柚希と暮らし始めてから、2ヶ月が経とうとしていた時、悲劇は起きた
『……や……慎也っ!!』
その日僕は、全身を襲う熱さと、柚希の呼び声で目を覚ました
瞼を持ち上げた時に、最初に見えたものは、うねりながら迫り来る炎だった
勢いよく起き上がり、見回せば、四方全てを炎に囲まれている
状況が飲み込めず、戸惑っていると、動く炎の向こう───窓の外が、ちらりと見えた
炎の光でそこに見えたのは、一人の不気味な雰囲気を纏う男と、両脇に並ぶ、怪しげな装束を身に纏った、複数名の人間
『っ……高橋が僕を見つけたんだ。
近くにいる人達は、霊媒師や呪術師、それから、この近くに住んでる、不幸を恐れる霊感持ちだと思う』
狗神は、人を呪う仕事の人間において、藁人形と同価値か、それ以上の価値を持つ商売道具
そして、犬神憑きの周囲は、憑かれている本人と同じく、災いが降りかかるという
つまりこれは、羨望や恐怖の念を抱いた人間達による放火なのかと、瞬時に理解した
『───っお父さんとお母さんは!?』
両親の自室は1階
窓の外は濃い闇が広がっていたので、まだ夜中だろう
こんな時間、両親だって眠っていたはずだ
戸を引こうとする僕の服の裾を、柚木が引っ張る
『その引手は金属製だ!
今触ったら大火傷を負うよ!』
『そんなの構っていられるか!
人の命が懸かってるんだよ!?』
『もう遅いんだよ!
慎也のお父さんたちの魂の気配は、僕が目覚めてすぐに途絶えたんだ!!』
驚いて振り返れば、柚希は鼻に皺を寄せて苦しそうな表情をしていた
一気に力が抜けた僕は、そのままへたり込む
熱気で喉が焼ける
ただ息をするだけでも苦痛だった
『……僕らは……このまま死ぬの……?』
柚希からの返事は無い
恐怖に支配された僕は、蹲り、震える身体を抱きしめた
柚希が僕を包むように丸くなる
もう終わりだと、固く目を瞑ったその時……
部屋の中に立ち込めていたはずの熱気が冷気へと変わり、炎の音が消えた
パリーンと、何かが割れる音がして、恐る恐る顔を上げれば───
分厚い氷で覆われた炎を背に、悲痛な面持ちの少女が、部屋の中に佇んでいた
『え……』
そう声を漏らした僕に、彼女が顔を向ける
陶器のように白い肌に、暗黒色の長い髪の、凛々しい佇まいの少女
その菖蒲色の大きな瞳が、僕の姿を捉えた
『……あなたが王寺慎也ね?』
彼女の問いに、こくりと頷く
『その狗神は、あなたが使役しているの?』
僕を包んでいた柚希も、ゆっくりを顔を上げる
その顔は、今まで見たことがないような、敵意を剥き出しにした表情だった
『……僕に憑いているけれど、僕の大事な家族だよ』
震える声の僕に、彼女はそうと返すと、膝を折り、僕に目線を合わせた
『私は雛桜輝祈。
あなたの両親と、共に仕事をしていた者よ』
゚*。:゚ .゚*。:゚ .゚*。:゚ .゚*。:゚ .゚*。:゚
それから僕と柚希は、あの組織について聞かされた
組織は政府の一部とも繋がりがあり、僕は一昨年までの5年間、お金の心配はなく学業を修め、有名大学を卒業した
柚希は輝祈から、人間の姿になる術を教えてもらい、今では人型の方が定着している
……膨大な魔力によって、年齢とかけ離れた容姿のあの魔法使いは、
長い年月を、仲間がいながらも、孤独に生きてきた
自分と同じ歳月を、共に歩む者はどこにもおらず、先に旅立つその背中を、ただ見送ることしかできなかった
僕の先祖や、守れなかった者たちの死を見て、彼女は何度、その瞳に涙を浮かべただろう
僕はもう、そんな彼女に涙を流してほしくない
でも、生き物の死は必ず訪れることで、魔法使いや妖怪よりも遥かにそれが早い僕は、きっとまた、輝祈を悲しませる
だから、僕が生きている間だけでも、彼女には幸せでいてもらいたい
笑っていて、もらいたい───
朝日が昇るのを見ながら、そんなことを考えていると、ドアが開く音がした
振り返れば柚希が、家から出てきている
「おはよう、慎也っ!」
「うん、おはよう」
「今朝は僕が朝ごはん作ったんだよ!
冷めないうちに食べよう?」
そう言って笑う柚希の顔は、朝日を浴びてキラキラと輝いている
「ああ、それは楽しみだね。
早く食べよう」
もう一度、朝日を眺めてから、僕は家の中へと入った
「……えー、教科書の136、137ページを開いて下さい」
歴史担当の教師の言葉を聞き、パラパラと教科書を捲っていく
指示された通り、目的のページを開いた瞬間、呼吸を忘れた
そこに記されていた内容は……
『狂信主義と最期の魔女狩り』
ややあって、漸く息を吸い込む
ドクリと、心臓が大きな音を立てた
「皆さんは既に、小中学校で軽く学習していると思いますが、高校では更に詳しく学習していきます。
中世末期頃から近代にかけて起きていた魔女狩りですが、
最も盛大に行われていたというのが、この最期の魔女狩りです」
心臓の嫌な音は鳴り止むどころか、更に大きくなっていくようだった
「過去の文献によれば、最期の魔女狩りの始まりは、一人の老婆の錯乱からだと云われています」
『……今回の盛大で最悪な魔女狩りはね、一人の老婆によって起きてしまったことなんだ』
アキの声が、脳裏に蘇る
「魔女の疑いをかけられた老婆は───」
お父様とお母様が、壇上で冤罪を認めている光景が、フラッシュバックする
途端に震え出した両手を、膝に押し付けた
「当時のドイツで異端審問官だったハインリヒ・クレーマーは、『魔女に与える鉄槌』という書を出版し、そこには魔女を発見する手順や処刑方法などが記されていたと───」
音を立てながら、炎が揺れ動くのが見える
群衆の歓喜の声が……聞こえる
「また、16世紀半ばのスペインで、エルヴィラという女性が、拷問にかけられた時の会話の記録が残っているというので、興味のある人は調べて……」
ガタンッ!
「ひ、雛桜さんっ? どうしましたか……?」
いきなり立ち上がった私に、教師も生徒も驚いて視線を向ける
「……っすみません……
気分が悪いので、保健室へ行ってもいいですか?」
恐らく顔面蒼白だろう私を、教師が引き止めることはなく、私は逃げるように教室を飛び出した
階段を駆け下りながらも、脳裏の記憶は流れ続ける
保健室の扉を引き、中へ入ると同時に、私はその場に膝をついた
幸い養護教諭はおらず、中はしんと静まり返っていた
過呼吸気味な呼吸を整えようとするが、上手く息が吸えず、ヒューヒューと喉が嫌な音を立てる
っ苦しい……
倒れそうになったその時
「───雛桜!?」
背後から、聞き覚えのある声がした
振り返れば、驚いた顔の生徒会長───倉渕羽津摩が立っていた
「っ大丈夫か!?」
そう言って私を助け起こすと、近くにあった椅子に座らせられる
「落ち着いて、深呼吸しろ」
倉渕羽津摩の指示に従うと、次第に呼吸が正常になっていった
「……ありがとう」
そう言えば、彼は小さく首を振った
「……どうしてここへ来たの?」
「ああ、体育で突き指をしてな」
そう言いながら、水道へと向かう倉渕羽津摩
「!! ……ごめんなさい。
私のせいで時間を取らせてしまって……」
突き指の応急処置は、1分以内に行うべきだと、昔、お父様に教えられた
「雛桜が気に病むことはない。
元々は俺の不注意が原因だからな」
こちらへ戻ってくると、棚に置かれていたテーピングテープを、器用に自分の指に巻き始める
それを静かに見つめていれば、慣れているのか、ものの数十秒で綺麗に巻き終えた
「……隣、いいか?」
道具を片付けた後にそう言われ、こくりと頷く
私の隣の椅子へ腰を下ろした彼は、すぐさま深く、頭を下げた
「……昨日は、すまなかった」
固まる私に、彼は続ける
「実はあの後、外へ出た途端に、王寺に怒られたんだ。
『君は本当に、人をまとめる立場の人間なのかい?
たった一人の心すら、読み取れないっていうのに?』とな。 それも笑顔で」
あれは怖かったと、頭を下げた状態で倉渕羽津摩は話す
「それから暫く、俺は彼に、あの組織と現状について聞かされた。
俺は公にされた情報しか知らなかったから、心底驚いた。
〝力〟を持つ者ならば、人を選んでいる余裕は無いということを聞いて、雛桜に怒鳴った自分を酷く恥じた」
「本当にすまなかった」と謝る彼に、顔を上げてと私は言う
「もう謝らないで。
私は元々、感情が顔に出にくいの。
だから、私に非があったのよ。
あなたが気負う必要はないわ」
「いや、俺が悪かったんだ」
二人して頭を下げ、数秒経った後、どちらからともなく笑い声が零れた
「それなら、お互い様だな」
「ええ、そうね」
直後、授業終了のチャイムが鳴る
「じゃあ、俺はこれで」
そう言って、倉渕羽津摩は席を立ち、扉へと向かう
すると、何かを思い出したように踵を返し、言った
「フルネームだと堅苦しいし、言いづらいだろう?
羽津摩と呼んでくれ」
「それなら、私も輝祈で構わないわ」
私が返せば、倉───羽津摩は嬉しそうに笑う
「じゃあ、またな……輝祈」
そうして、羽津摩は保健室を出ていった
再び静まり返った部屋の中で、私は一人、くすりと笑う
私が何故、過呼吸だったのかを聞かなかったことから察するに、
彼は心は読めないが、気配りはできるようだ、と
先程まで、鮮明に見えていた過去の記憶は、いつの間にか見えなくなっていて、心もとても穏やかだった
ありがとうと、心の中でもう一度呟く
「さて……私も教室に戻らないといけないわね」
そう独り言(ゴ)ちてから、私も保健室をあとにした───
「輝祈、大丈夫?」
教室へ戻れば、未來が不安げな顔で駆け寄ってきた
「うん、もう大丈夫。
心配かけたみたいで、ごめん」
そう言う私の胸元では、指輪がほのかに熱を帯びていた
「───輝祈っ、これあげる!!」
そう言って差し出されたのは、80cmほどの藤色のリボン
細かく織り込まれたその生地を見つめて、私は首を傾げる
「どうしたの? これ」
「昨日の放課後、最近できた手芸屋さんに行ったら見つけたの!
輝祈に似合うと思って買っちゃった♪」
そんな未來は珍しく、髪飾りを付けていた
サイドダウンにした髪に、私の物と同じ生地の、早苗色のリボンが結ばれている
リボンを受け取ると、「おそろいだよっ!」と未來が笑う
たった一言
けれど、その言葉が嬉しくて
「っありがとう……大事にする」
リボンを両手で包み込みながら、私は笑顔でそう言った
リボンをブレザーのポケットにしまい、暫く他愛もない会話を未來と交わしていれば、HR開始のチャイムが鳴った
「じゃあ、また後でね」
手を振る未來に、私も手を振り返す
未來が自分の席に着いたとほぼ同時に、教室の前扉がガラッと開き、担任教師が入ってきた
「きりーつ、礼〜」
気だるげな日直の号令に、全員が声を揃えて挨拶をする
そして全員が再び、席に着いたことを確認すると、担任教師は何故か、深い溜め息を吐いた
「せんせーどしたの? 更年期??」
「違う! 俺はまだ更年期なんかではない!」
ふざけて言った男子生徒の言葉を、担任教師は本気で否定した
「そんなに怒らないでよー。
そんなんだと、血圧上がって、せんせーすぐにお陀仏しちゃうよ?」
「むっ……う、うるさぃ」
男子生徒の言葉を気にしてか、先程よりも控えめに、担任教師は叱責した
「……いいか、お前たち。
二回目なんてごめんだから、先に言っておく。
絶対に、騒ぐんじゃないぞ」
「え……それってもしかして……」
誰かが小さく呟く
担任教師は、その声に頷くと
「転校生だ。 入ってこい」
前扉に向かって、そう呼びかけた
ガラッと扉が引かれ、この学校の制服に身を包んだ、一人の少女が入ってくる
その顔を見た瞬間、私は驚愕し、目を見張った
教壇に立ち、転校生が身体をこちらへ向ける
その髪と瞳の色も、顔立ちも、どことなく綾瀬実栗に似ていたのだ
「自己紹介してくれ」
センター分けの前髪に、おさげ髪の転校生が口を開く
「中国から来ました。 箏美玲(ソウ メイリン)です。
母が日本人なので、日本語は問題ありません。
よろしくお願いします」
無表情で淡々と話すその姿は、転校初日の綾瀬実栗と似ていた
違うところといえば、綾瀬実栗の無表情には何の感情も読み取れなかったのに対し、
転校生───箏美玲の無表情は、感情を押し殺しているようだと思ったところだ