抜き差しならない社長の事情 【完】





「ちょっと、曄ちゃん あれどういうこと?
なんか最近よく見かけるのよねーあの二人」


総務の保科女史が、眉間をひそめて曄の腕を引いた。


振り返った曄と保科女史の視線の先では、

優しい微笑を浮かべて夢野紫月を見下ろしている背の高い切野社長と

はにかんだように微笑みながら紙袋を見ている夢野紫月がいる。



「どうって、見た通りですよぉ クスッ」

「え?! 曄ちゃんは?」


「私は、あっち」


曄が指さす方を見上げると、

吹き抜けの空間の上の階から、神田専務が軽く手をあげているのが見えた。


「えええ!! そうなの? そうだったの?」


 クスクス


「ええ、そうなんです」



  ***





「梨紗? 俺」


『俺って誰よ?』


 クスッ


「俺は俺だよ
 なぁ、梨紗、 一緒に暮らすか?」


『……』


「もしもし?」


『――聞こえなかった』


 クスクス


「今から行くよ」


『カレーしかない』


「いいな、ホワイトデーにカレーか」


 クスッ



ピッ と電話を切って歩き出した相原の横に、

白い外車がとまった。


ウィンドウを開けて

「乗って行きませんか?」

ニッコリとそう声を掛けるのは切野社長だ。



助手席にいるのは紫月で、はにかんだ微笑みを浮かべながら、小さく手を振った。



「大丈夫ですよ、彼女の家は近いんでね。

月でも見ながら歩いて行きます」



星ひとつ見えない夜空を見上げた切野社長は、クスッと笑って

お疲れさまでしたと、ウィンドウを閉じた。



走り出す車の中で振り返る紫月に手を振り返し、


相原はいつか切野社長に言った自分の言葉を思い出した。



『やり直せないなら、また始めればいいじゃないですか。

何度だってまた挑戦すればいいんですよ。

 俺たちは生きてるんだから』




「我ながらクサいセリフだな」

小さくそうひとりごち、

トレードマークの無精ひげを撫でながら、相原はクスッと楽しそうに笑った――。







*- fin -*

道行く男は必ずと言っていいほど、曄を視線で追いかける。


酔っている男はなおさらで、
ふらつく足を止め、舌舐めずりする不届きな者さえいた。


それが誇らしいのか不愉快なのか、


何かを確かめるように曄を振り返った神田は

「曄、寒くない?」と聞いた。



「うん、大丈夫」とニッコリ微笑んだ曄は、

それでも寒そうに神田の腕に手をまわす。



「でも、心が寒い

 道行く女の子がみんな専務のこと見てるんだもん」


―― 神田さん……



精一杯甘えて抱え込むこの腕が、想い続けた人のものであることがうれしくて

曄は恋人の肩に髪を擦り寄せた。



クスッと笑った優しい恋人は、

 髪の上からキスをしてくれて、


曄はその温もりを感じながら
神田が切野社長と一緒にキャバクラに客として初めて来た日のことを思い浮かべた。



グラスにお酒を注いで、どうぞと渡した時

『ありがとう』と、神田はニッコリ微笑んだ。


たったそれだけのことだったが、その微笑は


ロッカーで先輩嬢にさんざん理不尽なことを言われ、ズタズタに傷ついていた心を、そっと癒してくれるような優しい微笑みで


思えばあの日から、曄の恋は始まっていたのかもしれなかった。



恋は叶って


今はこうして肩を寄せ合い、

好きだよと言ってもらえるけれども、


それは自分から告白したからにすぎず、そう思うと少し哀しかった。




何度目かのデートの今日、食事を終えて向かうのは多分――

  はじめて行く神田のマンション……



――自分はあんな仕事をしていたし
 もしかしたら、軽い女だと思われてるかもしれない



だからこそ少し冷たくしてみたいと思うのに

部屋には行かないなんて、言えるはずもなく





だから


はじめて入った恋人の部屋で


「曄、曄から言わせちゃったから

 俺の気持ち、どう伝えたらわかってもらえるか ずっと考えたんだ


 いくらなんでも早いと思ったけど、でも

 これが俺の気持ちなんだよ」



そう言って、指輪が入ったリングケースと


サイン済みの婚姻届を、スッと目の間に出された時は――


曄は子供のように泣いてしまった。


「お待ちしておりました」



蒼太にエスコートされながら、案内された席に着いてくと、


そこは宝石のように輝く夜景が見下ろせる席だった。




「うわー…… 綺麗」


「気に入った?」


「うん!」


うれしそうに頷く紫月を見て、
クスッと笑った蒼太も、満足そうに頷いた。



『今日はメニューも何もかも全部ヒミツ、俺に任せて』

と言われていたので、

席についても紫月はメニューを開かない。



向かいの席の蒼太は、
ウェイター相手にワインの注文をしていて、


その様子を感慨深げに見つめていた紫月は、




「蒼太、すごく大人に見える」


しみじみとそう言って、眩しそうに目を細めた。


「まぁ少しはな」


「なんか悔しいなぁ」


「何が」



「蒼太ばっかり素敵になってる」




「また『私は可愛くないアラサー女子になったのに』、か?」


 クスッ

  クスクス




「歓迎会のカラオケ、紫月踊ってただろう」

「! え? 見たの?

あの時蒼太いなかったじゃない!」



 クックック


「いたの? どこに??」


「廊下から覗いてた」


「信じられないっ!

いるってわかってたら歌わなかったのにぃ」


真っ赤になって怒るやら照れるやらの紫月を見ながら、

クックック と、ひとしきり笑った蒼太は、
笑いつかれたように はぁ、とため息をついて


ワインで喉を潤すと


「あの時、思った――」



テーブルの上で拳を作っている紫月の右手を包み込むように、

左手を重ねた。




「あの場にいる男全員

見るなと言って、殴り倒してやりたかった」



「! ……」



「創立記念パーティで紫月に絡んだあの男、

あの男の会社とは、即日取引を停止したよ」




「……」