「……椿さん、もう大丈夫です。これからはもう、心配しなくても大丈夫なようになりますよ。」

「え……。」

そう言い残すと、俺を連れて廊下を歩き始めた。シゲと一緒に親父が居る部屋へと向かう。身なりを整え、重い足取りで長い廊下を歩く。部屋のドアの前で、シゲがノックをする。俺の気分は沈み、考えることはよくないことばかりだ。

『……入りたく、ない……。』

「……失礼します。組長、若をお連れしました。」

「……入れ。」

威厳のある低くて重量感のある声が聞こえる。ドアをくぐると、和服姿の組長、俺の親父が高級そうな椅子に腰掛けている。心臓の鼓動はより一層早くなり、冷や汗が額を濡らす。俺は入口付近で、早速話題をふる。

「親父……話ってなんだよ……。」

「……向陽……来い、机の近くまで。」

「っ……。」

俺は言われるままに机の前まで行く。照明の明かりで顔の彫りがより深く見え、親父の姿はさらに恐ろしく見える。

「私は、下がった方がよろしいですか?」

「そのままでいい。お前にも、協力してもらいたい。」

「分かりました。」

「……向陽……。」

ビクッと体を強ばらせる。叱られる、罵倒される、何度このような恐怖を味わったことだろう。名前を呼ばれた後、いいことが起こったことがない。俺は親父と目を合わせずに机を見て、口を開くのを待つ。

「お前に……告げなければならないことがある。よく聞け。」

「っ……なに……。」

「……すまなかった。」

「……えっ……?」

まさか、親父の口から謝罪の言葉が出てくるとは思いもしなかった。俺は顔を上げ、親父の顔を見る。至って真面目な顔で、こちらを見ていた。

「……大きくなったな、向陽。私はさんざん、お前に酷いことをしてきた。立派な跡継ぎを育てるということに夢中で、お前の気持ちを全く考えていなかった。それに、お前に嘘もついた。大人の汚い理由でお前の心を傷つけ、真実を隠蔽し、辛い思いをさせた。……本当に、申し訳ない。」

「どっ……どうしたんだよ……俺は……また、なんか言われんのかとっ……。」

「若……組長はずっと、断腸の思いで貴方に接していました。『私が普通の父親であれば、苦しむこともなかった』と、昔から組長は言っておりました。強い子になって欲しいという願いが、空回りをしてしまった……ということでよろしいですよね?」

親父は黙ったまま首を縦に振った。半信半疑の状態で、親父をとシゲを交互に見る。

「……なん、で……嘘だろ……ずっと俺のこと……。」

「本当に、申し訳ない……このとおりだ。」

親父は立ち上がり、深々とお辞儀をする。未だに起きていることが本当なのか、信じられない。

「私も、いくら組長の命令だとしても、18年間ろくなこともせず、黙っていたことを深く謝罪致します……本当に申し訳ありません。」

シゲも謝ってきた。混乱した俺は、親父の顔を見ることしか出来なかった。

「……嘘ってなんだよ……真実って……今更っ、優しくされても……困るっつうの……。」

俺は涙が出てきそうだった。今まで1度も、親父から親切にされた記憶がなかったからか困惑したが、嬉しいことには変わりない。

「ずっとお前ら……グルだったのかよ……。」

「えぇ……ずっと見守っておりました。椿さんにも、誠に申し訳ないことを……。」

「すまないな盛重。お前にも辛い思いをさせた。この長い間ろくでもない父親の頼みを、子守から世話まで、なにからなにまでさせてしまったな。……ありがとう。」

「そう言っていただけるとは……恐縮ですっ。」

「……さて、これから私は、親として生きていこうと思う。ずっと、家族との団欒を無駄にしてきた。今からでも……遅くはないかな、向陽。」

「っ……遅いとか……関係ねぇしっ!だって、こうしてはな……。」

俺が言いかけたとき、親父は椅子から転げ落ちるように倒れた。

「っ……親父……?」

「組長っ!!」

「ゴホッ…ゴホッ……っ…はぁ……はぁ……くっ、そ……こんな…とき、にっ……!」

「大丈夫ですか……っ!?……血が……!」

親父はシゲに支えられながら、肩で苦しそうに息をしている。喀血をし、口元を抑えた手には真っ赤な血がついていた。

「っ……はぁっ……これくらい、なんともっ……ない……いつもの、ことだ……薬を飲めば、多少は楽になる……。」

「しかしっ……。」

シゲは親父を椅子に座らせた。口に付いた血を手の甲で拭うと、再度シゲに命令した。

「私のことはいい……客人が、来ていると聞いた……盛重、行ってやれ……待たせるでない。」

「っ……分かりました。」

「親父っ……。」

「……はぁっ……はぁ……来て、くれないか……向陽……。」

俺は親父の近くまで行く。血色が悪く、痩せた手や顔には、病と闘う苦悩が刻まれている。ここまで親父が弱っているとは思いもしなかった。苦しげに胸をおさえ、時折聞こえるヒューヒューと言う肺の音が、親父の病気の重さを語る。

「私は、もう……肺を患い長くは持たん……椿にも、ずっときついことを……私は皆に、謝りたい。」

「おいっ、もうしゃべんなっての……また血吐いちまうだろうが……もう分かったから……。」

「……ふっ……こんな酷い、父親を……心配、してくれるのか……お前は、いい息子だな……私は……幸せ者だ。」

「っ……馬鹿言え……人として当然のことだろ……俺は親父の気も知らずに、親父なんてさっさとくたばっちまえ……なんて思ってたんだぞ?そんな人間が、この家を継いでいいのかよ……もっとまともなヤツが、ここ継げばいいじゃねぇか。」

「はぁ……そうだな……。」

親父は机の引き出しから1錠の薬を取り出し、置いてあったペットボトルの水で飲み込んだ。

「……お前が、本気でそう思っているのなら、お前の意見を尊重しようと思っている。」

「っ……冗談だ。俺はここを継ぐ気でいるんだ、本気だぞ。男なら最後までやり通す。シゲとあめっ……友達に言われた。」

「あめ……ここに来ている客人のことか?となると、友人か?」

「……そうだ。」

「ふっ……良い友が出来たな。」

そう言うと親父は俺の頭を軽く撫でた。親父が笑うところは、何年ぶりに見ただろうか。

「っ……なぁ親父、聞きてぇことがある。」

「なんだ。」

親父の顔はまたすぐに無表情になった。

「……黒永って名字に、聞き覚えあるか?」

「……。」

親父は黙り込み、しばらくすると口を開いた。

「黒永……雪光のことか。そいつはもう何年か前に死んでいる……なぜ、お前がその性を知っているのだ。」

「……その息子が、ここに来てる。」

「なんだと……!」

親父は驚きの表情を見せる。しばらく口を閉じ、手を組み考える。

「……火事があったときのこと教えてやってくれ。そいつは黒永雨ってやつだ。車で送られて来るとき、シゲが少し話してくれたんだ。黒永の親と、この組は関わりがあったって……。」

「……そうか。あの大火事の生き残りが……。」

「知ってんだろ?真相を教えてやってくれよ。」

「……そう簡単に話せるものではない。真実は残酷で、生々しいものだ。20歳に満たない者に聞かせていいものなのか……。」

「残酷ってのは、本人が1番知ってんだろ。見たんだからよ、実際に。」

「……今ここに来る者が雪光の息子か。」

俺は黙ってうなずく。親父は手を組んだ状態から動かない。真剣な顔で考えを巡らせているのだろうか。すると、奥の方で騒ぐような声が聞こえた。それは歓声のようにも、罵倒のようにも聞こえる。

「……何の騒ぎだ。」

「なんかあったのか?おい親父、今日シノギで荒っぽいことでもあんのか?」

「あるのは金絡みのことのみ。取立ての野郎共が派手にやっているのだろう。……それにしては騒がし過ぎるな。近くに盛重がいるはずなのだが……?」

「……ちょっと見てくるわ。」
・ ・ ・・
聞こえるのは、罵倒と歓声だった。部屋の外に出るとより大きく聞こえてくる。それと、何かがぶつかり合う鈍い音が響いていた。

『まさか……殴り合いでもしてんのか?』

廊下を早歩きで抜けて客間へ行くと、予想は的中していた。男達が円を作り、誰かを応援しているようだった。鮮明になってくる鈍い音は、拳が肉体に当たる音だった。

「おいテメェら!!何やってんだ!!」

「若っ!?ちょうどいいところにっ!今めちゃくちゃいいとこっすよ!」

囲んでいた男達の1人が俺に言う。輪の中で殴り合っているのは誰なのだろうか。

「っ……そこどけっ!邪魔だっ!!」

俺は男達を押しのけ、輪の中心へと割り込んだ。驚いたのは、円の中にいたのは数人の傷ついた男達と、いつもと違う黒永の姿だった。

「あ、雨っ!?」

男達を殴り倒すその姿に、強い怒りを感じた。我を忘れて、傷つき倒れた男に襲いかかろうとしている。彼のその怒り心頭の姿に、俺は恐怖を覚えた。その場から動くことも、声を出すことさえも出来なかった。

「っ……くも……よくも、母さんをっ……!」

黒永の口からこぼれるように出てきた言葉。苦しげに顔を歪め、馬乗りになった男へ拳を振り下ろす。倒れている男達の中にはシゲも混ざっていた。

「っ……や、止めるんだ……黒永君っ……!!」

「ぐっ……やめ、っ……てくだ、さいっ……ごめん、なさっ……。」

半泣きになりながら謝る男。殴られながらも、途切れ途切れに許しを乞う。

「くっ……待てっ!止めるんだ、黒永君っ!もう止めろっ!!」

「っ……百目鬼さんっ……!」

シゲは後ろから黒永の脇に腕を通し、黒永の動きを封じた。殴られた男達は、尻を引きずりながら後ずさりをした。

「っ……離、せっ……!」

「若っ!この子を止めて下さいっ!!」

俺はこの一言で、ようやく動けるようになった。男達の間をすり抜け、シゲの腕から逃れようともがく黒永のところまで黒永の前まで行く。

「……くっ……離せ……!」
・・
「もう止めろって言ってんだろ黒永っ!!」

「っ!!」

俺は黒永の胸ぐらを勢いよく引っ張り、額同士をぶつけた。意識を取り戻したようにハッとする黒永。シゲが拘束を解き、首を振り周りを見て黒永は青い顔をした。

「……これは、俺が……なんてことを……。」

「はぁ……落ち着きましたか……。」

「何があったんだよ!お前らしくねぇじゃんか!」

わなわなと震える黒永は拳を強く握り、鋭い眼光で男達を見る。

「っ……コイツらが、俺の母さんことを……。」

「……何?」

俺は未だに立ち上がれない男達のことをギロリと睨む。

「ひぃっ!!すっ、すみませんでした若っ!まさか、若のご友人だとは知らずにっ!!」

「っ……何言ったかは知らねぇが、俺の大事なヤツの親を侮辱とは……いい度胸してんじゃねぇの?あぁ?」

「本当にっ……申し訳ありませんっ!!」

土下座する男達を仁王立ちで睨みつける。男達は床に頭を擦り付け、何度も謝り続けた。

「黒永君……大丈夫ですか?手……血だらけですよ。」

「……半分は、俺の……血じゃない……。」

「……何があったのかは分かりませんが、暴力はいけません。私達が言えることではありませんが……いったい何を言われたのですか?我を忘れて暴走してしまうほどのことを……?」

「……今思えば……たいしたことじゃなかった……でも、なんでだ……あのときは、どうしても抑えきれなかった……ごめんなさい。」

「お前が謝ることねぇよ。口の悪ぃ誰かのせいだから……な?」

「はいっ!!本当に申し訳ありませんしたぁっ!!」

「ほんっと、相手が俺じゃなくてよかったなぁオメェらよ?下手すりゃ全員病院送りになってっぞ?……次はねぇと思え。分かったか。」

俺は男達に釘をさす。男達はシゲの指示で、どこかへと連れられていった。