未熟女でも恋していいですか?

生徒は放心状態のまま担任に付き添われて自宅へ戻った。

母親は私を襲いそうになったと聞かされ、何かの間違いではないのか…と、何度も本人に問い質した。


『先生のことが好きだった。親しく話しているうちに、自分の彼女の様な気持ちになってしまった…』


子供の言葉を聞いて泣き崩れた母親は、憎しみの矛先を私に向けた。



『子供を惑わすとは如何なものか!?』


父親を連れだって学校へと赴き、言いたいことを言い放って転校させた。


その年に決まっていた本採用は、不思議と無効にはならなかった。

勧告という形だけは取られたが、ほぼ一切のお咎めを受けなかった。



『その代わり』として、学校内であったことは誰にも、何処にも公表するなと念書を書かされた。

あんな形でトラウマを残されたまま、その学校で5年間勤めて今の学校へと異動した。


通勤にスカートを穿かないのは、自分が女性であると生徒達に認識させたくない思いがあったから。

パンツルックにさえしていれば、足もさらけ出さずに済む。


あの日と同じ体験など二度としたくない。

男に……生徒に襲われるのなんて二度と嫌だーーーー。




そんな私が高島を自宅に引き込んでいる。

空腹が原因で餓死寸前だったのを理由に、救済措置を取った。


あれだけ男と2人きりなどならないと決めたのに、どうしてあの男だけは招いてしまったのだろう。

傷を深めて増やしてしまうだけなのに、どうして直ぐにでも追い出さないのか。

(あの人が私に近寄ろうとしないからだ…)



それが甘いんだと、もう1人の自分が責める。

若かろうが中年だろうが男は男。


今は腹ペコアオムシの仮面を被っていても、それがいつ狼に変身するか分からない。

距離を少しづつ縮めていって、一気に襲われたりしたらどうしようもない。



ブルッと身を震わす。


結婚願望が無いのではない。

男に触れられると、さっきの様に気を失ってしまうからできないんだ。


何とか自分に暗示をかけることで、日常生活は滞りなく送れている。

今の学校は女子高だから、余計な神経も使わずに済んでいる。



その気持ちの緩みが高島を家に引き込ませたとしか思えない。

そうでなければ、あのまま銀行でサヨナラをしていた筈だ。




「お風呂……入ろう………」


高島の言う通り、熱めのお湯を足そう。

汗をすっかり流して、気分を変えなくては。





「もういいのか?」


ガスのスイッチを入れにキッチンへ行くと、仏壇の間に寝転んでいる高島から声をかけられた。



「ええ……まあ……」


男だと意識しないように俯いて答えた。

フラつく足取りを気にして、高島が起き上がる。


「大丈夫なのかよ」


寄ってこようとするのを手で止め、もう一度「平気」と言い聞かせた。



「お風呂……入るから…」


わざわざ宣言することでもない。


「ああ。気をつけろよ」


言い方が優しい。


さっき自分の目の前で気を失ったせいだろうか。




「高島さんも休んで下さい……おやすみなさい……」


ゆっくりと足を前に出す。

その胸の内には、一切の感情も持たずにいる。



何も考えない。

何も感じない。


そうすることでこの10年間、何とか教師として教壇に立てた。




「おやすみ」


背後の高い位置から声がして振り返った。

明らかに男にしか見えない高島の顔を眺め、目の奥に涙が潤んでくるのを感じる。




(……っすん)


心の中でいつもの声を出して向き直る。



信用するな。


アオムシも男だ………。



ゆったりとお湯に浸かった日の翌朝は、意外にも目覚めが良かった。

いつも通りの6時半に起きて、ヨロヨロとした足取りだったのは最初の数歩のみ。

後はしっかりと床を踏みしめて、廊下へと出られた。




「…おはよう。カツラ」


玄関先から名前を呼ばれて振り向く。

頭にタオルを巻いた男が立っている。

一瞬、誰だったろうか…と考えてしまった。



「お…はようございます。た、高島さん…」


アオムシを1人家に引き込んでいた…と思い出した。

名前を呼び捨てにしろと言った本人は、それについて深く求めることはなかった。



「早起きですね。何をしていたの?」


外から入ってくる男に尋ねる。


「壁の状態を見てた。汚れてはいるが傷んでるとこはなさそだ。だから、直ぐにでも塗装に入れる」


「…そう。良かった。…あの、今日塗料を買いに行かれるんですか?だったら代金を用意しますけど…」


「いや、今日はまだいい。先に下地剤を塗って、それからにする」


「そうですか…」


さっさと塗って出て行って欲しいのに…と、声に出せない思いを抱いた。


私はこの男のことを信用しているとは言い難い。

昨日のことがあってから、余計にその思いが募った。



「……じゃあ朝ご飯作りますね」


部屋のドアを閉め、キッチンの方へ向かって歩き出した。


「…あっ、それなんだけど…」


「えっ?」


振り返ると高島は靴を脱いで上がった。

スタスタと私の横をすり抜け、キッチンへと入っていく。

その後ろを追いかけるようについて行き、キッチンへと足を伸ばした。




部屋の中では、お味噌汁の香りが漂っていた。


「あれ?もしかして、作ってくれたの?」


目線を高島に向ける。


「まあな」


ガスレンジの上に置いてある鍋の蓋を開けてみた。



「わぁ…具沢山で美味しそう!」


母の作るお味噌汁のようだ。


「具入れ過ぎかな」


恐縮そうに呟く。


「ううん。そんなことないです!これだけ具が入ってると、旨味も増すから余計美味しい筈です!」


クンクン…と、鼻をひくつかさせてしまった。


「食べるのが楽しみ!私、誰かに朝ご飯を用意してもらうのなんて……」


「50日以上ぶり。…だろ?」


「え!?……ええ、そう……」



ニヤッと笑う高島の顔を凝視してしまった。

母を亡くしてからずっと、自分が1人だった…と実感させられた。



「顔洗って来いよ。飯の支度はしといてやる」


食器棚から茶碗や汁椀を出し始める。

その背中を見つめ直し、何だか目頭が熱くなった。



「…すみません……お願いします………」


変な感じ。

客人がまるで家族のようだ。


高島は私の言葉に返事もせずにいた。

黙ってその背中を見つめながら父がもしも生きていたら、こんな朝を迎えることもあったかもしれない…と考えた。


(年が違うか…)


はは…と小さな笑い声を零してキッチンを出た。


廊下を歩きながら、昨夜の弁明をするべきだろうか…と悩む。



教え子に襲われそうになった。

それがキッカケで、今でも男性が怖い…と……?



(そんなこと言ったら余計にお子様呼ばわりされそう……)


何も聞かれないうちは黙っておこう。

結果的には何事もないうちに救い出してもらえたのだから、敢えて口にすることはない。



(…ただ、私の心に忘れられない傷を残しただけ……)


それが原因でお一人様の人生を歩むことになるかもしれない。

でも、私1人のことだからそれでも一向に構わない。


相手さえ居なければ困ることはない。

だから、一生1人でいるのがいいんだ。



(一生1人…か……)


チクッと胸が痛む。

その思いが過る度に、何処かしらもの悲しくなる。


1人が好きな訳じゃない。

でも、1人でないと困る…。



(どうしろって言うのよ、私に……!)


自分自身で仕様がなくなる。


誰かに相談しようにも事が事だけに話せない。


このまま誰にも話さず、一生胸の内に仕舞い込んでさえいれば、いつか思い出は風化して忘れてしまうことができるのだろうか。



(いつか……っていつ。実際、未だに男が怖いじゃない……!)


ビクビクしながら通勤電車に乗る日々。

女性専用の車両が満員の時は、次の電車を待って乗る。


誰も私の焦りを知らない。

周囲の人には、私の都合なんて関係ないのだから。

パシャパシャ…と飛沫を上げて顔を洗った。

ゴシゴシと擦るように拭き上げて鏡を覗く。



「しっかりしろ。藤…!」



不安なことは考えない。

先よりも今だけを大事にする。


そうして行こうと決めた。

全てを公表しないと決められた日からーーーーー




「カツラー!食うぞーー!」


アオムシが呼んでいる。

昨日と同じく朝早くから起きだして、あの大きな手で朝ご飯を作ってくれたんだ。



「はーい!今行きます!」


誰かと一緒がいい。

本当はそれが一番望ましい。



………でも。



(相手は、男じゃ駄目なんだ………)



虚しさを秘めながら食卓へと向かった。


アオムシも男だ。


だから、早く1人にして欲しい…………。



食事を済ますと、いつものように高島が食器を流しへ運んだ。

洗おうとするのを制して、自分が食器を洗う。

高島はその間外へ出て、下地剤を塗装する準備を始めた。


通勤の準備を完了して外へ出ると、壁の周りには足場が組まれ、マスキングテープやビニールが貼られようとしている。


仕事に関する限り、この男は単なるアオムシではなさそうだ。

手際も良ければ能率も早い。

しかも、驚くほど丁寧で、隅々まで行き届いている。



(当たり前よね。これで生計立てているんだから…)



自分の仕事と一緒。

ただ、この人には傷がないってだけだ。



「…もう行くのか?」


組んだ足場の上から聞かれた。


「はい。昨夜授業の準備ができなかったから早めに行ってします」


一本早い電車で行く。

朝礼会議の前に予習だけはしておきたい。



「相変わらず色気のねぇカッコしてんな」


上から目線を流して言われる。


「色気よりも機能性を重視してるんです」


本当は女らしい格好をするのが怖いだけだ。


「くだらねぇ理由……」


下らなくて結構。

授業がきちんとできれば問題ない。



「そういう高島さんだって、仕事着はいつも同じじゃない」


「俺は仕事上汚れやすいからから統一してるだけ。カツラとは意味が違う」


「あら、私だって意図があって統一してるだけです」


「どんな」


「それは……」

口に出しかかって止めた。

危うく男から自分を守る為だ…と言いそうになった。


「…別に何だっていいでしょう!高島さんには無関係です!」


ぷいっと背中を向けて歩き始め、思い出したように振り返った。



「今日は銀行へ行ってよ!」


念押ししておかないと。


「行く行く!心配するな!」


(するわ!)


心の中で呟き、家の外へ出る。

自分が家を出た後、高島の行動は全くもって見えない。


見も知らぬ男を家に引き込んでいると親戚の者が聞いたらなんと言われるだろう。

そもそも家の前に毎日車を停めている時点で、近所の人から何と思われているかも知れない。



(考えるのも怖い…)


自治会長の羽佐間さんは、高島の顔を見ている。

あの日、家に帰ってから奥さんに、何と言って話しているか。

母を亡くして1人になった私が、早速男と同棲していると思われても仕方のない行動だ。


(一緒に居るのは確かだけど、別に何かある訳でもないし…)


食事を一緒にするだけ。

それ以外は部屋も別々。


第一、相手は私が恐怖を感じる男だ。

指一本触れるだけでもビクつ様な生活だ。


こんな私のことを知らない世間の人に、有る事無い事を想像されるのは耐え難い。



早く1人になりたい。

2人の空気に慣れてしまう前に、1人に戻っておきたい。


(壁の塗装が済んだら出て行ってと言おう。お金なんてなくても知らないから!)