「寒っ」
ブルッと身を震わせた紫月は、
昼間だというのに薄暗い廊下を足早に進んで、
一番奥にある給湯室へ向かった。
廊下よりも更に冷え切っている給湯室は、
ほんの少しの時間でも床から這いあがってくる冷気で凍りつきそうだ。
紫月はハァ―と指先を息で温めながら、
急いでインスタント珈琲をいれて事務室に戻った。
夢野紫月(ゆめの しずく)
独身OL御年30歳。
この古びて朽ち果てそうなビルのように、
今にも崩れ落ちそうな『有限会社ハッピー印刷』に勤めて4年になる。
「お疲れさまでした、課長」
「サンキュー」
紫月から珈琲を受け取ったのは相原(あいはら)課長。
白髪がちらほら見え始めた御年40歳。
バツイチではあるが彼もまた独身だ。
以前は所狭しと賑やかだった事務室も、今は紫月と相原の二人きりしかいない。
無駄に広い空間のそこだけを蛍光灯が照らしている……。
「ふぅ――」
と息を吐きながら軽く首を振り、
クイッとネクタイを緩めた相原課長をぼんやりと見つめながら、
紫月は心配そうに眉を曇らせた。
「社長どうでした?」
相原が出かけていた先は、
彼らの雇い主、幸田社長が入院している病院だ。
「ん?…… んん」
「具合、良くないんですか?」
「いや、体調はいいみたいだな。順調に回復しているし」
それならどうしてそんな風に浮かない顔をしているのだろうと、
怪訝そうに紫月が首を傾げていると、
珈琲を飲んで軽くため息をついた相原は、
重たそうにゆっくりと口を開いた。
「――いよいよここを手放す事にしたらしい」
「……そうですか。
まぁ、仕方ないですよね!」
紫月はつとめて明るい笑顔を作り、
クルクルと椅子を回して部屋を見渡した。
「いよいよ、ここともお別れかぁ」
この会社が無くなるという事は、
寝耳に水の話ではない。
紫月が入社した4年前には10人いた従業員も1人2人と減り続け、
気が付けば社長を含めて3人だけになってしまった。
年末年始はそれなりに忙しかったが、
追い風を感じる要素はどこにもなく、
詳しいことを聞かされていない紫月にも、
会社を取り巻く環境がかなり厳しい状態であることはわかっていた。
そんな中、社長が倒れた。
『持病の胃潰瘍が悪化したらしい。まぁ……心労だな』
相原がそう聞いた時から、紫月は覚悟を決めていた。
「残念だけどな」
「体の方が大切ですもの。社長よく決意しましたね」
「幸田社長も還暦だしな、
ここを売って、自宅も引き払って、奥さんの実家の田舎でのんびりすることにしたらしいよ」
「そうですか……」
「それで借金はチャラになるらしい」
「そうですか、借金が残らなくてよかったです。
社長が一人で借金に追われるなんて嫌だもの」
「そうだな……。
あ、そうそう、社長はちゃんと俺たちの事、考えてくれたぞ」
「え?」
「知り合いの不動産に頼んで、ここの売り手を探しているらしいんだが、
俺とお前を引き続き雇ってくれる会社であること。
そんな条件をつけてくれたらしい。
泣かせるだろ?」
「――ぇ、 ……社長ったら」
幸田社長という人は、そんな風に社員を家族のように心配する人なのだ。
優しい人だから……と思いながら、
紫月は自分の父親を思い起こた。
――パパも優しいけど、幸田社長以上に経営者としての才能はないから……
ハァ……
「私も明日、お見舞いに行って来ますね」
「ああ、行って来い。喜んでくれるぞ」
***
「倒産!?」
コートを脱ぎかけた手を止めて、
零れそうなほど大きく目を見開いて振り返ったのは、紫月のルームメイト亜沙美だ。
「倒産じゃなくて廃業。
誰にも迷惑をかけないで済むらしいんだ」
大学の同級生である紫月と亜沙美は無二の親友で
4年ほど前から一緒にこの部屋を借りている。
「社長の話だとね、少しづつ計画していたみたい。
引退した後は空気のいい田舎で、奥さまと第二の人生をのんびりと過ごすことにしたらしい。 病気をしたことでね、
踏ん切りがついたって言ってた」
そこまで聞いて、亜沙美はホッとしたように
ニッコリ微笑んでまたコートを脱ぎ始めた。
「そうか、
じゃあ辛いだけじゃなくて、明るい別れだね」
「うん。
社長が回復したら、課長と3人で快気祝いと一緒に門出を祝う送別会を開くことになったんだ。
あ! そうそう、あのね、
私の転職先も社長がなんとかしてくれるみたいでね、課長と一緒に同じところに転職できるらしいの!
なんかすごくない?」
「え? それはすごいね! 就職活動しなくて済むんだ」
「うん、そうなんだよ。
ほんとにね……私の心配までしてくれて社長優しいから。 ありがたいことだよ」
紫月はそう言って、
フォトフレームの中の写真を見つめながら感慨深げにため息をついた。
全員が楽しそうに笑っている写真は、
紫月が入社した年の社員旅行の時に撮ったものだ。
その様子を見ていた亜沙美も、
遠い目をしてうんうんと小さく頷いた。
正社員として『ハッピー印刷』に就職できるまで、
紫月がどれほど苦労をしたのか。
そしてハッピー印刷に就職した紫月が、愚痴も言わずにどれだけ頑張って来たか、
亜沙美はずっと見てきたのである。
「そっかぁ…… でもちょっと残念だねぇ。
名前通りの会社だって紫月よく言ってたのに」
「―― うん。そうなんだよねぇ」
出来ることなら、ずっとハッピーで働いていたかった。
お給料は高くはなかったし、ビルはおんぼろだったし、
仕事に慣れるまでは間違いをしでかして、よく叱られた。
出来ない自分が情けなくて、こっそりトイレで泣いたこともある。
でも楽しい想い出は辛い想いでの何十倍もあった。