「総務課に限らずもうすでに女子社員の狙いの的よ。独身でしょ?彼女はいるか知らないけど、争奪戦になると思うわよ」
「争奪戦って…。でもそっか、相変わらずモテてんだ。あ、彼女は多分いないと思うけど」
「え、そうなの?」
すると越智が私のほうをじっと見て、ニヤッと笑った。
「紗羽、お前と一緒」
「なにがよ…あ、すいませんエイヒレひとつ」
「あ、ビールも追加で。みんなは?飲む?じゃあ3つ」
ジョッキをあけてしまおうと、残っていたビールを勢いよく流し込む。
「水瀬課長、お前と一緒で恋愛に興味ないし出来ねえの」
「ぶっ」
思いもよらない越智からの一言にむせ込んだ。慌てて胸元をドンドンと叩く。
すると由紀が楽しそうな声をあげた。
「なにそれ面白い!男前で仕事が出来てモテるのに恋愛が出来ない男!」
「まああの人の場合出来ないっつーより、この上なく面倒なんだと思う。付き合ったりなんだかんだすんのが。昔からそうだったし」
「…だって。あんたはどうなの紗羽」
「…どうって」
越智の言う通り、私はあまり恋愛というものに興味がない。
もちろん、彼氏がいたことだってあるし、そのおかげで幸せだと思う瞬間もあった。
だけどなにかを犠牲にしてまで、たとえば仕事の時間を削ってまで恋愛に時間を費やそうとはどうも思えないのだ。
「この干物女」
「ひもの…!?ゆ、由紀だってしばらく相手いないくせに!」
「あ、そうなの?なんだ3人ともお一人様かよ」
そう言ってわざとらしく大げさにため息をついた越智。
(…あれ?)
そんな越智を見る由紀の目が、なんだか今までとは少し違った気がした。
だけどそれは一瞬で、次の瞬間には由紀はいつも通り私に説教をする。
「とにかく、恋愛が苦手だなんて言ってらんないわよー!まわりはどんどん結婚してってんだから」
「別に苦手なわけじゃ…。ただちょっと面倒で不必要っていうか」
「あ、あの人…って水瀬課長ね。前に同じこといってたな。わざわざ恋愛しようとは思わないとか」
越智がすかさずそう言ってくる。
さっき会社のエレベーターホールでの課長との会話を思い出した。
(”ほっとけ”って言ったときの課長、ほんとにどうでも良さそうだったもんなあ)
「課長と紗羽、ちょっと似てるんじゃないの?」
「…やめてよ、私あんなに怖くないもん」
2人の顔を交互に見てそう返した。
その後3時間ほど無駄話に花を咲かせた私達はお店を出た。
「じゃあ次の飲み会までにそれぞれネタ集めとくってことで!」
「つーか相手見つけとくってことで」
3人とも見事に帰る方向が別なので、店の前で解散した。
私は越智の背中が遠ざかったのを見て、自分の帰り道とは違う通りを歩いている由紀を追いかけた。
「待って由紀」
「え?紗羽どうしたの」
「ちょっと確認させて」
そう言うと、由紀は困ったように目を伏せた。
「…私、バレバレ?」
「まさか!もしかしてって思っただけだよ。絶対越智は気付いてないと思う」
少し顔を赤くして俯く由紀は、恋してる女の顔をしていた。
「自分でも今更って思ったんだけどさ、気付いたんだからしょうがないっていうか…」
「越智のこと好きなんだ」
「ちょっと声大きい…!」
まわりには誰もいないのに焦ったように小声になる由紀。素直にかわいいなと思った。
「…誰にも言わないでよね」
「うん言わない。応援するよ」
「えっと…今のままじゃまったく意識されてないことぐらいわかってる。でももう私は友達ってだけじゃ嫌みたい」
由紀は少しだけ悲しそうな顔をした。それさえも、恋愛に消極的な私にはキラキラして見えた。
ちょっとだけ、羨ましいとも思った。
まだ夜は肌寒い。
いつもは気にも留めない星空も、真ん丸じゃない月も、由紀の恋を応援しているような気がした。
5月。
大型連休も終わり、昼間は暑い日が増えてきた。
仕事も順調で、怒鳴られることなくミスすることなく上手くいっている。
社員達と課長との関係も良好で、みんな課長のやり方に慣れてきたのか先月のように怒られることも減ってきた。
ところが平穏というものは、突然打ち破られるのが定石だ。
「………出張、ですか?」
「うん悪いんだけどね、来週の頭に1泊で仙台のこの会社の契約更新取ってきて」
ちっとも悪いと思ってなさそうな顔でそう言ってきたのは、営業課の課長だ。
「ひ、人違いではないですか?どうして総務の私が…」
「本当はうちの課から派遣したいところだけど今回は特別なんだ。その仙台の会社ってのがそっちの水瀬課長が転勤してくる前に担当してたとこで…今回も直々のご指名。君はその助手として付き添い役だから」
「え、水瀬課長とですか?」
開いた口がふさがらない。
入社してから一度も部署移動したことがないので、出張なんて産まれて初めてだ。
それだけでも緊張するのにまさか水瀬課長と2人でだなんて。もし失敗したときにはなんて言われるかわかったものではない。
「もう決まったことだから。詳しいことは水瀬くんに聞いてくれる?じゃあ頼んだよ」
去っていく営業課長の背中を唖然と見送り、フラフラと自分のデスクに向かって力無く座り込んだ。
女の噂は怖い。
「中野先輩聞きましたよ!羨ましいですー!」
出張を告げられたその日の夕方には、色んな人から同じようなことを何回も言われた。
どれも羨ましいだの帰ったら話聞かせてくださいだの、課長の人気ぶりが伺える内容ばかりだ。
「もしかして中野さんも課長のこと狙ってたりしますー?」
上目使いでそう聞いてくるのは同じ課の後輩だ。
「まさか…。あのね、こっちは初めての出張ってだけでいっぱいいっぱいなんだから。そんな余計なこと考えてられないって」
「ええ?嬉しくないんですかあ?水瀬課長と2人っきりですよ?」
「私は、別に狙ってもないしタイプでもないから。むしろ怖いから一緒に行くの不安なぐらい」
これは紛れもなく本心だ。
ただ、みんなから一目置かれる仕事ぶりを間近で見られるのは少しラッキーなのかもしれないとは思う。
「そうですかー安心しました!でも中野先輩なら、きっと出張上手くいきますよ!だってうちの課で一番仕事出来ますもん」
「…ありがと」
曖昧に微笑んでフロアを出た。
後輩にあんな風に言われるのは悪い気はしない。ただ、この1ヶ月水瀬課長と同じ環境で仕事してきてその凄さに圧倒されてきた身としては、満足は出来ない。
(私に出来るだけの準備はしておこう)
私はその足で営業課へと向かった。
「———で、これが一応基本のマニュアル。こっちはクレームの原因と対策をまとめたやつ。あんまり見せたいもんじゃないけどな」
「ありがと越智!助かる」
「びっくりしたよ、いきなり営業の極意を教えろだなんて。初めてだと色々不慣れだろうけど頑張れよ」
「うん」
少しでも不安を解消するために越智に助けを求めたら、役に立ちそうな書類を引っ張りだしてきてくれた。こういうところが優男が優男たる所以だ。
(越智は由紀のこと、どう思ってんのかな)
思わずその顔をじっと見る。
同期としては、2人はすごくお似合いだと思うし上手くいって欲しい。ただ越智に他に好きな人がいるなら話は別だ。
「…なに?」
「あ、ううん!これありがと!じゃあね!」
慌てて営業課をあとにした。
私のせいで由紀の気持ちがバレるなんてことは絶対にあってはいけない。
越智の気持ちがまったくわからない今はなおさらだ。
通路を歩いていると、奥の方の部屋の扉が少し開いているのが見えた。そこは、前に水瀬課長に案内した旧書庫だ。
不思議に思って近付き、開いた扉の隙間から中をのぞきこんだ。
中にいたのは水瀬課長だった。
何かを探しているようには見えないがのぞいてしまった手前、話しかけようか迷った。
(…いいや、気付かれてないしこっそり戻ろ)
その場を去ろうとした瞬間。
「入るなら入ればどうだ」
「!」
水瀬課長がゆっくりとこちらを振り返って、目が合った。私の顔をちらっと見て、すぐに手元のファイルへと視線を落としてしまった。
「あ、いえ…特に用事があったわけでは。扉が開いてたから気になっただけで…すみません」
「そうか」
そこで、出張のことを思い出した。
「来週の出張の話聞きました。よろしくお願いします」
「ああ、よろしくたのむ」
「あの、私出張って初めてで…あ、新幹線とホテルの手続き確認はしました。課長の手腕を吸収するつもりで頑張りますので…」
ふと思った。
そもそもどうして私なのだろうか。
水瀬課長が行くのは先方の指名だとして、どうして一緒に行くのが私なのだろう。営業課の人でも良かったし、そうでなくてもせめて私より慣れてる人なんていくらでもいたはずなのに。
「…私ですみません。他にもっと適役がいたと思うのですが」
「そんなことはない」
「え?」
突然聞こえてきた声に顔を上げると、課長はじっとこちらを見ていた。
そして信じられない言葉を口にした。
「俺が指名したからな」
「…はい?」
「俺が、お前を指名したんだ」
課長はしれっとそう言うと、また目線を落とした。
「月曜の朝9時発の新幹線だったな。直接駅で落ち合うから出勤しなくていい。先方への手土産は今週末に用意しておいてくれるか」
「ま、待ってください!」
2人の目がまた合った。
力強い目に対抗するように、私も課長を見つめた。
「…どうして私を指名してくださったんでしょうか」
課長はふっと息を吐き出し、ファイルを閉じた。
「ここに来て1ヶ月、俺は出来るかぎり社員のことを見てきたつもりだ。……お前と組むのが一番仕事がやりやすいと思ったんだよ」
扉のほうへ歩いていく課長が、すれ違いざまに私の頭を小突いた。
「いてっ」
「中野、お前はいつも通りでいい。安心して付いてこい」
扉が閉まった。足音が小さくなっていく。
課長のこぶしが当たった場所に思わず手を当て、扉を唖然と見つめた。
(なんかちょっと…嬉しい、かも)
気付けば出張への不安なんて、まったく無くなっていたのだった。
そして迎えた月曜日。
私は今新幹線で、水瀬課長の隣に座っている。
「課長、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
買ってきたペットボトルのお茶を課長に手渡し、自分のぶんの蓋を開けて一口飲んだ。
窓から外を見ると、青空と自然の緑とのコントラストが綺麗だ。
「天気いいですね」
「そうだな」
課長はカバンからなにかの資料を取り出して読み始めた。新幹線の中でも仕事をするつもりらしい。
なんとなく手持ち無沙汰な私は、課長を見習って越智からもらった営業対策の資料を見ることにした。
この出張をうらやましがっていた女子社員達には驚かれるだろうが、せっかくの2人での出張なのに会話がほとんど無い。
以前はこの無言が気まずいと思ったのに、今はそうは思わないことに気が付いた。
(慣れてきたのかな、課長に)
「…中野」
気付けば課長が私を見ていた。
どうやら無意識に課長をじっと見ていたらしい。
「な、なんでもありません…」
「お前嘘つくの下手過ぎるだろ」
そう言って溜息をついた課長が手元の資料を閉じて足を組んだ。
その姿がサマになっていて、こういうのがいい男なのかと妙に納得した。
「前も言ったけど、言いたいことがあるなら言えって」
「課長、前より話しやすくなりましたよね」
「はあ?」