「それじゃー藤(かつら)ちゃん、また次の法要でね」
「伯母さんありがとう。お気をつけて」
玄関先で母の妹を見送る。
忌明けの日。
母が亡くなって50日が経った。
カラカラ…と音を立てて扉を閉める。
築35年が過ぎた我が家には、今日から私1人だけが住む。
私は『仙道 藤』
『藤』と書いて『かつら』と読む。
だから、フルネームは『せんどう かつら』と言う。
『藤』と言う名前が付けられたのには理由がある。
平屋建ての我が家の前庭に植えられた藤の花。
私が生まれた日、その藤の花が満開を迎えていたのだ。
品種はよく分からない。
でも、花房は長くて綺麗なピンク色をしている。
だから、私はこの名前がお気に入り。
ついでに言うなら、庭の藤も大好き。
歳の話をするのは嫌だけど、敢えて言うなら間もなく36になる。
35年を過ぎた家は、私が生まれる前に建てられたから嫌でも忘れられない。
もう36。
いや、まだ36……?
「もう36だよ。今更このトシでカッコつけたこと言っても仕方がない……」
自ら認める以外に何の特権がある。
もう36になるんだ。
あとひと月もすれば………。
「早〜〜い……」
ははは…と虚しく笑ってお終い。
2月の終わりに亡くなった母の忌明け法要に集まってくれた親戚たちに出した、折り詰め弁当の空き容器をキッチンの流しへと運ぶ。
私は母と二人暮らしだった。
父は幼い頃に病死して、母は私を女手一つで育ててくれた。
介護職員として某施設で働きながらせっせと家事や育児に専念してきた母は、半年前、急に倒れた。
脳梗塞と診断され、意識の戻らないまま人工呼吸器のお世話になって半年生きた。
本当はもっともっと長生きして欲しかった。
意識なんて無くてもいいから私の側にずっと居て欲しかった。
1人にされるのが怖かった。
1人でこの家に暮らすのが不安だった。
「お母さん…私、今日から本当に1人よ。1人って侘しいね。辛いとか寂しいとかじゃない。侘しいんだよ。ホントに…」
遺影に語りかけるのが癖になりつつあった。
卯月の午後、まだ誰とも暮らしてなかった日のこと………。
忌明けの翌日、玄関チャイムが鳴り響いた。
「はーい!」
近所の方が来られたのかと思い、扉を開けてみると………
「こんにちは。初めまして。高島組です」
「たかとうぐみ……?」
ヤクザ屋さんですか?…と聞くには風貌が違う。
頭にはタオルを巻いて、作業着のようなツナギを着ている。
色は無難なベージュカラーで、頭に巻いたフェイスタオルはブルー。
私よりも頭二つ分くらい背の高い男は、四角張った顔をしている。
「何屋さんですか?」
押し売りもセールスも間に合ってます…と伝えると、思いがけない答えが……。
「左官屋です。おたくの外壁のペンキ、随分剥がれてますよね」
「…サカン?…ペンキ?」
左官なんて仕事にこれまで縁がなかったから、全くピンとこなかった。
ついでに言うなら家の外壁なんて、じっくり見たこともなければ気にしたこともない。
「ふぅん…それがどうかしました?」
剥がれてても住めますよ。ついでに何も困らない。
「外壁は大事です。きちんと塗っておかないと家が外から腐ってしまう」
何の意味があって脅すのか。
最近流行りの『オレオレ詐欺』ならぬ『カベカベ詐欺』?
「間に合ってます。ほっといて」
「さよーなら」…と扉を閉めかけたら、「待てっ!」と足先を突っ込まれた。
「な…何するんですか!?」
恐怖心を露わにして扉にかけてる手の力を強めた。
なのに、相手の方が力が強くて一向に閉まらない。
ガタタ…ガタガタ…と扉は震える音を出し、それが余計でも恐怖心を煽る。
「け…警察呼びますよ…!」
「呼べるもんなら呼べんでみろよ!」
開き直る相手の態度に「じゃあ…」と手を離した隙に外へと引き出された。
「あんた、これを見ても何とも思わねーのか!?」
引っ張られて向かい合わされた家の壁には、剥がれ落ちたペンキの跡が拡がってる。
ライトベージュの壁は長年の風月に耐えてきたせいで、見事に茶褐色に変色していた。
「ずっとメンテナンスしてねーだろう。見ろよ。家が泣いてるぞ!」
指差す男はムカついた表情を浮かべて私と壁を見比べる。
家が泣くなんてことはこの人の想像上のことだけど、確かに見栄えのいい状態ではない。
でも。
「いいんです!どうせ、私1人が住むんですから!」
そう。雨露さえ凌げればいい。
壁のペンキが剥がれて、どんなに見窄らしく見えてもどうってことない。
誰にも迷惑なんて掛からない。
住んでる私は、何も困りはしないのだから。
「呆れた女だな。家がこんな状態でいると、中に住む人間にも悪影響が出るんだぞ!」
(悪影響……)
詐欺もここまでくると巧妙だな…と思った。
恐怖心を煽るだけでなく、不安感まで誘うとは。
「悪影響なんてありません!あなたの方が影響悪い!帰って下さいっ!」
失礼過ぎる男に刃向かった。
ギロリと睨む男の顔は彫りが深くて、鼻は筋が通って高い。
四角っぽい目尻は切れ長な感じで、ハッキリと刻まれた二重瞼をしている。
小鼻はコンパクトな感じに仕上がっているのに、口が若干大きめ。
唇が肉厚なとこは最近流行りのイケメンの主流とは真逆かもしれないけれど…。
(……まあ、イケメンって言えば、そう見えなくもないか……)
ガラ悪そうだけどね…と心の中で呟く。
私の心情を読み取ったかのような男は、見えていた右の口角を上げた。
「そんなに俺の顔がイケてるか?」
「…あんたバカ?誰もそんなの言ってないでしょう」
ぎくっとしながらも冷静にそう言う。
こんなの相手になんてしてられない。
私はこれから銀行へ行って、母の通帳を解約しないといけないんだ。
「すみませんけど、帰って下さい。私はこれから行くとこがあるんです!」
「どこへ行くんだよ」
「そんなの貴方には関係ないでしょう!急ぐんで失礼します!」
「急ぐなら送ってってやる。その代わり、壁塗りさせてくれ」
「いーえ!結構です!たかが銀行くらい、幾らでも歩いて行けます!」
「銀行へ行くのか?だったら余計に好都合だ。俺も用がある。一緒に行こう!」
「えええーーーっ!!???」
一緒に行っていきなり『振り込め詐欺』とかはないよねぇ?
騙す人が騙される人に付いてきて、その場で口座に振り込ませたら即刻逮捕されちゃうもんね。
「この間仕事請け負った先からの料金が振り込まれてないか見に行くんだ。ずっと催促してんのに、一向に入れてくれねーから」
(なんだ。それでか…)
ちょっと安心した。
…と言うか、大いに安心。
「……で?行くの?行かねーの?」
黙り込んでる私に目を向けて急がす。
「そういう理由でなら……ご一緒します……」
「だったら急げよ。表の道路に停めてる軽トラックの中で待ってるから」
ふいっ…と背中を向けられた。
呼び止めそうになるのを我慢して家の中に走り込む。
母の通帳が入ったバッグを握りしめて玄関の鍵を閉め、表の道路へ飛び出した。
「ここだ!」
運転席からさっきの男の声がする。
「早く乗れ!駐禁取られるとマズイ」
表の道路は路肩が狭く道幅も狭い。
なのに交通量だけは意外に多くて困りもの。
だから、1時間から2時間間隔で警察のパトカーがウロつく。
この男は、それをよく知っているらしい。
『犯人は土地勘のある人間』
事件やサスペンスでよく聞かれる台詞が思い浮かんだ。
(乗っても大丈夫!?よく考えたら全く知らない人なのに)
「ぼやっとすんな!ウスノロ!!」
「ウスノロぉぉぉ〜?」
……言葉の指導が必要と見た。
私はこれでも高校の国語教諭なんだから。
「お邪魔致します!」
助手席のシートにお尻を乗せると、運転席の男は「おぅ」と声を発した。
狭い空間で聞く男性の声は数年ぶり。
以前に聞いたことがあるのは同僚の教師で、しかもそれは同じ部活の指導をしている教頭先生のものだった。
「シートベルトしろよ。事故った時、外へ放り出されても知らねーぞ」
子供のような注意を受ける。
親父みたいな感じの男に苦い気持ちを抱きながら、銀行へと行く羽目になった。
ガタガタ…と揺れのひどい軽トラックの中で名前を聞いた。
「俺の名前は『たかとう のぞむ』って言うんだ。高い島と書いて『たかとう』と読む。のぞむは希望の『望』のみ一字。子供の頃は高望みな名前だな…とよく言われたもんだ。俺が自分で付けた名前でもねぇのにさ」
「ぶっ……!」
くくく……!と笑いを噛み締める。
この人、変だけど面白い。
何が…って明け透けないところが。
「笑うなよ。そういうあんたの名前は?仙道何てゆーんだ?」
「かつらです」
「鬘?」
「それ頭に被るものでしょう?イントネーションが違います。か・つ・ら。段々と下がるんです」
「かつらぁ〜〜?厄介な名前だな。どんな字書くんだよ」
「藤の木の『藤』と書いて『かつら』です」
「へぇ〜〜藤か。そう言えば、あんたん家の庭に藤棚があったな」
家の外壁を眺めてた割に、そんな所にまで気付いてたのか。
「ええ。あの藤の木は私が生まれる前の年にあの場所に植えられたんです」
「あんた幾つ?」
「女性に歳を聞くんですか?失礼にも程がありますよ!」
礼儀知らずな人。
「そう言うなよ。あの家の状態からして30年は経ってるな」
「家と一緒にしないで!」
「だったら言ってみろよ。幾つ?」
「さ…35……です」
「何で言い淀むんだよ」
「もう直ぐ36になるからで……っ!」
しまったぁ……つい、本当のことを………