燃えた息が耳穴を駆け抜けた。
それは身体中に走って、感覚を支配した。
キスされる、と思ったのに。肩透かしを食らった分、もっと深く虜になった。
唇よりももっと敏感な耳朶まで。
この人の味を知ってしまった。
薄く目を開けると、ゆっくりと視界が明るくなって。
エレベーター、開いた?
それなのに未だ変わらないこの至近距離に、差し迫った彼のネクタイから目を逸らそうと視線を動かしたその時____________
開ききった扉の向こうにいたのは。
「お、おまえら・・・」
『廣井さん!!!』
驚愕した表情に、その枠組みから溢れ落ちそうなほど大きく見開かれた目。
人工的な蛍光灯が照らす一階のロビーで、廣井さんがエレベーターの中の私たちを見て立ち尽くしていた。
降りてきたエレベーターの中で。
ぱっと見、“キスしている”と見紛うほど顔が近づいた私たちを見て。
廣「会社で、お前らこの神聖なる会社で何てことを・・・」
『ちがっ、ちがいますよひろいさんっ』
廣井さんも私も、きっともっと何か言いたくて唇を動かす。
だけどそれは空を切るばかりで、ちっとも声まで達しない。
本当に焦ると、人ってこうなるんだ!汗
八「廣井さん、お疲れ様です。」
廣「おまっ・・・」
そんな中でもこの人だけは。
今日も憎たらしいほどスマートで。
八「忘れ物ですか?iPadなら、金庫に入れて施錠しましたよ。」
廣「ああ、う、うん・・・」
必死で、目が合った廣井さんに首を振る。
私、どっちかというと廣井さんにはエリーの話がしたい。
甘かった週末。蕩けるようなエリーの告白。
それなのに!なんでよりによって、こんな所を見られちゃうんだろう!
ここで八坂さんとの関係を疑われるなんて、話がややこしくなりすぎる!
『廣井さん、あのね、これは、』
八「十和子。」
突如降って来た、私の名前。
反射的に声の主を見上げる。
二回目の呼び捨てに、私は場違いな事を思い浮かべる。
私を呼ぶこの声が。
私、そんなに嫌いじゃない。
廣「とわっ、とわこってやっぱおまえらっ・・・!」
八「お疲れ様でした。」
八坂さんが廣井さんに頭を下げた。そのまますれ違うようにしてエレベーターを降りて行く。
ポカンと口を開けたままの、廣井さんと私を置き去りに。
____________と、思ったら。私の体も一歩前に引かれた。
捉えた視線の先、右手首に、デイトナの光る大きな手が重なっているのに気付く。
ネイビーストライプのスーツ、太い腕、逞しい肩。辿る、その先にいるのは。
八「行くぞ。」
サディスティックに私を見下ろす。
だけど、その視線の奥の瞳も唇も。
冷たくなんてないことを、私はもう知っている。