未熟女でも恋していいですか?

指一本触れない男は器を受け取り、自分の分だけを淹れて飲み干した。



「……落ち着いたか?」


飲み終えると振り向きざまにそう聞かれた。



「うん……」


子供のように返事をした。



「そうか。じゃあもう帰れ」


「えっ……」


急に一人きりにされるのかと思った。


「これ以上に一緒に居ると、俺の方が堪らねぇから」


「はっ!?」


言っている意味が分からない。



「だからぁ」


頭に巻いていたタオルを外し、乱れた髪の毛を触る。


「これ以上一緒に居たら、カツラの望まねぇ慰め方しそうだから帰れって言ってんだ!」


「望まない慰め?…何それ」


きょとん…として聞き返す。

高島は「あーもう!」と怒ったような声を出し、ズィッとこっちに近寄った。


「ハグしたり肩抱いたりしそうだからとっとと出てってくれって言ってるっ!」


恥ずかしそうに顔面が赤らんでいる。

その顔を見た途端、それまでの感じていた鼓動は更に速さを増した。




「ご、ごめん……!」


何に対して謝ったのか分からないまま本堂を駆け出して外へ飛び出た。

縺れそうな足元に気をつけながら靴を履いて急いで走り出す。


……怖いからじゃない。

違う意味で動悸が激しくなって、それを自分が一番信じられないから走っていた。




息が切れるまで走って、家の側に近づいてから歩きだした。

「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ、はっ……」


短い呼吸を繰り返しながら、何とか少しずつ治っていく心音に安心する。


でも………




(どうしよう………)



見えてなかった感情を思い知ってしまった。


自分には拭いきれない恐怖があるのに。




唇を噛み締めながら玄関の鍵を開けて中へ入った。

カチャ…と鍵を閉めた音を確かめて仏壇のある部屋へ急ぐ。




「お母さん……」


座り込んで話しかけた。

父の遺影もあるのに、語りかける相手はいつも母だ。


母はいつも相談相手になってくれた。

あの未遂事件以外は、全て母に話して聞かせてきた。


だから………




「どうしよう………高島のことが好きみたい………」



呆れる程絆されてしまったいるのに気づいた。

この間から気になっていたのも、高島に会いたくて仕方なかったからだ。



高島が怖かったんじゃない。

この気持ちに気づくのが恐ろしかったんだ。



好きな人ができても、触れられると発作が起きそうで怖い。

だから、無意識のうちに怖さをすり替えようとしていた。



でも……これからはもう………



「どうしよう……もう誤魔化せない………」



困惑する私を写真の母が笑っている。

隣にいる父と一緒に向こうの岸辺で何と言い合っているのだろう。

2週間もすれば36になる私のことを、青い果実のように笑い合っているかもしれない。


熟女にまた一つ近づくのに、私自身はまるで未熟女のまま。

淡い初恋に似た気持ちを思い出して、慌てて男の前から逃げ去った。



(どうすればいいの……こんな気持ちを持って………)



声に出しづらい言葉を抱えて母を見つめる。


高島 望に、『娘と一緒になってくれない?』と言った冗談が、妙に生々しく感じられた………。





納骨堂に参った日の夕飯はシチューにした。

少しだけ多めに作り、明日の夕飯はそれをグラタンにリメイクして食べようと考えた。


グツグツ…と煮込む鍋の前に椅子を持ってきて座り、明日からの予定を見直す。


最初はレンタカーを借りて遠出をしようかと思っていた。

でも、何処もかしこも人が多く、人混みの苦手な私が一人だけで出掛けるのは難しい。

近場でショッピングするのが妥当だろうと思い直し、情報誌を捲ってはいるが………



「はぁ……」


さっきから溜息ばかりが出る。

昼間に再会した男のことが妙に浮かんできて仕方ない。



(あの人…まだ暫くお寺に住むのかしら……)


自分には関係のないことだと思おうとすればする程気にかかる。

会うのは怖いくせに、無性に会いたくなるのだから厄介だ。


(ああ、もう。好きになっても無駄なんだってば。恋なんてしても卒倒するだけだから…!)



長年胸の奥に仕舞い続けてきた恐怖体験を話すことはできた。

お寺の本堂で高島と2人きりだったからできた様な感じ。


……あの環境でなければ話せなかったと思う。

情に満ち溢れた本尊が見守っているからこそ、何もかも包み隠さず話せた。




「はぁ……」


またしても息を吐く。

開いていた情報誌も放り出し、気分直しに外へ出た。



庭では藤の花が五分咲きを迎えていた。

咲き始めはゆっくりだけれど、咲き揃ったらあっという間に散っていく。

開き過ぎない花の色は淡いピンク色に染まり、それがやがて白に変化する。

ピンクから白に変わり始める頃の色合いが好きだ。

母と一緒に眺めながらお互いに写真を撮り合ったものだった。



(あっ……そう言えばあの写真は……?)


壁塗りを頼んだ時に見せた子供の頃の写真を返してもらってない。

高島が寝泊まりしていた和室の何処にもそれは置かれていなかった。



(……と言うことは、あの人がまだ持っているということ?)


二度目の出会いが縁ならば、三度目は必然ということだろうか。

会いに行かなければ返してもらえない。

あんな写真一枚きりでも、私の個人情報には違いない。



(明日、出かける前にお寺に寄ろう。写真を受け取って、それからショッピングに行こう……)


そう決めると気分が晴れやかになった。

高島に会える口実ができただけで、何故こんなにも気持ちが沸き立ってしまうのだろう。


恋なんてできない自分だと分かっているのに、やはり想う相手には会いたくなる。

会ってこれまで通りの会話をして別れよう。

明日が最後になってもいいから笑顔で話がしたい。



本当は少しも別れたいと思っていないけれど、そうするのがベストだと思った。

自分の過去を晒してしまった男と、これからも顔を合わせ続けていくのは相当な覚悟が必要になる。


(今日話したことをあの人が直ぐに忘れてくれるのなら別だけど……)


できもしないことを願うのはやめて中へ戻った。

玄関の扉を開けようとした時、花の色と壁の色とが全く同じに見えて、


(ああ、綺麗だなぁ…)


と、しみじみ感動させられた………。


朝を迎えてドキドキしながら身支度を整えた。

ショッピングに出かけるつもりでいるから、それなりに普段と違う格好をしている。


通勤スタイルは常にパンツルック。

でも、今日は久しぶりにスカートを穿いた。


(は、初めてかも…)


男に会うと知っていながら足の出るものを穿く。

ロングタイプにしたから出ると言っても足首辺りのことだけれど。




「行ってきます」


仏壇の両親に手を合わせて外へ出た。

朝から良く晴れて、陽気のいい一日になりそうだった。



「今日のうちに満開になるかもしれないな」


藤棚の下が濃いピンクに染まっている。

夕方に帰り着いた頃は、白く変化していることだろう。



ふ…と大分前に見た夢のことを思い出した。

あの藤棚の下で、無邪気に笑う私を父が力強く抱いていた。


きゃっきゃっと笑うのを見ながらお腹を揺する。

だから余計に可笑しくて、大いに笑ってしまった。


面白くて楽しくてずっと見ていたい感動に襲われた。

同時に父のことを思い出して、少しだけ悲しくなった。



亡くなった父は、いつも私を笑わせるような事ばかりしていた。


でも、5歳の誕生日を最後に祝ってもらえなくなった。

持病の肝炎が重症化して、あっという間にあの世に旅立ってしまったからだ。



「もう30年以上になるのか。早いな……」


呟いて庭を後にした。

五月晴れの空を見上げながら両親にどんな未来を見せたらいいのか…と思い、歩み始めた。



菩提寺は川のすぐ側にある。

山から流れてくるせせらぎの音に耳を澄ませ、伸びたセリの長さに初夏を感じる。


陽の光に照らされた川面に列を成すメダカ。

子供の頃は、この川縁で母とよく掬って遊んだ。




「また来たのか」


川面を覗き込んでいると、頭の上から声がした。

ビクッと肩を揺らして振り返ると、作業着ではない高島が立っている。



「高島さんに用事があって来たんです」


口から心臓が飛び出しそう…というのはこういう状況だろうか。

喉の奥から響く動悸が、必要以上に大き過ぎる。


「俺に用事?何だ?」


冗談も言わずに聞き返された。

似合わないくらい真面目な顔つきに、返って恥ずかしさが増してくる。


「あの…私が貸した写真を返してもらいたいんだけど……」


「写真…?」


ぽかん…とした顔をしている。


「うん。ほら、子供の頃の…」


言われても直ぐには思い出せない様子で目が泳ぐ。

その仕草を黙ったまま見つめ、高島が思い出すのを待った。



「……ああっ!そうか、あの写真か。…そう言えば預かりっ放しだった!」


ようやく思い出したらしい。

真面目ぶっていた表情がコロリと変わる。

イケメンかもしれないと思っていた顔は、やっぱり間違いなくイケメン風だ。


「待ってろ、今取ってくる」


向きを変えて歩き出そうとする人が振り向く。

ドキッとする心臓に静まるように言い聞かせ、じっ…と顔を見つめた。


「ん!?」


疑うような表情を見せてこっちにやって来る。



「な…何かありますか!?」


思わず聞いてしまった。


高島が瞼を二、三度バタつかせて黙る。

その目線の先は、どうも私の足元を見ているみたいだ。



(あっ!)


スカートに気づいたんだと思った。

今更だけど、つい(しまった…!)と考えた。



「今日……えらく女らしい格好してねぇか?」


やっぱりと思う様な言葉を吐いてニヤつく。


「俺に用があるからその格好して来たとか?」


「えっ!?と、とんでもないっ!違います!」


慌てて否定する。

でも、それが全く違うとも言い難い。


「ふぅん、そぉか。何だ、つまらん」


「つまらんでも何でもいいから写真を!」


「はいはい取ってくるよ。あっ、でもその前にデートしようぜ!」


「はい!?」


耳を疑った。


「おっさんにお前を誘ってどっか行けと言われて出てきたとこなんだ。丁度いい。一緒に遊ぼうぜ!」


「た…高島さんと?」


「何だよ、俺が相手じゃ不満かよ」


「い、いえ…そうではないけど……」


大いに狼狽える。

こんなことを期待していた訳ではないけれど、願った様な展開についていけない。



「心配しなくても襲ったりしねーよ。カツラはお子様だから!」


不敵な笑みを浮かべて言い切った。


私はお子様。

熟してもない女だ。


「お、お子様で悪かったわね!」


認める以外に術がない。

悔しいけれど、その通りだ。




「行こうぜ」


川縁の道を歩き始める男の背中を追う。


今日が最初で最期の記念日。

未熟なまま大人になって、初めて誘われたデートだ。



「どこ行く?」


「その前にこの車は誰の?」


黒のスポーツカーを指差した。


「俺のに決まってるだろう」


当たり前の様な返事。


「で、でも、いつもの軽トラックは!?」


「あれは仕事専用。女を乗せて遊びになんて行けるかよ」


「早く乗れ」と促し、運転席のドアを開ける。

つられる様に助手席のドアを開けかけ、ぴたりと手が止まった。



「…どうした?」


中から高島の声がする。

騒つく動悸を確かめながら、ゆっくりとドアを開けていく。



(大丈夫……この人は何もしてこない……)



暗示をかけながら祈りつつ乗った。

軽トラックよりも密閉性の高い車内で、高島はハンドルのロックを解除する。



「…どこへ行く?」


改めて聞き直されて迷う。


「お……美味しいもの食べに行きたい!」


隣にいるのは『腹ペコだったアオムシ』

だから、やはり食べ物繋がりでいこう。



「旨いもんか。だったら蕎麦でもいいか?」


「うん!大好き!」


元気のいい声が出た。


「ぷっ!ガキくせ!」


あははは!と声を響かす高島が好き。

気持ちがどんなに揺れてても、やはりそこだけは変わらない…と実感した………。