the night _ 1
彼だと、気づかなければ。
明日、眞子に『昨日すごいもの見ちゃったの!』なんてランチを食べながら騒いで。
生まれて初めて見た、生キスシーンに心燃やして。
彼だと、気づかなければ。
この後待ち合わせた誕生日のディナーで、『そういえばさっきね…』なんて甘やかなヒソヒソ話をして。
負けないキスを彼に強請ってた。
人気の引いた夜のオフィスフロアで。
真っ暗な一面の窓が、鏡のように蛍光灯を反射する。
追い詰める、背筋の伸びた華奢な背中は、広報部の高嶺の花。
迎え討つのは、至極の微笑みを振りかざす、私の彼。
“見ちゃだめ”
カラカラに乾いた喉から、上がってくる血の味。
危険を察知した鼓動が、全身全霊で左胸を叩くのに。
金縛りにあったように、身体は動かなくて。
躊躇いなく、彼の首元に巻きついた彼女の腕と。
あの距離だったら間違いなく、くっついてしまったはずの二つの唇。
スーツのポケットに突っ込まれたままの、彼の大きな手の平が。
抜け出して、彼女の腰を強く引き寄せた、その瞬間。
魔法が解けた私は、踵を返して逃げ出した。
何処もかしこも明かりの消えた終業後のフロアを、非常灯の明かりを頼りに走り抜ける。
止まったら、またあの景色が見えてしまうような気がして。
ヒールの足首を捻りながら、ただただ悪夢の出口を目指した。
辿り着いた、暗いエレベーターホールで。
息を整える間もなく、呼び出しボタンを叩く。
ぼんやりしたオレンジ色が点灯しても、何度も何度も。
吐きそう。
何で私、こんなに気分が悪いのに。
涙も出ないんだろう________。
愛しいはずの彼氏、清宮柊介の眼差しが甦る。
あの、大好きな柔らかい視線は。
私以外の女でも、閉じ込められたんだ。
28歳の誕生日。
今日は、私がずっと行きたかった六本木のレストランで。
特別なディナーでお祝いしてくれるはずだった。
今日は同時に、付き合って3年目の記念日でもあって。
親友の眞子は、「サプライズプロポーズがあったりして!」と私よりも騒ぎ立てて。
『ないない。』なんて、言いながらも。
私だって、本当はほんのり期待していた。
秘書課の私の方が、営業企画部の柊介よりも早く終われるから。
現地待ち合わせにしようねって約束したのを、サプライズで企画部まで迎えに行ってみた。
定時後、ゆっくり時間を置いて。
誰もいないトイレで、アルビオンの美容液ミストから始めたメイク直し。
もしかしたら、今日ついにプロポーズかも…と思ったら。
丁寧に丁寧に、気持ちを込めて自分を直さずにはいられなかった。
いつもよりも、キモチ濃いめになってしまったクレーム・ドゥ・シャネルの69番。
高揚した気持ちから、きっと必要以上に染まってたはずの頬で向かった、愛しい柊介の待つ8階のフロア。
なのに_______