そうだ、と。
呼ばれた気がして振り返れば、案の定目が合った。
「来週までに、洋菓子店をいくつかリサーチしておいてもらえるかな。」
『承知しました。どちらへの手土産でいらっしゃいますか?』
瞬時に、業務モード。
さっきまでの会話はどこへやら。慌ててHERMESのユリスを広げる。
「いや、用意はしなくていい。いくつか良さそうな店を報告してくれれば、僕が見に行く。」
平常と異なる勝手に、顔を上げれば。
「妻の誕生日なんだ。」
名高い悪代官に噛み付いたかと思えば、ドヤ顔で惚気を溢す。
『・・・お好みは、有りますか?』
「成る可く目新しいものだと助かるよ。彼女は、嗜好品に目が無くてね。出回ってるものだと、口にした事が有るかもしれないから。」
つまりは。
誕生日に、初めての味覚を唇へ届けたいと。
『・・・承知しました。』
業務外だから、と。
断っても良かったのに頷いてしまったのは。
「ありがとう。」
未だに“彼女”なんて呼ばれる奥様に、興味が湧いたからでも。
早くも緩む口元から、目が離せなかったからでも無く。
『少し調べて、ご報告します。』
いつも肩透かしばかりで掴めない上司が見せた。
つかの間のリアルが、嬉しかったから。
もう一度手帳を開いて。
週末を区切りに、“牧さん・ケーキ”なんて書き込んだ。
ローズ色のユリスは、すっかりデートの予定を載せなくなったけれど。
代わりに、ヨガに眞子との小旅行。
業務指示を受けた、細かな締め切り。
それなりに、日常を埋めてくれるようになってきて。
なんだろう、この感覚。
元の自分に戻るようで、新しい自分を始めるようで。
だけどやっぱり、私は柊介に感謝する。
清々しい恋の終わりに、改めて感謝する。
ブックマーカーを挟んで、手帳を閉じて。
容赦なく電気を落としてフロアを出て行く背中を、慌てて追いかけた。