「また、16世紀半ばのスペインで、エルヴィラという女性が、拷問にかけられた時の会話の記録が残っているというので、興味のある人は調べて……」
ガタンッ!
「ひ、雛桜さんっ? どうしましたか……?」
いきなり立ち上がった私に、教師も生徒も驚いて視線を向ける
「……っすみません……
気分が悪いので、保健室へ行ってもいいですか?」
恐らく顔面蒼白だろう私を、教師が引き止めることはなく、私は逃げるように教室を飛び出した
階段を駆け下りながらも、脳裏の記憶は流れ続ける
保健室の扉を引き、中へ入ると同時に、私はその場に膝をついた
幸い養護教諭はおらず、中はしんと静まり返っていた
過呼吸気味な呼吸を整えようとするが、上手く息が吸えず、ヒューヒューと喉が嫌な音を立てる
っ苦しい……
倒れそうになったその時
「───雛桜!?」
背後から、聞き覚えのある声がした
振り返れば、驚いた顔の生徒会長───倉渕羽津摩が立っていた
「っ大丈夫か!?」
そう言って私を助け起こすと、近くにあった椅子に座らせられる
「落ち着いて、深呼吸しろ」
倉渕羽津摩の指示に従うと、次第に呼吸が正常になっていった
「……ありがとう」
そう言えば、彼は小さく首を振った
「……どうしてここへ来たの?」
「ああ、体育で突き指をしてな」
そう言いながら、水道へと向かう倉渕羽津摩
「!! ……ごめんなさい。
私のせいで時間を取らせてしまって……」
突き指の応急処置は、1分以内に行うべきだと、昔、お父様に教えられた
「雛桜が気に病むことはない。
元々は俺の不注意が原因だからな」
こちらへ戻ってくると、棚に置かれていたテーピングテープを、器用に自分の指に巻き始める
それを静かに見つめていれば、慣れているのか、ものの数十秒で綺麗に巻き終えた
「……隣、いいか?」
道具を片付けた後にそう言われ、こくりと頷く
私の隣の椅子へ腰を下ろした彼は、すぐさま深く、頭を下げた
「……昨日は、すまなかった」
固まる私に、彼は続ける
「実はあの後、外へ出た途端に、王寺に怒られたんだ。
『君は本当に、人をまとめる立場の人間なのかい?
たった一人の心すら、読み取れないっていうのに?』とな。 それも笑顔で」
あれは怖かったと、頭を下げた状態で倉渕羽津摩は話す
「それから暫く、俺は彼に、あの組織と現状について聞かされた。
俺は公にされた情報しか知らなかったから、心底驚いた。
〝力〟を持つ者ならば、人を選んでいる余裕は無いということを聞いて、雛桜に怒鳴った自分を酷く恥じた」
「本当にすまなかった」と謝る彼に、顔を上げてと私は言う
「もう謝らないで。
私は元々、感情が顔に出にくいの。
だから、私に非があったのよ。
あなたが気負う必要はないわ」
「いや、俺が悪かったんだ」
二人して頭を下げ、数秒経った後、どちらからともなく笑い声が零れた
「それなら、お互い様だな」
「ええ、そうね」
直後、授業終了のチャイムが鳴る
「じゃあ、俺はこれで」
そう言って、倉渕羽津摩は席を立ち、扉へと向かう
すると、何かを思い出したように踵を返し、言った
「フルネームだと堅苦しいし、言いづらいだろう?
羽津摩と呼んでくれ」
「それなら、私も輝祈で構わないわ」
私が返せば、倉───羽津摩は嬉しそうに笑う
「じゃあ、またな……輝祈」
そうして、羽津摩は保健室を出ていった
再び静まり返った部屋の中で、私は一人、くすりと笑う
私が何故、過呼吸だったのかを聞かなかったことから察するに、
彼は心は読めないが、気配りはできるようだ、と
先程まで、鮮明に見えていた過去の記憶は、いつの間にか見えなくなっていて、心もとても穏やかだった
ありがとうと、心の中でもう一度呟く
「さて……私も教室に戻らないといけないわね」
そう独り言(ゴ)ちてから、私も保健室をあとにした───
「輝祈、大丈夫?」
教室へ戻れば、未來が不安げな顔で駆け寄ってきた
「うん、もう大丈夫。
心配かけたみたいで、ごめん」
そう言う私の胸元では、指輪がほのかに熱を帯びていた
「───輝祈っ、これあげる!!」
そう言って差し出されたのは、80cmほどの藤色のリボン
細かく織り込まれたその生地を見つめて、私は首を傾げる
「どうしたの? これ」
「昨日の放課後、最近できた手芸屋さんに行ったら見つけたの!
輝祈に似合うと思って買っちゃった♪」
そんな未來は珍しく、髪飾りを付けていた
サイドダウンにした髪に、私の物と同じ生地の、早苗色のリボンが結ばれている
リボンを受け取ると、「おそろいだよっ!」と未來が笑う
たった一言
けれど、その言葉が嬉しくて
「っありがとう……大事にする」
リボンを両手で包み込みながら、私は笑顔でそう言った
リボンをブレザーのポケットにしまい、暫く他愛もない会話を未來と交わしていれば、HR開始のチャイムが鳴った
「じゃあ、また後でね」
手を振る未來に、私も手を振り返す
未來が自分の席に着いたとほぼ同時に、教室の前扉がガラッと開き、担任教師が入ってきた
「きりーつ、礼〜」
気だるげな日直の号令に、全員が声を揃えて挨拶をする
そして全員が再び、席に着いたことを確認すると、担任教師は何故か、深い溜め息を吐いた
「せんせーどしたの? 更年期??」
「違う! 俺はまだ更年期なんかではない!」
ふざけて言った男子生徒の言葉を、担任教師は本気で否定した
「そんなに怒らないでよー。
そんなんだと、血圧上がって、せんせーすぐにお陀仏しちゃうよ?」
「むっ……う、うるさぃ」
男子生徒の言葉を気にしてか、先程よりも控えめに、担任教師は叱責した
「……いいか、お前たち。
二回目なんてごめんだから、先に言っておく。
絶対に、騒ぐんじゃないぞ」
「え……それってもしかして……」
誰かが小さく呟く
担任教師は、その声に頷くと
「転校生だ。 入ってこい」
前扉に向かって、そう呼びかけた
ガラッと扉が引かれ、この学校の制服に身を包んだ、一人の少女が入ってくる
その顔を見た瞬間、私は驚愕し、目を見張った
教壇に立ち、転校生が身体をこちらへ向ける
その髪と瞳の色も、顔立ちも、どことなく綾瀬実栗に似ていたのだ
「自己紹介してくれ」
センター分けの前髪に、おさげ髪の転校生が口を開く
「中国から来ました。 箏美玲(ソウ メイリン)です。
母が日本人なので、日本語は問題ありません。
よろしくお願いします」
無表情で淡々と話すその姿は、転校初日の綾瀬実栗と似ていた
違うところといえば、綾瀬実栗の無表情には何の感情も読み取れなかったのに対し、
転校生───箏美玲の無表情は、感情を押し殺しているようだと思ったところだ
「箏の席は、窓側の一番後ろだ」
担任教師への返答はなく、静かに私の横の通路を通り、そして席へ着いた
「今日は─────」
と担任教師が連絡事項を述べているが、
転校生が来た日に、そんな話を真面目に聞いている生徒はいなかった
HR終了後の、5分間の休み時間
やはり、転校生の周りには、人だかりができた
しかし……
「ねえねえっ、中国ってどんなところ?」
「アカウント交換しよー!」
「誕生日いつ〜?」
そう聞いてくる生徒達を無視し、箏美玲は机に突っ伏した
「えっ……あの……」
「ど、どうしたの……? 具合悪い感じ?」
誰の問いかけにも、応じようとしない
「───顔は似てるけど、やっぱり実栗っちの方が性格良いね」
「だよねー、実栗ちゃんは神だもん」
次第に人だかりは崩れ出し、徐々に綾瀬実栗の方へ移動していく
「ちょ、ちょっと、そんな言い方は……
た、体調悪いだけかもしれないよ??」
中にはそんなことを言う女子生徒もいたが、彼女もやはり、綾瀬実栗の方へ歩を進めていた
所詮は口先だけなのか、と眺めていれば、箏美玲がむくりと身体を起こす
その顔は、疲労感溢れる、心底面倒くさそうな表情だ
箏美玲……
綾瀬実栗とは反対に、彼女は人付き合いを嫌うようだ───
ふと空を見上げれば、綾瀬実栗が転校してきたあの日と同じように、
黒い物体が一つ、宙を漂っていた───
そんな日の昼休み、慎也からの連絡があった
『1棟1階の西階段前へ来て』
目的が書かれていないその簡素な文章に、首を傾げる
取り敢えず指定された場所へ向かえば、そこには慎也と羽津摩がいた
「どうしたの? こんな場所に呼び出したりして」
私の疑問に、慎也が答えた
「実はね、僕がこの学校に来た日から、ずっと綾瀬実栗について調べていたんだ。
でも……不思議なことに、殆ど何も出てこないんだよ。
普通、僕がここまで調べても出てこないなんて、ありえない」
眉間に皺を寄せる慎也を眺めながら、私も頭を悩ませる
慎也が自分の実力を自負しているのは、単に自信過剰なわけではない
知恵や知識が桁外れな彼は、ハッキングも得意としており、
私が生きてきた中でも、慎也より優れたハッカーやクラッカーは、一度も見聞きしたことがないのだ
慎也の力を以てしても、出てこないとなると……
綾瀬実栗は、余程重大な何かを厳重に管理しているのか、
それとも、寧ろ反対に何も無いのか
どちらにせよ、彼女が〝普通〟でないのは確かだ
「…………ああ、話が戻ってしまった」
慎也がはっと顔を上げる
「そこで僕は考えた。
───インターネットに載せられる情報はともかく、学校の書類ならば、何かしら書かざるを得ないのではないか、とね」
だからこうして、この場所に来たんだ、と慎也は話す
そういうことか、と納得すれば、羽津摩は未だに理解ができていないらしく、堂々と慎也に問いかける
「……それとこれと、いったいどういう関係があるっていうんだ?」
「…………君、本当に生徒会長なんだよね?」
そんな羽津摩に、慎也は呆れの混ざった疑いの眼差しを向けた
私と慎也に何度も言われたその言葉に、羽津摩は焦りながらも反論する
「せっ、生徒会長に求められるものは、人望の厚さと責任感と、プラスアルファーでユーモアだ!
知能なんて必要ない!!」
若干開き直り気味の生徒会長を、二人で目を細めて見つめれば、「と、とにかく話を進めろ!」と怒鳴られた
「はあ……じゃあそんな君に聞こう。
1棟1階。 ここには何がある?」
「え? えーと……
保健室に応接室、会議室、職員玄関、事務室、放送室、相談室、職員室、校長室、校務技……ってああ!
なるほどな!」
漸く理解した彼に、再び溜め息を吐いた慎也は、本題を切り出した
「君のせいで2分も無駄になってしまった。
時間がないから、大まかな説明だけするよ」
早口になりながら、計画を説明し始める
「今回仕事をしてもらうのは、〝力〟の練習も兼ねて、倉渕会長だよ」
「……え、お、俺か!?」
「そう。 校長室へ瞬間移動し、綾瀬実栗の書類を記憶して戻ってくる。
ただそれだけさ。
校長先生は今職員室にいるけれど、いつ戻ってくるか分からないから、チャンスは一度きりだよ」
「俺に……できると思うか……?」
不安げな表情をする羽津摩
「できるできないじゃない。
やるんだよ、君がね」
慎也はそんな羽津摩に、どこかで聞いたような台詞を言い放った
羽津摩は一度深呼吸をし、そして……
「俺は必ずや綾瀬の秘密を暴いて、人気投票1位の座を取り戻してみせる!」
……叫んだ
「…………羽津摩?
あなたはそんなことも、この計画を実行する理由に含まれているの?」
呆れ返る私を見て、羽津摩が目を見開く
「えっ……輝祈と王寺は違うって言うのか?」
「何故私が、そんなことを気にする必要があるのよ?
人気投票なんて、私には全く関係ないじゃない」
「え? だ、だって……」
何かを言いかけた羽津摩は、何故か慎也へと顔を近付け、何かを囁いた
「……だって輝祈は、綾瀬とも負けず劣らずの容姿なんだぞ?
おまけに、同じクラスの伊勢崎……?といる時にしか笑わないし、テストでは常に上位を保持しているしで、『高嶺の花だ』と皆が噂している。
もちろん、人気投票の順位もかなりの上位だ。
それなのに、自分には関係ないと言うのか?」
随分と長い時間をかけた言葉に、今度は慎也が何かを耳打ちする
「輝祈は、自分の容姿に関しては無自覚なんだよ。
ここまでだったとは、僕も今、初めて知ったけどね」
何かに納得したような、それでいて驚いているような二人に、何事かと首を傾げる
すると二人はニコッと笑い、「何でもない、気にしないでくれ」と声を揃えて言った