覗いて見るが、その人のプリントにはやはり平塚先生からのメッセージはなかった。
ちらっと平塚先生の方に視線をやると、平塚先生は笑顔でプリントを配っていく。
ついに全部配り終えて、教卓に戻って来るとき、あたしと視線があってしまった。
これ、どういうことですか。
そう目でテレパシーを送っても、当然伝わるわけもなく、ただ平塚先生はニコリと笑うだけだった。
***
あと五分で放課後になる。
化学の時間にもらったプリントを小さく折りたたんで、あたしはてのひらで包む。
キーンコーンカーンコーン……
チャイムが鳴った…!
その瞬間に、なぜだか緊張で身が強ばってしまう。
「紅音、私今日練習遅くなるからさ、先帰ってていいよ」
蒼依は授業道具を片付けながらあたしに言った。
「了解」
そう返事をして、あたしは蒼依よりも先に教室から出る。
行き先は、もちろん理科室だ。