八坂さんに手を引かれて、私も廣井さんを通り過ぎる。

ほぼ同じ目線で流れていく、廣井さんの驚愕フェイス。
一人置いてけぼりになる、愛すべき上司。私の唇は、相変わらず空を切るばかりで。


『・・・したっ』


辛うじて発した“お疲れ様でした”も、きっと届かない。人気の引いたエントランスに、私のヒールの音だけが響く。








ほんの何時間か前の昼間、公衆の面前で柊介に引かれたこの場所を。

同じくらい強引に、八坂さんに引かれる。







たった二人きりのフロア。聞こえるのは、彼を追うヒールの音。

オーディエンスはいないのに、私たち二人だけなのに、なぜか昼より鼓動が早い。


真っ直ぐ、八坂さんの背中を見上げる。
振り返らないそこに、湧き上がりそうになる感情を、唇を噛んで堪える。




私の口の中。

この人に会うと、いつも同じ味がする。












タクシーのドアが開いて、彼は私だけを押し込んで。「初台まで。」そう短く、運転手さんに告げた。


『乗らないんですか?』

「ちゃんと寝ろよ。」


答えになってない彼の一言で、ドアは閉まる。滑り出した車体に、慌てて振り返る。

彼はもう、背中を向けて去るところで。
あの夜は、私がマンションに入るまで見てたくせに。
そう思うと何故か悔しくて、前を向き直って思いっきりシートに沈んだ。



“初台まで”
“ちゃんと寝ろよ”

分かってる。そんなこと、八坂さんに言われなくたって、ちゃんと出来る。







それなのに、この居心地の良さは何だろう?

柊介とも、エリーとも、他の誰とも違うこの感覚。





“俺に流されろ”

声に、仕草に、投げる視線に、深みにハマる。
振り払おうとすれば、もっと大きく包まれる。

この感情は何だろう?

あの人には、抗えない何かがある。







変な人。

だけど何故か、別れたら足りなくなる不思議な人。