けれど、私がこうしなければ、彼はきっとこのままなのだ
そしてそのまま、戦場へと赴き……
その先の結末など、考えたくもない
私が嫌われるだけで、誰かが犠牲にならずに済むのなら、
私は迷わず、誰かを守る選択をする
私のその言葉に、倉渕羽津摩は案の定、傷付いた顔をし、そして───激怒した
「っなんだと!?
人を馬鹿にするのも大概にしろ!
一つのことしかできない自分の弱点など、とうの昔に把握している!!
それにっ、俺はまだ、この組織に加わることを承諾してなどいない!!」
鬼の形相でそう叫ぶと、バンッ!とテーブルを叩き、倉渕羽津摩は席を立った
そのまま、肩を怒らせながらエレベーターへと向かう
「……今日はここでお開きにしようか。
ちょっと外まで見送ってくるよ」
その言葉を残して、慎也も倉渕羽津摩の後を追う
二人が分厚い扉の向こうへと消えた後、気が付けば、雫が頬を伝っていた
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
伝える相手のいないその言葉は、空気へと静かに溶け込んでいく
「……自分を責めないでよ。
傷付けてしまったとしても、輝祈の言ったことは、正しかったんだから」
隣に座っていた柚希が、背中を撫でながらそう言ってくれる
けれど、心が晴れることはなくて
私は暫く、その場で小さく謝り続けていた───
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「───元柱固具、八隅八気、五陽五神、陽動二衝厳神、害気を攘払し、
四柱神を鎮護し、五神開衢、悪鬼を逐い、奇動霊光四隅に衝徹し、
元柱固具、安鎮を得んことを、慎みて五陽霊神に願い奉る───」
毎朝の習慣である言葉の呪符を唱え終え、そっと目を開ければ、向いていた朝日の光が目に染みた
この路地は早朝だけ、日が差す
昨日、倉渕会長を見送った後、部屋へと戻れば、輝祈は冷静を装っていたが、その目元には泣いた痕跡が見られた
僕がいない間に何が起きていたのか。 輝祈本人が言おうとしなかったのだから、僕も敢えて聞くことはしなかった
でも、涙の理由を、僕は理解している
輝祈からも柚希からも聞いたわけではなく、僕の予想でしかないが、きっとその予想は間違っていない
彼女はおそらく───人を傷付けてしまったことに、涙していた
そう思えるのは、辛辣な言葉や冷血な態度で隠された心には、深い優しさが満ちているということを、知っているから
輝祈と出会ってからの、七年という月日の中で、何度もそれを感じたから───
「……もう、七年も経つのか……」
柚希と出会ったのも、輝祈と出会ったのも、もう七年も前のことなのか
そう思えば、ふと、昔の記憶が脳裏に蘇った
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柚希と出会ったのは、七年前の春の終わり
星が僅かにチラつき始める、黄昏時のことだった
何気なく散歩をしていた時、狭い路地で、白く、一般的なものより少し大きな犬を見つけた
幼い僕は、その丸くなって震える背中に声をかける───何も、考えずに……
『ここで何をしてるんだい? 犬くん』
今思えば、なんと危険な行為だったんだろうと、呆れてしまう
陰陽師の家系に生まれたからには、もちろん霊力も、それなりに備わっていて
意識するまでもなく、視えてしまうのだ
幽霊や妖怪などの、人には見えぬそれが
声をかけたあの犬が、もしも柚希ではなかったなら、僕はどうなっていただろう……
目の前のそれに声をかければ、恐る恐るといった様子で顔を上げた
『!! っ僕が、見えるの……?』
脳に直接届く声で、話しかけてくる
ああ、この犬は妖怪なのかと、幼かった僕は、その時初めて理解した
見たところ危害を加えられることは無さそうなので、継続して話しかける
『妖怪にも、悩みがあるの?
僕で良かったら、話を聞いてあげるよ』
すると、目の前の犬は目を丸くし、そしてとても小さな声で言った
『……たす、けて……』
今度は僕が、目を丸くする番だった
まさか、助けを求めてくるとは思っておらず、面食らう僕に、犬は話し続ける
『僕、ある人間に殺されて、こうなっちゃったんだ。
今、その人に追われてて……だから、助けてほしい……』
事情は全くと言っていいほど、分からなかったが、追われていることだけは把握する
『うん、分かったよ。
……もし良かったら、僕の家においで。
話はそこで聞こう』
家の門を開けば、まだ両親は帰ってきていないようだった
犬を連れて門をくぐり、玄関を通り、2階の自室へ入る
向かい合って床に座れば、犬は再び、話し始めた
犬───彼の話はこうだった
彼を殺し、そして現在、彼を追っている人間は男で、名を高橋というらしい
高橋は数年前まで霊能商法を生業としており、隣町では、にわかに噂されていたようだ
だが、技術が進歩した現代では、霊能力を信じる人間は徐々に減少していき、
廃れたその商法では生計を立てられなくなった高橋は、普通の仕事へ就こうとした
しかし、過去の噂は悪い尾ひれが付いた状態で広まっており、陰気な見た目も相まって、受け入れてくれる場所はどこにも無かった
そんな人間達を憎み、恨んだ高橋は、自分が恨んだ人間を、病気や死に至らしめることができる〝狗神〟を使役しようとした
そのために、野良犬だった彼を捕らえ、飢餓状態にし、その首を打ち落とし、土へと埋め……
そうして、狗神としての彼を生み出したのだった
『……今話したことは、高橋が毎日、独り言のように呟いていたことなんだ。
僕は狗神になっちゃったけど、生きていた頃、時々ごはんをくれた、人間たちのぬくもりが忘れられなくて……
呪うなんて良くないって何度訴えても、高橋は聞く耳を持たなくて……
憑き物としての性質上、僕は高橋から離れられなくて……っ……
───高橋に言われるがまま、僕は何人もの人間を呪い、そして殺した』
苦しげに話す彼は、人間を呪う生き物でありながら、それを頑なに拒む───そんな優しさと愛情を持った狗神だった
『高橋の隙を突いて、この町まで逃げてこられたけど、あの人はきっと、僕を探して、捕まえに来る。
……だって、あの人は恨んだ人間を全員呪う気で、あの人の復讐は、まだ全然、終わっていないから』
高橋という男は、いったいどれほどの人間に、恨みを持っているのだろうか
そんなこと、赤の他人で部外者だった僕が、分かるはずもない
……でも、一つだけ、僕にも分かることがある
それは……
〝彼を捕まえた高橋は、また彼を殺人道具として利用する〟ということ
何か、彼を助けられる策はないだろうかと、思考を巡らせる
『どうすれば……どうすれば君を、助けることができる……?』
目の前で俯く、この慈悲深い狗神を救いたいと、ただひたすらに考えた
すると、そんな僕を見た彼は、はっと何かに気付いたような動作をし、すぐに声を発した
『高橋が君のことを知ったら、僕を匿ったことで、君も恨まれちゃうかもしれない。
そうしたら僕は、君まで呪い殺すことになっちゃうよ……』
そう言い終わるや否や、スクッと立ち上がった彼は、僕に向かって深々と頭(コウベ)を垂れた
『……助けようとしてくれて、ありがとう。
話を聞いてくれただけでも、すごく嬉しかったよ。
本当にありがとう』
鼻先で器用に戸を引き、部屋を出ていく彼
『……待って!!』
そんな彼の後ろ姿に、僕は叫んだ
廊下に出た彼が、振り返る
『……君はさっき、
〝憑き物の性質上、離れられない〟と、そう言ったよね?』
僕の問いに、こくりと悲しそうに頷く彼
彼の目を見て覚悟を決めた僕は、意を決して、微笑みながら彼に言った
『───それなら僕に憑けばいい。
そうすれば君は、高橋から離れられるよ』
驚いた彼は、僕の近くまで駆け戻ってくる
『自分で何を言ってるか分かっているの!?
僕に憑かれるってことは、君に不幸が付き纏うってことなんだよ!?』
そう
狗神を使役する者は、人を呪うことができるが、自身にも災いが降りかかるのだ
『ああ、もちろん知っているよ。
陰陽師の血を引く者として、妖に関する書物は、全て読み漁ったからね』
困惑気味に揺れる琥珀色の瞳を見つめ、自嘲気味に話す
『少し前に読んだ本にね、こんなことが書かれていたよ。
〝人間は愚かで、世界は残酷だ。
大切な何かを守るために、人は別の何かを犠牲にする〟とね。
僕もれっきとした一人の人間だから。
まあ、出会ったばかりじゃないかと言われれば、言い返せないんだけどね』
僕の言葉に、瞳を潤ませる彼
『……っ、出会った、ばかりじゃないか……』
『うん、確かに僕らは、今日出会ったばかりの関係だ。
でも、君の心の温かさを、僕は気に入ったようでね。
単純に、君を守りたいと、そう思った』
そんな顔しないでと、彼の頭を撫でれば、彼は〝言い返してるじゃん〟と、泣きながら笑う
『それに、まだ僕は未熟だけど、それでも陰陽師だ。
降りかかる災いなんて、術で撥ね除けてしまえばいいさ。
約束する。 僕は君を守って、災いだって撥ね除けると。
だからね……どうか君を、僕に助けさせて』
『っ……ありがとう』
彼は嬉しそうにそう言った
『……そういえば、自己紹介がまだだったね。
僕は慎也。 君は?』
そう聞けば、彼は少し顔を曇らせる
『……無いよ。
生きている時は野良だったし、高橋にも道具としてしか使われなかったから』
『……それなら、〝柚希〟はどうかな?』
『ユズ、キ……?』
近くにあった紙に、ペンで〝柚希〟と書く
『柚子の柚に、希望の希。
今は柚子の花が見ごろでね、白く小さな花が咲き誇っているんだ。
ほら、庭に咲いているあれだよ』
そう言って指さした窓の外にあるのは、白い花を身に纏った、一本の柚子の木
『僕の誕生花でね、僕が生まれた時、病院から贈られたんだ』
綺麗だろう?と笑えば、柚希も満面の笑みで頷く
『柚子の花言葉の一つに、〝汚れなき人〟というのがある。
残念ながら、君は人ではないけれど、この名前を持った時点で、君は高橋から解放されるんだ』
『解放、される……』
そう呟いた彼───柚希は、柚希、柚希……と、心に刻み込むように何度も唱えた
『……君が呪った人間を、忘れろとは言わない。
ただ、過去を悔やんでもしょうがないし、過去を抱え込んだままでは、前に進むこともできないよ。
だから毎年、一度だけでも、その人たちのことを思い出してあげて。
それで、いいんだよ』
『───うん』
それから暫くして、帰ってきた両親に全てを話した
柚希が僕に憑くと言った時、二人は驚いて、すぐに反対したけれど、
僕は決して諦めず、そしてとうとう、二人が折れた
『これからよろしく、柚希』
『よろしくね、慎也』
顔を見合わせて笑い合うと、僕らは夢の世界へと落ちていった
……この時の僕は、まだ知らなかった
幼い子どもの約束は、無邪気で、浅はかで、そして時に恐ろしいということを…………
柚希と暮らし始めてから、2ヶ月が経とうとしていた時、悲劇は起きた
『……や……慎也っ!!』
その日僕は、全身を襲う熱さと、柚希の呼び声で目を覚ました
瞼を持ち上げた時に、最初に見えたものは、うねりながら迫り来る炎だった
勢いよく起き上がり、見回せば、四方全てを炎に囲まれている
状況が飲み込めず、戸惑っていると、動く炎の向こう───窓の外が、ちらりと見えた
炎の光でそこに見えたのは、一人の不気味な雰囲気を纏う男と、両脇に並ぶ、怪しげな装束を身に纏った、複数名の人間
『っ……高橋が僕を見つけたんだ。
近くにいる人達は、霊媒師や呪術師、それから、この近くに住んでる、不幸を恐れる霊感持ちだと思う』
狗神は、人を呪う仕事の人間において、藁人形と同価値か、それ以上の価値を持つ商売道具
そして、犬神憑きの周囲は、憑かれている本人と同じく、災いが降りかかるという
つまりこれは、羨望や恐怖の念を抱いた人間達による放火なのかと、瞬時に理解した
『───っお父さんとお母さんは!?』
両親の自室は1階
窓の外は濃い闇が広がっていたので、まだ夜中だろう
こんな時間、両親だって眠っていたはずだ
戸を引こうとする僕の服の裾を、柚木が引っ張る
『その引手は金属製だ!
今触ったら大火傷を負うよ!』
『そんなの構っていられるか!
人の命が懸かってるんだよ!?』
『もう遅いんだよ!
慎也のお父さんたちの魂の気配は、僕が目覚めてすぐに途絶えたんだ!!』