「────コウっ!!」

「あっ……雨……。」

心臓が跳ね上がるのが分かる。黒永は窓の枠に手をつき、のぞき込むように俺を見た。

「……大丈夫か?」

「お、おう……どうってことねぇ……よ。」

すると黒永は颯爽と窓を飛び越え、保健室へ入ってきた。その姿に俺の胸は高鳴った。そのまま俺の方へ来ると思いきや、部屋の奥からティッシュを1枚持ってきて、俺の鼻に当てた。

「鼻血……。」

「えっ?……うわっ!」

鼻を押さえていた手を見ると、血で赤くなっていた。

「……下向け。鼻の頭を押さえるんだ。」

そう言うと黒永は、俺の鼻の頭をトンっと軽くつつく。つつかれた鈍い痛みに俺は顔を歪めた。ヒリヒリとした皮膚の表面に一瞬電気が流れたようだった。口の中には鉄のような味が広がっている。

「あ……わり、痛かったか?」

「っ……平気……。」

「……血が止まったら、冷やせるもんで冷やしとけ。それと……。」

「うぉっ!?」

黒永は軽々と俺のことを抱きかかえた。俺は一瞬何が起きたのか理解できず呆然とした。

「けが人はベッドで寝てろ。いいな。」

「ちょっ……まっ……!?」

周りからヒュー!ヒュー!とからかう声が聞こえた。その中には大葉も混ざっている。

「ヒュー!見せてくれんじゃねぇか。ほんとに大胆なヤツだな。」

「まっ……下ろせっ!下ろせっての!」

「ジタバタすんな。ベッドに乗せるだけだ。」

「そーゆー問題じゃねぇって……!」

俺をベッドに優しく降ろすと、黒永はカーテンを勢いよく閉めた。そして、噛み付くようなキスをした。

「んっ……んぅ……!?」

「っ……ん……はぁ……あんまり俺を興奮させんなよ……。」

「……ふぇ……?」

そう言い残して、黒永はカーテンの外に行ってしまった。一瞬の様々な出来事に頭が追いつけない。ティッシュを鼻に当てながらベッドに座り、顔の熱が冷めるのを待った。ボールが当たり、鼻血が出て、お姫様抱っこされて、看病されて、キスされた。今日は全くもって不運な日だと思った。

「……マジなんなの……。」

『興奮させんなって……なんでお前は興奮してんだよ!だからって、キスしてくんじゃねぇっ!』

「あの……馬鹿っ!!」

俺は血の付いたティッシュを丸めて、ゴミ箱へと投げ捨てた。羞恥と困惑で頭の中で熱がぐるぐるしている。

「……チッ……。」

鼻をすすって、ベッドに寝っ転がる。鐘を打つ俺の心臓の音を聞きながら目を閉じ、眠るように努めた。

『……優しくすんなよ……余計に期待しちまうだろうが……。』

しばらく俺は、胸の高鳴りが収まらなかった。そしてそのまま眠りに落ちた。

『────……う……こう…よ…?……向陽……お前は、こんなところでなにをしている?さっさと私達の仕事を覚えなさい。ほら、龍一のところへ行くぞ。』

眠っているときに夢を見た。夢と言うよりも、記憶の断片。衝撃の強かった記憶が一気に流れ出てきた。

『……やだ……嫌だよ!お父さん達のお仕事怖いんだもん!おじさんのとこなんて行かない!』

『怖いとかそんなこと言っている場合じゃないだろう!お前は6代目なんだぞ!?そんな甘いことは言ってられんぞ!もう小学6年生だろ!!』

『やだやだやだ!!行きたくない!!おじさんのところは嫌だよ!お母さん!!お母さん!!』

『コウちゃん……ごめんなさい。お母さんはコウちゃんを強くしなきゃいけないの……だから、お父さんの言うこと聞いて……ね?』

『やだ……やだよ……ひくっ……やだよぉ……!』

『泣くな向陽、涙は見せるな。すぐに泣き止まないと、また蔵行きだぞ。』

『……っ……ひっ……怖いよ……なんで、僕なの……なんで……こんなこと……!』

『……お前はこの家に生まれた。その瞬間、お前の運命は決まっていた。それだけのことだ。』

『────向陽……今度シノギに付き添え。盛重がお前を守る。跡継ぎ修行だ。行け。』

『……嫌だ。』

『……はぁ……まだ駄々をこねるか……お前はもう中学生だろ。私がお前の年には覚悟は出来て……。』

『親父がどうだったかは関係ないだろ!!……俺は、無理だ……こんな、人の生死に関わることなんて……だいたい、シゲがこういうことやればいいじゃねぇか……ここの地域は平和だし……わざわざ危ねぇことに首突っ込むなんて、どうかしてんじゃねぇの!!』

『この戯け者が!……いつまでそんなことを言っている。6代目がこんな調子じゃ、他の組にいつ攻められてもおかしくはない。また龍一のところへ送ってほしいのか?』

『っ……ふざけんな……それは卑怯だぞ……!』

『巫山戯るな?なにを言う。巫山戯たことを言うのはお前だろ!四条家組長として告ぐ、四条向陽!シノギを遂行しろ。 従わなければ、10日間蔵へ禁錮とする。』

『っ……チッ……分かり、ました……。』

『────若!!ご無事で、す……か。』

『はぁっ……はぁっ……!』

『……やりましたね。これで晴れて若は、立派な跡継ぎ……。』

『うっ……オェっ……!!』

『若っ……!!』

『……っ……ゲホッ……はぁっ……はっ……ひ、人を……殺しちまった……俺はっ……人を……!』

『若っ!……しっかりなさって下さい。これは……仕方が無いことなのです。相手も武装しておりました。正当防衛です。』

『っ……でも……。』

『……いいんです。後処理は任せて下さい。……車でゆっくり休んで、着替えも飲み物もありますから。』

『……シゲっ……俺は……。』

『……ご心配なさらずに。これで組長の気も収まるでしょう……では。』

『っ……。』

『────やれば出来るじゃないか。これで私もようやく跡継ぎとしてお前を見れる。』

『……。』

『褒美に、武器を1式与えよう。蔵から好きなものを選ぶがいい。晴れて四条家6代目となったな、向陽。よくやった。盛重、迷惑な息子をよくぞここまで育てあげ、面倒も見てくれた、礼を言う。お前には昇格を考えている。』

『……ありがとうございます。』

『うむ。2人とも下がっていい。ご苦労だった。』

『失礼します。』

『……。』

『……向陽。人の死はいずれ訪れるもの。何事も無かった様に振る舞うのだ。いいな。』

『っ……。』

『────……組長の言うことは、あまり間に受けないでください……若……?』

『……シゲ……人を殺すとき、何を考える……。』

『……若。』

『もう……血や武器は、うんざりなんだよ……周りが俺を褒めるのも、親父が……命令すんのも……もう辞めたい……逃げたい。……あのときに、撃たれて死んじまえば楽だったかもな……生きるのが辛くてたまんねぇよ……。』

『……若、私は……れい……な……に…ん……で……。』

「……こ……!……こう……コウ!起きろ!」

「っ……!?」

俺は黒永に揺さぶられ、目が覚めた。ベッドの周りには、黒永、田代、大葉がいた。冷や汗をかき、浅い呼吸をする俺を見て、3人とも心配そうに見ている。

「っ……ここ、は……?」

外は茜色をしている。もう授業も全て終了し、放課後になってしまったようだ。俺は夢と現実の区別が出来ずに混乱している。周りを見て、今自分がどこにいるのかを確認するように、キョロキョロと辺りを見回した。

「保健室だ。しっかりしろ。」

「コウ……マジ大丈夫かよ……顔真っ青だぞ?」

「……悪い夢でも見てたのか?震えてんじゃねぇか……大丈夫か?」

「……夢……?……はぁ……よかっ…た……。」

「コウ……うなされてたぞ。」

黒永が俺の頭を撫でながら、俺の顔をのぞき込んだ。すると胸の中で何かが弾けて、それは涙へと変わった。大粒の涙が目からこぼれ落ちる。

「っ!?」

「うぇっ!!?こっ、コウ!?なんでっ……えっ!?」

「しっ!静かにしやがれこの馬鹿っ!!」

「むぐっ!?」

大葉は田代の口を塞ぎ、保健室の外へと連れ出した。焦りを見せる黒永は一瞬固まり、撫でていた俺の頭から手を離した。

「……コウ……?」

「っ……うぅっ……ひっ……っ…ごめん……なさい……ごめっ……っ……ひぐっ……。」

すると黒永はベッドに乗り、俺に抱きついた。きつく抱きしめられ、息が詰ってしまうくらいに。驚いて暖かい胸板から顔を上げると、真剣な顔の黒永がいた。

「コウ……お前は大丈夫だ。あれはただの夢。お前は今ここにいる……大丈夫だから。」

「……え……。」

黒永は微笑むと、頭を軽く撫でながら言った。

「……せっかくの可愛い顔が、それじゃあ台無しだな。」

「……なに……言って……。」

「……心配するなよ。なんかあったら、俺が守ってやるから。」

ギュッと抱きしめる黒永の胸あたりで、リズムよく跳ね返す心音が心地よかった。いつの間にか涙はせき止められ、代わりに俺の顔に熱を送り出し、心拍数を上げたのだった。

「……うん……。」

「……今日は、ずいぶんと素直だな。」

「っ……いいだろ、たまには……。」

「……抵抗されんのもいいけど、こういうのもグッとくるもんだな。」

「っ……うっせぇよこの変態が……!」

俺はまた黒永の胸板に顔を埋めた。鍛えられた胸筋に額を押し付ける。ふふっと黒永が微笑ましげに笑うと、自分の頭を俺の頭に乗せた。

「おかえり、コウ。」

「……た、ただいま……。」

声の距離が近くなって、腰から背中にかけて電流が走ったような感覚に襲われた。俺ら2人はしばらくこの状態でいた。

「落ち着いたか?」

「……悪かった……な。」

『……また助けられた。』

「だれだってナーバスになることも、悪夢を見ることも、泣きたくなることはある。気にすることはない。」

「……はぁ……お前は……心広すぎかよ……。」

「それが売りだ……お前専門だけどな。」

「なっ!……よくそんなことを…軽々と……。」

恥じらいなくこんなセリフを言える黒永に、また熱はぶり返す。さぁ、帰ろうと手を引いて、俺らは保健室を後にした。

「────おっ、落ち着いたか?」

「マジビビったぜ!ほんとに大丈夫かよ……!?」

「悪ぃ悪ぃ、嫌な夢見ちまってな。もう大丈夫だからよ。心配かけたな。」

俺は無理に口角を上げてみる。本当は、胸の中の小さな俺はまだ涙を流し泣き叫んでいた。『もう逃げたい……もう向き合いたくない……!』そんな叫びが聞こえる。もうそいつが外に出てこないように、心の牢屋に閉じ込め鍵を頑丈にかけた。

『俺は、大丈夫だ……まだ大丈夫……もう強くなった。』

自分に言い聞かせて、悪夢を頭から追い出そうとする。自分の胸に手を当て、鳴り止まぬ早鐘の心臓を落ち着かせる。

「コウ……大丈夫か?」

「……大丈夫だっての。」

「無理するんじゃねぇぞ。もうすぐ引退試合もあるだろ。」

「分かってるっての。そんなことで俺はへこたれねぇ。それに……っ……さっき、充電……した、し……。」

俺は恥ずかしさに語尾を曖昧にしながら言う。うつむきながら、田代と大葉に聴こえないように言った。

「……嬉しいこと、言ってくれんじゃねぇの。」

「はぁ!?……チッ……。」

黒永は微笑ましげに俺の頭を撫でる。自分が言ったことが、普段なら口に出さないようなことだったためとても恥ずかしかったが、何も言い返せなかった。

「あーあー、もうお熱いことで。」

「コウが言い返さねぇ!こりゃあ明日の天気は雪か槍だな!」

「だぁぁ!!うっせぇてめぇら!!黙れってんだ!!」

「ケッ……!こっちはもう甘すぎて吐きそうなんだよ!ハート飛ばしてくんじゃねぇよホモリア充がっ!」

大葉が珍しく俺に突っかかってきた。中指を立て、あからさま嫌な顔をしてこちらを睨んでくる。そうとう恋人がいることが羨ましいか、彼女の出来ない自分と対称的で幸せそうな俺を恨んでいるのか。

「へっ!彼女いない歴イコール年齢のやつが何言ってんだっての!せいぜい東野のメールで、ボッチな寂しい夜を過ごすんだな!俺はいるが、テメェにはいねぇなぁ!!ざまぁねぇぜ!!」