ついさっきまで静かだった寅次さんの病室は、慌ただしさで満ちていた。

聞き取れない用語が飛び交うその部屋で、数人の看護師さんの向こう、柊介の横顔が見えた。寅次さんを覗き込んで、何かを話している。
話す、というよりかは。必死で、何かを伝えている様子で。


明日香ちゃんが、私の手を離してその人の輪に飛び込んでいく。
柊介の隣、ベッドの枕元にしゃがみ込んで、寅次さんの手を握ったのが見えた。




「お話できますよ。」

看護師さんに背中を押されて、ヨロヨロと私も躍り出る。


警報にも似たけたたましい電子音の中、寅次さんは柊介にゆっくりと一度頷いて。

明日香ちゃんに視線を移して、柔らかく目を細めた。

そのまま、その視線は持ち上がって、今度は私を捉えていく。



『寅次さんっ・・・』

記憶の中よりずっとずっと痩せた寅次さんと目が合った途端、伝えたい思いは宙に飛んで言葉にならない。

そんな私を認めて、潤んだ目で微笑んで。

寅次さんは、確かにこう呟いた。






「・・・なえ。」





瞬間、視界がブワッと溶けた。


“・・・なえ”

それはきっと、“さなえ”。



さなえ、とは。

清宮早苗(きよみやさなえ)。

亡くなった、寅次さんの奥さん。

柊介のお母さんだった。











見上げた柊介は、泣いていた。

俯きもせずに、ただハラハラと涙を流していた。

そこでようやく、崩壊したように私も泣いた。溢れる思いは、ただ涙になって。外に外に、流れていった。








その後、またすぐ寅次さんは意識を失って。
今夜が山だと先生に告げられて。

明日香ちゃんは、駆け付けたご主人に付き添われて待合室へと戻って行った。

柊介は私から顔を背けて、電話してくると社用携帯を手にする。
落ちた前髪の奥に覗いた、赤く充血した目に胸が痛んだ。
追いかけようかなと思ったけれど。
追いかけられたくないだろうと判断して、見送った。





静寂に戻った病室の外、ガラス窓に隔たれた寅次さんを見つめる。



早苗と呼ばれて、返事をする事は出来なかったけれど。
ありがとうもさよならも、何も伝えることは出来なかったけれど。


“十和子は俺の死んだ妻に似ているな。”


寅次さんと私の思い出には、十分すぎる最期だった。