“今日中に送ります”


そう言ったまま、八坂さんの依頼の仕事を放ってたことを思い出した。

明日の午後の会議で使うという資料。ちゃんと仕上げて送っておかなきゃ。



こんな頭で仕事なんて出来るかな。
そう思ったけれど、オフィスに戻れば逆にさっきまでの出来事が嘘のように、一気に現実に引き戻された。

誰もいなくなった秘書課のフロアで、一人PCを立ち上げる。コーヒーを片手に腰を下ろす。芳醇な温もりが喉を流れていけば、驚くほど頭が冴えた。

見上げた壁時計は19:00を指す。集中して、二時間内で終わらせよう。


走り出すように、キーボードを叩き始めた。

何も考えたくない。そう思えば思うほど、仕事に引き込まれていった。













『終わった・・・』

乾いた目を抑えて、抜けがないかもう一度画面をスクロールして。

“遅くなってすみません。”
そう添えて、ファイルを八坂さんにメール送信した。



口をつけようとしたコーヒーのマグはもう空で。もう一杯入れようか迷ったけれど、時計が指す21:30に驚いて席を立った。

目標二時間内、ならずだったな。さっきまで数人が残っていた隣の総務部のフロアにも、もう誰もいなかった。


フロアのセキュリティをかけて、暗い廊下を抜けてエレベーターホールを目指す。
どの部署も電気が消えている。きっと営業ラインのフロアには人が残っているだろうけれど。
内部部門の集まるこの階には、こんな時間まで残る人なんてなかなかいない。

自分のヒールの音だけが、規則的に響いた。






3つある「↓」のボタン。一番左を押せば、真ん中のエレベーターが反応した。
8階から降りてくる。

外、寒くなってるかな。もう春とはいえ、夜の風はまだまだ冷たい。
ストールを首元に巻きつけると、明日香ちゃんの香りが鼻先に飛んだ。


電車、まだあるけれど。タクシーで帰ろうかなぁ。なんだか今日はひどく疲れた。



寅次さん。今夜がヤマだって言ってた。
柊介、今頃どうしてるかな・・・。



ボンヤリ足元のヒールの先を見つめて。
明るくなっていくそこに、エレベーターが止まって開いたことに気付く。

顔を上げて、一歩踏み出そうとしたところで_____________





『きゃっ、』


すれ違いに飛び出ようとした先人と、肩がぶつかって危うく倒れそうになる。


『すみません・・・』


ヨロけた肩を、瞬時に支えた手の平。明日香ちゃんのじゃない色香を感じる。

この香りを、よく知っている。






なんで、この人には。

会いたくない時に限って会うように出来ちゃってるんだろう。




確かめなくても分かる。
この肩を掴む手の平の感じと、CHANELのnoirは。







「悪い。」



息を切らした、八坂さんがいた。