飛び出そうと、したくせに。
八坂さんは私が乗り込むのを見ると、腕を組んでエレベーターの壁に背をつけた。


『降りないんですか?』

「いや、いい。」

『え、降りようとしてましたよね?』

「してねぇよ。」



あんなに急いでるっぽかったのに?息まで切らして。
ぶつかられて、危うく倒れるところだったし。

憮然と動かない横顔に首を傾げながら、「閉」のボタンを押した。

ゆっくりと、小さな箱は動き出す。





「資料見た。ありがとう、遅くまで悪かったな。」

『いえ。』


別に遅くまでかかったわけじゃなくて、柊介のところに行ってたからなわけで。

柊介。

病室の外から、寅次さんを見つめる背中が浮かんだ。






すぐ右上から、ガン見な視線が降ってくるのを感じる。
疲れた顔だって思われてるのかなぁ。
そう言えば、今日は一度もメイク直ししてない。チークもリップも、きっとハゲハゲだ。

けどもういいや。取り繕う気力もないし。今はそんなこと、どうでもいい気分。



「・・・明日の夜、だめになった。リスケしよう。」

『ああ・・・はい、分かりました。』


正直言うと、忘れていた。鰻食べに行く約束したんだった。
ちょうど良かった、こんな気持ちで鰻なんて喉を通らなかったから。




相変わらず、無遠慮なほどの視線を感じる。


『・・・なんですか?汚い顔の事ならすみません。今日は忙しかったんです。』

「清宮の事なら、気にするな。」


思わず、油が浮いてるであろう小鼻を思いっきり向けてしまった。


『知ってるの?』

「知ってるよ。」


即答。こんな飄々とした人の耳にも入るなんて、やっぱり今日の事は社中に噂として広まったんだ。

ゲンナリしながらも、なぜか身体が軽くなったような気がした。



「あいつは太々しい奴だから、すぐに立ち直る。お前の心配なんて取り越し苦労に終わるよ。」

『柊介・・・、清宮さんと、知り合いなんですか?』

「知り合いじゃない、ただの同期。」



だって、“太々しい”なんて。
よく知った間柄でないと、出て来なくない?


本当に?

もう一度聞こうかと思ったけれど、見上げた横顔は何故か不機嫌そうで。
妙にしっくりくる柊介への表現に、何か引っかかりながらも言葉を飲み込んだ。




エレベーターはゆっくりと減速して5階で止まる。だけど、開いた扉の向こうには誰もいない。
「閉」ボタンを押そうとしたら、先に八坂さんの指が届いた。



「俺も片親だけど、こういうのはある意味順番だから。」