「…な、何もないっ!」

セリフを置き去りにして、私は走り去った。どうせまたすぐに会うというのに、急いでその場を離れた。

「…はぁ、はぁ…」

別に追いかけてくるわけでもないのに全力で走ったため、息は荒れていた。恥ずかしくて高揚していたのも、理由の一つかもしれない。

「…詩音…」

後ろから、聞こえるはずのない声がした。

「急いで走って忘れ物って、かなりドジだな」
「…えっ?」

振り返ると、氷室兄弟がいた。

「…これ…さっき落とした…」

聖都の手にはハンカチがあった。間違いなく私のハンカチだった。走り去る途中に、ポケットから抜けたのだろう。

「あっ…おおきに…」

さっきの話の続きをすることになるのは、目に見えていた。ハンカチを持つ手が震える。

「…なあ…」
「詩音」

二人の声が、やけに耳に残りそうだった。

「…さっき言ってた話なんだが…」

次の言葉によっては、私は万事休すとなってしまう。

「詩音も誰かのことを好きなんじゃないか?」
「えっ…?」

しかし、直都の口から放たれた言葉は、斜め上に線を描いていた。

「誰かのことが好きだから、同じく恋してる映奈と若奈に共感するんだろ。だから、変に首を突っ込んでしまう。そういうことだろ?」
「…まあ俺達も深入りできる立場じゃないからこの辺にしておくが…二人の邪魔だけはしないようにな…」

二人が踵を返す。弱いが乾いている風は、その場で固まった私を棒のように倒してしまいそうだった。