「……若、組長の容態は……落ち着かれましたか……?」
俺は母さんの持ってきてくれた救急箱を受け取り、黒永の手当てをしていた。シゲは男達を連れて行ったあと客間に戻ってくると、心配そうな顔をした。
「んー……大丈夫って言っていいかどうか……薬飲んで多少は落ち着いてるみてぇだけど。はぁ……またいつ体調崩してもおかしくねぇ状態だな……。」
「そう、ですか……分かりました。」
「まぁ、大丈夫だって本人が言ってるんだ。心配ばっかじゃ気悪くするだろうし、今はそっとしとこうぜ。いつも、気にかけてくれてありがとうな、シゲ。」
「……そのご様子から、若と組長が和解なされたのですね。良かったです。」
シゲは嬉しそうに俺に笑いかける。一方黒永は、未だに暗い顔をしていた。
「盛重さん……さっきは本当に、ごめんなさい……勢い余って思いっきり殴って……。」
「いえいえっ、こちらこそ不快な思いをさせてしまいました。アイツらにはきつく言っておきます。それにしても……高校生なのにあそこまで強いとは思ってませんでしたよ。ちょっと油断してましたね。」
シゲは、的確に狙われた左頬を自分の拳で軽く殴るような素振りをする。俺はその赤く腫れたところに湿布を貼ってやると、突然の冷感と痺れるような痛みに顔を歪めた。その後シゲは、ありがとうございますと微笑んだ。
「……俺……帰る。」
「えっ!?……どしたんだよ。」
「だって……お前の親……体調崩してるんだろ?そんなときに俺は、問題起こして……迷惑にしかならないだろ……だから、帰る。」
「そんな……こっちだって迷惑かけてんだろ……!過去のことも、今の騒ぎだって、元は俺らが悪いんだから、気にすることねぇって!だから……帰んな……。」
俺は黒永の裾を少し引っ張った。ふつふつとこみ上げてくる何かを感じながら、少しずつ手に力が入ってくる。必死に黒永の顔を見つめ、帰らないでほしいと目で訴えかける。
『帰るな……行くなっ……雨。』
「……コウ……。」
「雨……帰るな……お願い、だ。」
「っ……分かったから……その、顔……やめろ……可愛過ぎるから……。」
黒永は俺の手をそっと握り、テープの貼られた痛々しい手で口元を隠した。黒永の顔は、ほんのりと赤みを帯びているように見えた。
「……帰んねぇから……甘えた声で、俺の名前を呼ぶな……どうしようもなくなるだろ……。」
「……はぁっ!!?……甘えてなんかっ……甘えてなんかねぇっての!!」
自分の発言に赤面し、黒永の手を思いっきり振り払った。そのとき、古びた時計が8時を知らせる鐘を鳴らした。
「……なんともまぁ、微笑ましいじゃないか。」
「っ!?お、親父っ!!?」
廊下と客間の境でこっそりと見守るように、親父はそこに立っていた。シゲは親父を見るなり、親父の近くまで駆けつけた。
「組長っ!……もう、大丈夫なんですか……?」
「心配するでない、この通りだ。ありがとうな盛重……どうやら騒ぎは落ち着いたようだな。」
「……あなた……。」
母さんが心配そうに親父のところへ行く。
「……すまないな椿……今まで黙っていて、これでやっと……お前の辛そうな顔を見ずに済む。」
「っ……話して貰えれば、協力しました……でも、あの子がいいなら……それでいいわ。」
「本当に……すまなかった。さあ、部屋に戻るといい。疲れただろう。私はまだ、やることがある。」
「……無理はしないで下さい。あなたは、ここにいる人にとってとても……大切な人なんだから。」
母さんが奥の方へ行くのを見越して、黒永は口を開いた。ガチガチになりながら、親父に向かって頭を下げ謝罪する。
「く……組長、さん……さっきは、うるさくしてすみませんでした……それに……組の人達を、思いっきり殴ったりして……。」
すると親父は、シゲの顔を見てふふっと笑うと口を開いた。
「おぉ……成人を2回も迎えた大人が高校生に負けるとは、この組も随分と平和慣れしたものだな……なぁ、盛重よ。」
「はぁ……仰る通りです組長……あと、まだ2回は迎えてません……私はまだ38歳です。」
「そうだったか?もうほとんど40じゃないか。それとまぁ……また口の悪い者の悪ふざけがすぎたな……大変失礼なことをした。黒永……雪光の息子よ。」
「っ……!」
黒永は顔の色を変えた。親父はソファーへと座ると、黒永と俺に座るよう言う。
「この話をするにはまだ早いかもしれんが……いつまでも話さない訳にはいかんだろう。向陽、お前も聞くがいい。」
「……いいのかよ、雨……俺なんかが関わっちまって……。」
「いいんだ……それに、俺1人じゃ……この圧迫感で心臓潰れる……むしろ、一緒に居てくれ。」
「お、おう……分かった。」
「さて……どこから話そうか……これはだいたい15年前、ある企業がこの地域付近に大きな邸を建てた。大層金のかかった豪華な建物で、出来上がったときは誰もが目を見張るものだった。」
「それは……俺の家のこと?」
「そうだな……黒永邸と呼ばれ、その豪邸に仕える者を雇っておったこともあったな。そして、私のところにも依頼があった。金貸しと、護衛。それが、黒永雪光との出会いだった。あのころの雪光は、才に溢れておったな。集まる人々を魅了する力と、合理的で画期的なアイデアを次々と創り出す……まさに天才であった。」
「……天才……。」
黒永はどんどんとのめり込んでいった。物語を聞く子どものように目を輝かせた。しかし、話が進むにつれてその目の輝きは失われていった。
「ところが、世の中がうまく回りすぎると、知らぬ間に自ら沼へとはまって行く。雪光は自分の才能に酔いしれ、周りの人々を道具のように扱うようになっていった。使用人、親族、我々組の者、そして身内でさえもな。」
「っ……酷いな。」
思わず俺は呟いた。口に出すつもりはなかったが、考える前に口からこぼれてしまう。
「あぁ、なんとも酷い話だ。多くの人が犠牲になった。非人道的な罰、私刑、制裁などとぬかし、傷ついていく人々を我々は、ただ見ていることしか許されなかった。どんなに酷いことをしていても、手を出すことは許されなかった。大きくなり過ぎた企業に、我々のような小さな極道などではかなわなかった。下手に手を出せば潰されかねん。」
「……もしかして、俺……会ったこと、ありますか……?」
黒永の記憶の奥に眠っていた引き出しが徐々に開いていく。親父は少し驚いた顔をした。
「ほぅ……そんな昔のことを覚えていたのか……恐らく、小学生か、もしくはそれより少し前に会っている。よく覚えていたな。」
「やっぱり……あのときの、怖い人……。」
黒永の顔は怯えていた。やはり、子供の頃の強い印象が焼きついているようだ。唾を飲み込むのが、喉の動きで分かるくらいだ。
「ははっ……怖い人か、そうだろうな……こんななりをした大人がうろうろとしていれば、怖がるのも当然だ。」
「……すみません……突然、変なこと……。」
「構わん。正直で何よりだ。」
親父は一息つくと、机に出されたお茶をすする。
「……あの火事の中での出来事は、黒永君自身がよく分かっているだろう。私も、燃え盛るあの邸で肺を焼かれた。」
「!?……嘘……病気なんじゃ、ないんすか?」
「病気、か……確かに、肺を患っていることは確かだ。しかし肺機能の著しい低下は、熱気や灰によるものが1番の原因と言えるだろう。長くその場に居すぎた……自業自得だがな。」
「自業自得って……どういう……。」
「お言葉ですが組長、それは違います。自業自得などではありません。」
シゲは湯のみにお茶を注ぎながら言う。シゲもこの話の関係者のようだ。
「雪光殿が、組長を襲ったりしなければ……肺を患うことはなかったのです。責任は……親族の依頼を受けた私達にあります。」
「親族の……依頼……?」
「……これも話すべきか……少々刺激の強い話だが。」
「……なんすか……その話って。」
親父は深いため息をついた。言いづらそうに苦い顔をするが、意を決して口を開いた。
「黒永家のある親族から、依頼を受けた。その依頼の内容は『黒永雪光の失脚を促す』ということ。殺すのではなく、使えなくさせる……酷いことを涼しい顔で頼むものだ。」
「失脚……。」
「そこで我々が考えたのは、雪光を……薬漬けにさせること。少しずつ薬を勧め、金を使わせ、自己破産に至らせる。この方法を選んだのは、我々に被害が少ないからだ。責任は本人がとることになるからな。」
「薬……漬け……。」
黒永は身震いをした。腕をきつく握り、カタカタと震えている。
「雨っ……大丈夫なのか?お前、顔……ヤバイぞ……?」
「……大丈夫……続けて、下さい……。」
「……無理する必要は無い。本来なら、もう少し歳を重ねてからの方がいいくらいなのだから。ここらで、止めておこうか?」
顔は真っ青だった。冷や汗をかき、目には恐怖が浮かんでいた。しばし沈黙をすると、黒永は首を横に振った。絞り出すように弱々しい声で言う。
「っ……知りたいから……最後まで、聞きます。」
「ふむ……分かった。では続けるか。まず初めに、薬を勧めるということは自ら死を急げということ。初めのうちは、雪光は断り続けた。これに手を伸ばせば、自分がどうなるかを知っていたからだろう。だが、次第に話を聞き入れるようになっていった。それは、親族や使用人の自分に対する態度や仕事の失敗。様々なストレスが雪光を廃人へと変えていった。そして、薬に手を出した。」
「……使った薬の種類は……MDMA。」
「!?……見ていたのか?父親が摂取するところを……。」
「……ラムネみたいなものを、いつも持ち歩いていたんすよ。小学……5年くらいのときに、こっそり持ち出して見たことがあって……親父に見つかったときには……鞭で背中を何度も何度も叩かれた……。」
黒永は背中を示すように、肩をきつく握った。父親への恐怖は未だに拭いきれていないようだった。
「……親としても、人としても、変わってしまったのだな……酷いことをするものだ。」
「……雨、大丈夫か?」
「ん……大丈夫だ。あの……組長さん、俺の親父が組長さんを襲ったって……どういうことっすか?」
「……あの薬は、強い幻覚作用を起こす。使用し続ければ、当然見えているものはすべて恐怖となる。あの日、雪光が火事を起こしたときに私は……ちょうど麻薬のディーラーとコンタクトを取っていた。薬を受け取り、雪光に薬を渡しに行く為彼の部屋に入ったとき、その部屋はもう炎に包まれていた。そのときの光景はまさに……地獄であった。」
「申し訳、ありませんでした組長っ……もう少し私が、早く到着していればっ……!」
シゲは肩を震わせた。大火事のことを思い出し、過去の自分がしたことを悔やんでいた。親父はシゲに笑いかけると、なだめるように言う。
「今更悔いても仕方が無いだろう。しかしあのとき盛重が助けに来なければ、私は今ここにはいない。なにより……1番に私を見つけ、助け出したのは盛重じゃないか。」
「っ……もっと早ければ、傷を負うことも……肺を患うこともなかったかもしれません……雪光殿を止めることだって……。」
「……シゲ。」
「……若……?」
「親父がありがとうって言ってんだ。こんなこと、俺が言う権利はねぇかもしれねぇけど……親父のこと助けたんだから、もっと胸張ってもいいとおもうぜ。」
「あぁ……向陽の言うとおり、感謝してもしきれんくらいだ。本当にありがとう。」
「っ……。」
シゲはうつむいて黙ってしまった。しかしその表情は複雑なもので、悔しさと嬉しさが混合したものだった。
「……これを機に、俺も……話しとくべき……かな……。」
「え……?」
黒永はぽつぽつと呟いた。相変わらず顔色は悪いが、なにか吹っ切れたような気もする。
「俺が、体験したこと……コウに話したので、全部じゃない。それに……ちょっと嘘ついた。」
俺は母さんの持ってきてくれた救急箱を受け取り、黒永の手当てをしていた。シゲは男達を連れて行ったあと客間に戻ってくると、心配そうな顔をした。
「んー……大丈夫って言っていいかどうか……薬飲んで多少は落ち着いてるみてぇだけど。はぁ……またいつ体調崩してもおかしくねぇ状態だな……。」
「そう、ですか……分かりました。」
「まぁ、大丈夫だって本人が言ってるんだ。心配ばっかじゃ気悪くするだろうし、今はそっとしとこうぜ。いつも、気にかけてくれてありがとうな、シゲ。」
「……そのご様子から、若と組長が和解なされたのですね。良かったです。」
シゲは嬉しそうに俺に笑いかける。一方黒永は、未だに暗い顔をしていた。
「盛重さん……さっきは本当に、ごめんなさい……勢い余って思いっきり殴って……。」
「いえいえっ、こちらこそ不快な思いをさせてしまいました。アイツらにはきつく言っておきます。それにしても……高校生なのにあそこまで強いとは思ってませんでしたよ。ちょっと油断してましたね。」
シゲは、的確に狙われた左頬を自分の拳で軽く殴るような素振りをする。俺はその赤く腫れたところに湿布を貼ってやると、突然の冷感と痺れるような痛みに顔を歪めた。その後シゲは、ありがとうございますと微笑んだ。
「……俺……帰る。」
「えっ!?……どしたんだよ。」
「だって……お前の親……体調崩してるんだろ?そんなときに俺は、問題起こして……迷惑にしかならないだろ……だから、帰る。」
「そんな……こっちだって迷惑かけてんだろ……!過去のことも、今の騒ぎだって、元は俺らが悪いんだから、気にすることねぇって!だから……帰んな……。」
俺は黒永の裾を少し引っ張った。ふつふつとこみ上げてくる何かを感じながら、少しずつ手に力が入ってくる。必死に黒永の顔を見つめ、帰らないでほしいと目で訴えかける。
『帰るな……行くなっ……雨。』
「……コウ……。」
「雨……帰るな……お願い、だ。」
「っ……分かったから……その、顔……やめろ……可愛過ぎるから……。」
黒永は俺の手をそっと握り、テープの貼られた痛々しい手で口元を隠した。黒永の顔は、ほんのりと赤みを帯びているように見えた。
「……帰んねぇから……甘えた声で、俺の名前を呼ぶな……どうしようもなくなるだろ……。」
「……はぁっ!!?……甘えてなんかっ……甘えてなんかねぇっての!!」
自分の発言に赤面し、黒永の手を思いっきり振り払った。そのとき、古びた時計が8時を知らせる鐘を鳴らした。
「……なんともまぁ、微笑ましいじゃないか。」
「っ!?お、親父っ!!?」
廊下と客間の境でこっそりと見守るように、親父はそこに立っていた。シゲは親父を見るなり、親父の近くまで駆けつけた。
「組長っ!……もう、大丈夫なんですか……?」
「心配するでない、この通りだ。ありがとうな盛重……どうやら騒ぎは落ち着いたようだな。」
「……あなた……。」
母さんが心配そうに親父のところへ行く。
「……すまないな椿……今まで黙っていて、これでやっと……お前の辛そうな顔を見ずに済む。」
「っ……話して貰えれば、協力しました……でも、あの子がいいなら……それでいいわ。」
「本当に……すまなかった。さあ、部屋に戻るといい。疲れただろう。私はまだ、やることがある。」
「……無理はしないで下さい。あなたは、ここにいる人にとってとても……大切な人なんだから。」
母さんが奥の方へ行くのを見越して、黒永は口を開いた。ガチガチになりながら、親父に向かって頭を下げ謝罪する。
「く……組長、さん……さっきは、うるさくしてすみませんでした……それに……組の人達を、思いっきり殴ったりして……。」
すると親父は、シゲの顔を見てふふっと笑うと口を開いた。
「おぉ……成人を2回も迎えた大人が高校生に負けるとは、この組も随分と平和慣れしたものだな……なぁ、盛重よ。」
「はぁ……仰る通りです組長……あと、まだ2回は迎えてません……私はまだ38歳です。」
「そうだったか?もうほとんど40じゃないか。それとまぁ……また口の悪い者の悪ふざけがすぎたな……大変失礼なことをした。黒永……雪光の息子よ。」
「っ……!」
黒永は顔の色を変えた。親父はソファーへと座ると、黒永と俺に座るよう言う。
「この話をするにはまだ早いかもしれんが……いつまでも話さない訳にはいかんだろう。向陽、お前も聞くがいい。」
「……いいのかよ、雨……俺なんかが関わっちまって……。」
「いいんだ……それに、俺1人じゃ……この圧迫感で心臓潰れる……むしろ、一緒に居てくれ。」
「お、おう……分かった。」
「さて……どこから話そうか……これはだいたい15年前、ある企業がこの地域付近に大きな邸を建てた。大層金のかかった豪華な建物で、出来上がったときは誰もが目を見張るものだった。」
「それは……俺の家のこと?」
「そうだな……黒永邸と呼ばれ、その豪邸に仕える者を雇っておったこともあったな。そして、私のところにも依頼があった。金貸しと、護衛。それが、黒永雪光との出会いだった。あのころの雪光は、才に溢れておったな。集まる人々を魅了する力と、合理的で画期的なアイデアを次々と創り出す……まさに天才であった。」
「……天才……。」
黒永はどんどんとのめり込んでいった。物語を聞く子どものように目を輝かせた。しかし、話が進むにつれてその目の輝きは失われていった。
「ところが、世の中がうまく回りすぎると、知らぬ間に自ら沼へとはまって行く。雪光は自分の才能に酔いしれ、周りの人々を道具のように扱うようになっていった。使用人、親族、我々組の者、そして身内でさえもな。」
「っ……酷いな。」
思わず俺は呟いた。口に出すつもりはなかったが、考える前に口からこぼれてしまう。
「あぁ、なんとも酷い話だ。多くの人が犠牲になった。非人道的な罰、私刑、制裁などとぬかし、傷ついていく人々を我々は、ただ見ていることしか許されなかった。どんなに酷いことをしていても、手を出すことは許されなかった。大きくなり過ぎた企業に、我々のような小さな極道などではかなわなかった。下手に手を出せば潰されかねん。」
「……もしかして、俺……会ったこと、ありますか……?」
黒永の記憶の奥に眠っていた引き出しが徐々に開いていく。親父は少し驚いた顔をした。
「ほぅ……そんな昔のことを覚えていたのか……恐らく、小学生か、もしくはそれより少し前に会っている。よく覚えていたな。」
「やっぱり……あのときの、怖い人……。」
黒永の顔は怯えていた。やはり、子供の頃の強い印象が焼きついているようだ。唾を飲み込むのが、喉の動きで分かるくらいだ。
「ははっ……怖い人か、そうだろうな……こんななりをした大人がうろうろとしていれば、怖がるのも当然だ。」
「……すみません……突然、変なこと……。」
「構わん。正直で何よりだ。」
親父は一息つくと、机に出されたお茶をすする。
「……あの火事の中での出来事は、黒永君自身がよく分かっているだろう。私も、燃え盛るあの邸で肺を焼かれた。」
「!?……嘘……病気なんじゃ、ないんすか?」
「病気、か……確かに、肺を患っていることは確かだ。しかし肺機能の著しい低下は、熱気や灰によるものが1番の原因と言えるだろう。長くその場に居すぎた……自業自得だがな。」
「自業自得って……どういう……。」
「お言葉ですが組長、それは違います。自業自得などではありません。」
シゲは湯のみにお茶を注ぎながら言う。シゲもこの話の関係者のようだ。
「雪光殿が、組長を襲ったりしなければ……肺を患うことはなかったのです。責任は……親族の依頼を受けた私達にあります。」
「親族の……依頼……?」
「……これも話すべきか……少々刺激の強い話だが。」
「……なんすか……その話って。」
親父は深いため息をついた。言いづらそうに苦い顔をするが、意を決して口を開いた。
「黒永家のある親族から、依頼を受けた。その依頼の内容は『黒永雪光の失脚を促す』ということ。殺すのではなく、使えなくさせる……酷いことを涼しい顔で頼むものだ。」
「失脚……。」
「そこで我々が考えたのは、雪光を……薬漬けにさせること。少しずつ薬を勧め、金を使わせ、自己破産に至らせる。この方法を選んだのは、我々に被害が少ないからだ。責任は本人がとることになるからな。」
「薬……漬け……。」
黒永は身震いをした。腕をきつく握り、カタカタと震えている。
「雨っ……大丈夫なのか?お前、顔……ヤバイぞ……?」
「……大丈夫……続けて、下さい……。」
「……無理する必要は無い。本来なら、もう少し歳を重ねてからの方がいいくらいなのだから。ここらで、止めておこうか?」
顔は真っ青だった。冷や汗をかき、目には恐怖が浮かんでいた。しばし沈黙をすると、黒永は首を横に振った。絞り出すように弱々しい声で言う。
「っ……知りたいから……最後まで、聞きます。」
「ふむ……分かった。では続けるか。まず初めに、薬を勧めるということは自ら死を急げということ。初めのうちは、雪光は断り続けた。これに手を伸ばせば、自分がどうなるかを知っていたからだろう。だが、次第に話を聞き入れるようになっていった。それは、親族や使用人の自分に対する態度や仕事の失敗。様々なストレスが雪光を廃人へと変えていった。そして、薬に手を出した。」
「……使った薬の種類は……MDMA。」
「!?……見ていたのか?父親が摂取するところを……。」
「……ラムネみたいなものを、いつも持ち歩いていたんすよ。小学……5年くらいのときに、こっそり持ち出して見たことがあって……親父に見つかったときには……鞭で背中を何度も何度も叩かれた……。」
黒永は背中を示すように、肩をきつく握った。父親への恐怖は未だに拭いきれていないようだった。
「……親としても、人としても、変わってしまったのだな……酷いことをするものだ。」
「……雨、大丈夫か?」
「ん……大丈夫だ。あの……組長さん、俺の親父が組長さんを襲ったって……どういうことっすか?」
「……あの薬は、強い幻覚作用を起こす。使用し続ければ、当然見えているものはすべて恐怖となる。あの日、雪光が火事を起こしたときに私は……ちょうど麻薬のディーラーとコンタクトを取っていた。薬を受け取り、雪光に薬を渡しに行く為彼の部屋に入ったとき、その部屋はもう炎に包まれていた。そのときの光景はまさに……地獄であった。」
「申し訳、ありませんでした組長っ……もう少し私が、早く到着していればっ……!」
シゲは肩を震わせた。大火事のことを思い出し、過去の自分がしたことを悔やんでいた。親父はシゲに笑いかけると、なだめるように言う。
「今更悔いても仕方が無いだろう。しかしあのとき盛重が助けに来なければ、私は今ここにはいない。なにより……1番に私を見つけ、助け出したのは盛重じゃないか。」
「っ……もっと早ければ、傷を負うことも……肺を患うこともなかったかもしれません……雪光殿を止めることだって……。」
「……シゲ。」
「……若……?」
「親父がありがとうって言ってんだ。こんなこと、俺が言う権利はねぇかもしれねぇけど……親父のこと助けたんだから、もっと胸張ってもいいとおもうぜ。」
「あぁ……向陽の言うとおり、感謝してもしきれんくらいだ。本当にありがとう。」
「っ……。」
シゲはうつむいて黙ってしまった。しかしその表情は複雑なもので、悔しさと嬉しさが混合したものだった。
「……これを機に、俺も……話しとくべき……かな……。」
「え……?」
黒永はぽつぽつと呟いた。相変わらず顔色は悪いが、なにか吹っ切れたような気もする。
「俺が、体験したこと……コウに話したので、全部じゃない。それに……ちょっと嘘ついた。」