ルージュ・ココ・スティロ _ 5






なんで…、と。眞子の掠れた声が聞こえた。

半径5メートル四方ほどの付近がシンと静まりかえってるのはきっと、勘違いなんかではなくて。

“八坂蒼甫が、庶民に話し掛けた。”
誰もが今、一様にそう思ってることを気配で感じる。


異様な緊張感に、背中を伝う汗を感じた。




『あた、しの、ではありません…』

「はぁ?」


振り絞った声は、容易に苛立ちを被せられた。

ココ・スティロだけど、多分本当に私のじゃない。
だって八坂さんが持ってるわけがない。



「俺の鞄に入ってたんだけど。」

『だから、私のでは、』

「入れたんじゃねぇの。」



俺の鞄?入れた?私が??

何言ってるの、この人…



空になっていた左手が、私のお蕎麦を載せたトレーのすぐ前に着く。
威圧的に見下ろされている。見上げれば、サディスティックな視線の中で涙黒子がやけに色っぽくて。

今更明るいところで見れば、分厚い胸に広い肩。
顔がちっちゃくて、スーツもよく似合うなぁ…



…って、違う!!汗
涙黒子から放たれる色気光線を避けようと、顔を背けながら言葉を返す。




『入れた、と言われましても…私には何の事だか…』

「あの夜、入れたんだろ。」


ヒッ、と。眞子が息を飲んだ音がした。
…気がしたけど、未だに口をアングリ開けているところを見ると、どうやら隣の女子が過呼吸めいている模様。


まずい。すっごい言いがかりをつけられてる上に、いらぬ注目が。。

あの夜って何よ!涙
そんな思わせぶりなこと言われたら感じ悪い。絶対誰かと間違えてるよ。
あのよ_____________





_________________って、あれ?

あの夜?

アノヨル?あの…




『…………!!!!!!!』


思いっきり立ち上がったら、腰掛けていた椅子は真後ろの男性の背もたれにクラッシュして。「イテッ」という声と同時に私も衝撃を受けた腰を押さえた。






腰を押さえながら、前屈みの涙目でココ・スティロを見つめる。




あれ、私のだ。


エレベーターの中で会った夜、私はポーチとバッグの中身をブチまけた。
その後キスをして、エレベーターを降りる時になってやっと散乱した小物を掻き集めたんだ。

開いた扉の前にはもう乗り込むのを待っている人がいて、濡れた口元を拭いながら慌ててバッグに溢れた物を詰め込んで。

正直、隣で跪く八坂さんの鞄に一つくらい放り込んでいても。全くおかしくないくらい、慌てふためいた状況だった。








ゴクリ、と。自分が生唾を飲み込んだ音が聞こえた。


怖くて直視できないけど。焦点の合わない距離にいる柊介が、あの見開いた目で私をガン見しているのを感じる。



落ち着け。落ち着け、私。

柊介が見てる。ここで肯定すれば、八坂さんと私は何かあったんだと思われる。
そしたら柊介の罪の意識が、薄れるかもしれない。

こんな思わせぶりな状況で、形勢逆転するわけにはいかない。
しらばらっくれるのよ。


あれが私のだなんて、証拠はないんだから…!





『人違いじゃありませ、』

「お前しかいない。」




嗚呼っ、と。小さな悲鳴が、隣から聞こえた。

“お前しかいない”

用途は違えど、この人がこの声で口にすれば、高い殺傷能力を持つ言葉だった。

甘美が漏れたその響きに、なぜか沸き立ちそうになる心を必死で抑える。








「俺にこんなことするのは、お前しかいないんだよ。」






もうだめだ。

目の前の眞子が、完全にオトメな顔になったし。




口中ミントで痺れてる。