私は何時まででも此処にいていいと思っていたけれど。
もうしてもらうことはないから、と柊介は首を振った。

待合室を覗いたら、明日香ちゃんの肩を抱く旦那さんと目が合って。さっきまで旦那さんの身体を包んでいたネイビーのジャケットが、明日香ちゃんを温めている。
その瞳が閉じているのを確認して、微笑む旦那さんにソッと頭を下げた。



家まで送る、と何度でも食い下がる柊介に。
私も何度でも、必要ないと首を振る。

外に出れば、待ち構えていた日常に面食らう。
あんなに真っ青だった今日の空は、もう夕焼け色に混ざり合って。
夕陽の落ちるタクシー乗り場のベンチで、二人肩を並べた。





「今日はありがとう。あんなやり方で連れて来て悪かったね。」

『ううん、こちらこそ。』

おかげで、大事な人と思いを繋げられた。
どんな形であれ、私にはそう思えた。


ロータリーのそばで、ボール遊びをしている幼い兄妹。
一回り体の小さな妹に、腰を落としてゆっくりボールを投げてやるお兄ちゃん。それでも妹はボールを受け取れなくて、「お兄ちゃんの下手っぴ!」と拗ねる。
柊介と明日香ちゃんも、きっとああだったんだろうなと思う。



『明日香ちゃん、予定日いつ?』

「6月。」

『楽しみだね。柊介も叔父さんか〜。』

「やばいよな。笑」


妹の取り逃がしたボールを、追い掛けていくお兄ちゃんの背中が見えた。


「また力になってやってもらえる?あいつ、都内には知り合いがいなくてさ。」

『勿論。私で良ければ何でも手伝うよ。』



横浜から都内に出てきたばかりの頃の明日香ちゃんを思い出す。
「東京は都だね!」なんて戯けながら、よくバイクで家まで遊びに来てくれた。

いつも、極上の手料理を携えて。
温もりの残るそれらは、飛ばして来ないとあり得ない。その温もりの分だけ、かじかんでいた明日香ちゃんの手を知っている。

いつか、私も明日香ちゃんを温められる日が来ればいいな。
そう思いながら二人で真夜中まで話した日を、忘れていない。




「両親亡くして、心細いだろうから。十和子が気にかけてくれると助かるよ。」



拾い上げたボールを脇に抱えて、妹の場所へ走る横顔が。
柊介のそれとダブって、ふいに鼻先が痛んだ。





『柊介。』

問う資格はないと思っていたけれど。柔らかなオレンジ色の中、心が溢れていく。


『柊介は、私といてよかった?』

こんなに辛い現実を、打ち明けられないような相手を。一人で隠して、抱えないといけなかったような相手を。
そんな私を選んで、本当によかった?



遠くを見据える柊介の横顔越しに、子供の笑い声が聞こえた。


「親父のことは、何度も打ち明けようと思ったんだよ。」


蕩ける低音は、いつもの柊介なのに。


「だけどどうしても、十和子の前で弱くなれなかった。」


その声に含まれた悲しみの濃さに、息が苦しい。


「母親の死因も癌だったんだ。母親は癌だと宣告されてから、本当にあっという間に亡くなってね。
だから、親父に癌が見つかった時は相当動揺した。当の本人は“国民病だ”なんて言って、あっけらかんとしていたけどね。」


記憶を辿る柊介の隣で。
私はその時の、柊介の痛みを辿る。


「明日香にも、俺はなかなか話せなくて。そのうち妊娠が分かって、不安にさせたらと思うと怖くてますます言えなくなった。結局、あいつには親父が伝えたんだ。

十和子には、気持ちの整理がついてから話したかった。俺がこの状況に慣れてから、何でもない事のように伝えようと思ってたんだ。
だけど、親父の状況はみるみる悪くなる一方で。俺自身が慣れる事なんてないまま、結局今日まで来てしまって。」