「あのさ……」

そう言ってから、橘君は次の言葉まで、沈黙があった。
だけど、私は、ずっと待っていた。

「これ、黒川に」

無造作にズボンのポケットから出したのは、小さな袋だった。
その袋は決して新しい物でもなく、時間が経っているように感じられた。
テーブルの上に置かれた小さな袋にゆっくりと手を伸ばす。
その袋を止めてあるテープも黄ばんでいた。
既にテープはしっかりと張り付いてしまって、綺麗にはがれず、仕方なく紙を破く形で、封を開けた。
中から出て来たのは、シーサーのストラップだった。シーサーはリアルな姿ではなく、キャラクター化された可愛い物だった。

「高校の修学旅行の時に買ったんだ。黒川に渡したいと思って……でも、出来なくて……捨てることも出来なくてずっと持ってたんだ」

そう言った橘君は、今までのどの顔よりも真剣な表情だった。
いつもの面倒だからと、返事をしない私ではなく、絶句という言葉があっているような感覚で、言葉が出なかった。
びっくりした、それが正直な気持ちだった。何故、橘君が私に土産など買って来るのか。
担任の先生が、修学旅行から戻り、通常の授業に戻った時、クラスに紫いものお菓子を一人ずつ配った。
きっとそれは、一人残った私の為だったに違いないが、一人だけに渡すわけにはいかない。だから、クラス皆に配ったのだろう。私にはそれが分かった。
高校の修学旅行先は沖縄だった。
担任は、私が参加しないことを薄々感じていたらしい。
高校は毎月の積立をせず、二年になり、旅行代を振り込むというかたちをとっていた。
私は、正直に「行けるお金が出せない」と言った。
バイトを許可してもらっている私だから分かっていたのだろう。担任も残念がっていたが、無理強いはしなかった。
修学旅行に行っているあいだ、学校に行き、自習をした。課題を与えられ、図書室でずっと勉強していた。
その様子を他の先生がみてくれ、なんだか、特別学級にいるようで、楽しかった。
「黒川、社会は厳しく汚い。でも努力は報われる。今、こうして勉強していることは、黒川の為になることばかりだ、決して無駄にならない、いいか? 悲観するなよ?」と言った。
想えば、両親には恵まれなかったが、どうやら学校の先生には恵まれていたようだ。中学と言い、高校と言い、私に親身になってくれる先生ばかりだった。
捨てる神あれば、拾う神ありだ。
「黒川には、何か深い事情がある。それだけは、俺にも分かった。だけど、まさか修学旅行まで参加しないとは思ってもみなかった。しゃべったことのない俺が、お土産なんて、受け取ってくれるはずもない。だけど、何か買わずにはいられなかった。別に、情けをかけるとかそんなんじゃなく、ただ、買いたかったんだ」

そんなことを思ってくれていた人を、私は、名前も顔すらも覚えていなかった。
私は、両親に愛されたことがない。だから人を愛することも分からない。

「でも、こうしてめぐり逢えた。今の俺は渡す勇気がある。こんな安物で何を言ってんだか……あ、特別な事は何もないんだ。ただ、もっと黒川と話がしたい、最初の頃よりいろいろ話をするようになったね。俺、黒川のことをもっと知りたいんだ」

橘君は、手が大きくいろいろと動いて、落ち着かない様子だ。少しだけ早口になっている。

「私は……」
「君の声がずっと聞きたかった。想像していたより、ずっと細くてかわいい声だね」

そんなことを言われたのは、おばあちゃん以来だ。いつも「茜はかわいい」と言ってくれた。母親が、どんなに私を下げすさんでも、おばあちゃんのこの一言が私を救ってくれた。

「沖縄ね、黒川に見せたい場所が沢山あったよ」

社会人になってどうしても行きたいところがあった。それは、学校の行事で行けなかった場所。遠足と、修学旅行先だった。沖縄はまだ行けていなかったが、旅行会社からパンフレットを持って帰り、計画を立てたことがある。
でも、遠足先は行くことが出来た。ディズニーランドだった。これには、かなりの勇気がいった。グループで行くのが主流だと思っていたが、お一人様も多く来園しているとのことで、勇気をだして行ってみた。
そこで分かったことは、私は、コースター系のアトラクションが苦手だという事だ。
気分が良くなるまで、だいぶ時間が掛かり、結局楽しめたのは、買い物と、パレードだった。

「ゆっくりでいいから、俺と話をするところから始めないか?」
「それは……」

孤独を愛する私にとって、人と関わることは、大変な事なのだ。会話も、人との向き合い方も分からない。いつも自分の中の自分が友達だった。問いかけ、応えてくれるのも自分だった。そんな状態が身に付いてしまっている。子供の頃からなのだ、不便さも感じていなかったし、そうすぐには変えられない。
ここで、橘君と友達になれば、きっと橘君が後悔する。私に気を遣い、言葉の一つ一つに気を配る。こんなにいい人を困らせることは出来ない。

「同級生だったのに、黒川は友達とも思ってないだろう? だから」

私は、首を縦に振ることが出来なかった。
下を向きっぱなしの私の顔を、橘君は両手で挟んで上を向かせた。

「黒川、俺はここだ。ちゃんと俺を見て」

そう言う橘君と視線がぶつかった。
頬が火照って顔が赤くなって行くのがわかる。こんなに至近距離で橘君の顔を見たことがない。顔を押さえつけられ、しっかりと顔を見ると、なんとも表現はむずかしいけれど、「お人好し」と言う言葉があっているような顔をしていた。
顔を見れば性格がわかると言うが、神経質そうでもないし、怖そうでもない。ごつい顔つきでもないので、あてはまるのは、優しそう。それしか思い浮かばなかった。

「自分を変えることなんかないんだよ? 黒川は黒川なんだから。俺は黒川と再会出来て飛び上がる程嬉しかった。それは本当だから」
「分かった……やってみる」
「よかった、いい返事が聞けて。差しあたって、次の約束は初詣っていうのはどう?」

根負けした私は、目をゆっくりと閉じ、開けた。分かったという返事だった。
橘君が帰ると、どっと疲れが出た。
嫌な意味じゃなく、緊張が解けたことによる疲れだ。
水を飲もうとして、冷蔵庫を開けると、ケーキの箱が目に入る。

「そうだ、ケーキがあったんだわ。食べよう」

戸棚から皿を出して、私は、ショートケーキを選ぶ。
フォークも乗せて、水の入ったコップとケーキ皿を持って炬燵に戻る。

「いただきます」

モモは、また新しい食べ物が出てきたと思って、テーブルの上にあがった。
ケーキ匂いをクンクンと嗅ぐと、気に入った食べ物ではないと判断したらしく、すとんとテーブルから降りて、私の上に乗った。

「じゃあ、頂くわね」

ケーキを一口食べると、生クリームの甘さとイチゴの甘酸っぱさが広がって、苦い口のなかが甘くなった。

「いけない、二つあったんだから、一つを橘君に出せばよかった」

買って来た物はいつでも自分だけのもので、人と分け合うと言うことをしなかった。
まったく気づかずに、いい歳をした女が恥ずかしい。
私は、激しく落ち込んでしまった。

「独り占めをしようなんて思ってなかったけど、気が付かないなんて」

乗っかっているモモにそう話しかける。当然モモは無反応だ。

「モモのことはよくわかるのにね」

白くキレイな毛を撫でながら、私はそう思った。
そんな風に落ち込みながら、夜の時間を過ごしていると、携帯のメール音が鳴った。

「よいしょ」

乗っているモモは重い。炬燵布団を掴んで腰を少し浮かす。そのまま手を伸ばし、携帯を取った。
さっそく橘君からだった。
レオを無理やり抱っこしたのか、ぶすっとした表情のレオと、私が贈った手袋をはめた橘君が映った写メが送られてきた。

「ふふ、レオ、迷惑そう」

タイトルにメリークリスマスとだけ書いてあった。
橘君だったら、なんとか友達付き合いが出来そうなきがする。でも、面倒になったらどうしよう。引っ越しをしてもいいし、電話だって番号を変えればいい。いけない、そんなことを思っていると、橘君がしつこく付きまとっているみたいだ。そうじゃなく、そんな先のことまで考えなくていいから、今は、橘君の言う通りに、話しをすることから始めてみるのもいい。
私は、炬燵で丸まっているモモを無理やり起こして、写メを撮った。
返信はもちろん、
「メリークリスマス」と送った。

掃除好きな私は、大掃除だからと言って、特別に大がかりな掃除をしない。毎日ちょこちょこと掃除をしているお蔭で、いつもきれいな状態だ。
子供の頃食べられなかったお菓子が、私の大好物だ。
寒がりでもある私は、外に出るのが億劫で、ネットスーパーや、食材の通販をフル活用して、食料品のほか、お菓子を沢山買い込んだ。
食べてもあまり太らない体質らしく、お菓子とケーキをたくさん食べても、気にするほど、太らない。これは本当にありがたい。
今度は、ホテルのケーキバイキングにでも行ってみたいと思っている。
クリスマスが過ぎ、私は、橘君からもらったシーサーのストラップを家の鍵につけた。
小さな鈴がついていて、とてもいい。
今、私は好きな物に囲まれて暮らしている。お金が自由に使えるとはすばらしいことだ。
好きな物を好きなだけ。もちろん、節約は当たり前だ。家計簿もきちんとつけている。
今、レシートを見て、その家計簿をつけているが、今月はあの人たちに持って行かれた金額が多かった。
すでに両親にとって、私は、子供ではなく、銀行だ。
年末だから仕方がない。それに、私の中で絶縁に向けてカウントダウンは始まっている。
「一人で育ったような顔をするな」
いつでもそう言われてきた。だから私は、黙ってお金を渡す。それも一生のことじゃない。我慢強さだけは誰にも負けない、今は、我慢だ。
両親とは離れたところに住もうと思って、この土地に決めたが、わざわざ家から電車で、一時間以上もかけて金をせびりに来るとは思いもしなかった。本当にがめつい。
自分の人生を悲観ばかりしていられない。
モモが来てから、私は、野良犬のような人生と少しずつさよならをしている。何をするにでもどうでもいいと思っていたが、モモを相手に笑い、話しをする。その内モモが会話をし出すのではないかと思う程だ。
愛くるしい感情も湧く。少し様子がおかしいと心配な気持ちにもなる。玄関に迎えに来てくれれば、嬉しさに涙がでそうになる。
私の身体には、赤い血は流れていないのだと思っていたが、モモのお陰で、喜怒哀楽を知る。
でも、モモだけじゃないことも私は知っている。
橘君だ。面倒だ、嫌だ、と煙たがっていたが、ほんの少しだけ、友達もいいものだと思うようになった。

「バーゲンで洋服も欲しいし、しょうがないボーナスを少し使おう」

ボーナスは一切手を付けず生活していた。
毎月の給料で暮らせるのだから、ボーナスを使わずとも暮らせる。
今月はいつも出費しない品目が家計簿に記載される。
橘君へのお礼だ。それはとても必要なものだったから、仕方がない。
橘君の家でもある「たちばな動物病院」は27日までの診察だと言っていた。
大みそかである今日は、どうしているだろう。
初詣を行く約束をしているが、どうするのだろう。まあ、別に行かなくなっても構わないが、連絡をした方がいいのか、それとも待っていればいいのか分からない。
私から連絡をすれば、催促をしているようで、なんだか嫌だ。
クリスマスを境に、橘君はメールをくれるようになった。
でもそれは、橘君らしく、私が返信の負担を減らせるように気を配った文面だった。
自分の言いたいことだけを送ってきて、私からは返答を求めない。
メールのやり取りを初めてする私は、とても有難かった。
炬燵で、モモと年末の番組をチャンネルザッピングしながら観ている。
テーブルの上には、お菓子が沢山ある。
モモもかわいそうなので、肥満にならない様に日頃は控えているおやつを一緒に食べていた。
歌番組をみながら一緒に歌い、お笑い番組をみながら笑った。
すると、私の携帯から、呼び出しの音が鳴った。
「えっと、何処に置いたかしら」

持ってはいるが、携帯とは無縁の生活をしてきたので、いつでも探してしまう。
橘君がメールをくれていても、気が付くのがいつも遅くなる。

「ああ、切れちゃう……あった」

音のする方へ行くと、何のことはない。買い物用のトートバッグの底に入っていた。
慌てて通話ボタンを押すと、橘君だった。

「もしもし」
『俺、メールしたんだけど?』
「え? あ、ごめんなさい。気が付かなくて」

やっぱりメールをしてくれていたのだ。

『明日ね、何時に待ち合わせする?』
「何時でもいいです」
『じゃあ、めちゃくちゃ混んでるけど、朝に行こうよ。う~ん、8時、いや、9時、10時……』

朝と言っておきながら、時間がどんどんずれて行く。きっと橘君は朝が苦手なのだろう。
私は、何時でもよかったけれど、どうしたらいいのだろう。

「朝がいいなら、起こしてあげるわ」
『え!?』

携帯を耳から離す程、大きな声が聞こえた。
びっくりした。言ってはいけないことを言ってしまったのではないだろうか。

「あ、一人で起きられるわよね? ごめんなさい、催促しちゃったみたいで」
『違う! 違う! 起こして! 起こして下さい!!』
「うん、分かった。何時?」
『えっと……7時、いや、8時、9時……あ~もう!』

それも大変なのか。おかしくて、私は、聞こえないように口を押えて笑った。

『笑ってるだろ……8時でお願いします』
「分かったわ」
『橋の所で待ってるから』
「うん」

そう言ってから、ずっと黙っていた。橘君は電話を切らないのだろうか。
私から切ればいいのか、いったいどうすればいいのだろう。
困った、最後に「じゃあ、明日」と言ってないから、会話の終わりがなかったのかもしれない。
どうやら、私がいけなかったようだ。沈黙を終わらせるべく、私は、そのことを言おうとした時、橘君の声が聞こえた。

『会いたい』
「え? あ、うん。どこに行けばいい?」
『アパートに行くから家にいて? 絶対に外に出るなよ?』
「分かりました」
『今から出るから』
「はい」

そう言って電話は切れた。
会いたいと言う意味がわからない。私が仕事に行っていてモモに早く会いたいと思う気持ちと一緒なのか。
欠陥だらけの私には、理解が出来ないが、会いたいと言われたので、会う事にする。
私は、電話を切ると、急いで、散らかったテーブルの上を片付けた。
橘君の家と、私のアパートは近い。今から出ると言っていると、もう来てしまう。
モモもせわしなく動く私を見て、走りまわる。

「モモも忙しくなったの?」

モモは大興奮で運動会状態だ。
ばたばたと歩く私は、モモを何度か蹴ってしまい、尻尾も踏んだ。

「ごめん、モモ」

台所で、水を飲むと、家のチャイムが鳴った。
すぐにドアを開けると、橘君が前と一緒のダウンジャケットとマフラーを巻いて立っていた。
「どうぞ」
「おじゃまします」

ひんやりとした空気が一緒に入って来た。

「寒かったでしょう?」
「手袋があったからそうでもないよ、ほら」

そう言って、私が贈った手袋をはめていた。
中に招き入れると、クローゼットからハンガーを出して、橘君からジャケットを受けとる。

「炬燵に入って、いま、コーヒーを淹れるわ」
「ありがと」

コーヒーを淹れながら、私は、まだ台所にあった皿などを片付ける。
クリスマスの時は、気が利かなくていたが、今日は、菓子を適当な器に盛り付けた。
いつものカップにコーヒーを淹れると、トレイに乗せて持って行く。

「お菓子くらいしかないの。ごめんね」
「おう、菓子好きだ」
「そう、良かった」
「黒川も好きなの?」
「うん、ずっとお菓子ばっかり食べてるの」
「へえ」

ぱりぱりといい音を出して、橘君は菓子を食べ続けた。

「ご飯は食べてないの?」

あまりの食べっぷりにお腹が空いているのかと思って、そう聞いた。

「食べた」
「そう」

食べていないと言われても、困ったが、私と一緒で菓子が好きなだけのようだ。

「俺もこれ観てた」

テレビの画面をずっと観ていた橘君がそう言った。

「お、モモ、なんだ? 菓子が食いたいのか? ダメ」

いつの間にかテーブルに載っていたモモが、菓子を口に入れる橘君の手をちょいちょいと手を出していた。

「モモの爪、切れる様になった?」
「大変だけど、なんとか」
「まだ平気そうだけど、切っておくよ。黒川の傷が消える様にね。はさみ貸して」

私は、モモ専用のトリミング用品が入っているカゴから、爪切りはさみを出した。
それを橘君に渡す。
さすがは、獣医さんだ。手早く切っている。私の時と違い、モモは大人しく切られている。
診察をしているときの白衣姿じゃないけれど、その姿はとても素敵だ。

「子猫のうちから、まめに爪を切る様にして、一番神経が集まっている足、肉乳を触るようにすると、大人しく切られるようになるから、頑張って」
「どうもありがとう、あ、お金」
「まさか、病院じゃないんだから取らないよ」

そう言って、いつもの笑顔でそう言った。
とぎれとぎれの会話だけど、私はちっとも苦痛じゃなかった。
しゃべらないのも苦痛じゃなかった。
モモを挟んでテレビを観て、菓子をだべる。
そんなまったりとした時間が過ぎて行った。
「やっぱり、あの本が」
「え? 本?」
「ほら、あれ、モモちゃんとあかねちゃん。俺の勘、当たったでしょ」

テレビ台の下には、気に入った本を入れていた。
その中に、お年玉を貯めて買った初めての本、「ももちゃんとあかねちゃん」が入っていた。
モモを病院に連れて行った時、橘君に見抜かれたようにいわれた。その時は黙っていたが、当たっていた。

「シリーズのどれかに猫が出てくるよね、でも確か、プーと何とかだった」
「ジャム」
「そうそう、そんな名前」

橘君も読んでいたのだろうか。どちらかと言うと、少女向けの児童書に感じていたけれど、そうでもないのか。

「ネコを飼ったら、絶対にモモにするって決めていたの」
「そうか、いい名前だ」

橘君は、モモの顔をいじくりながら、人懐っこい笑顔で、そう言った。
高校の時に、もっと今のように心を開いていれば、橘君と言う人がもっと分かったのかもしれない。
ただひたすらに勉強だけをしていた時。周りとの関係を遮断していた。
進路面談の時、私は、クラスで最後になっていて、担任の先生は私に時間を割いていた。
三年間全て違う先生だったけれど、全ての先生がとても良くしてくれた。
何か高校生活で想い出はあったか。辛いことはなかったか、と気に掛けてくれた。
最後の面談の時は、「辛かっただろうが、バイトをよく頑張った」と褒めてくれた。それはそれで、嬉しかったことを覚えている。
橘君の高校生活はどうだったのだろう。部活には入っていたのだろうか。
色々と聞きたいこともあるけれど、それは胸にしまっておく。私が、聞いても仕方のないことだから。

「ストラップ……使ってくれているんだね」

テレビ台の前に腕時計と一緒に鍵を置いてある。それを橘君は見つけ、指をさした。

「一緒に沖縄に行こう」

私は、びっくりして橘君の顔を見た。彼は、ずっとそのストラップを見つめ視線を外さなかった。

「今でも思い出すよ、見せたかった場所」

そう言った橘君は、遠いところを見るような視線にかわっていた。
何も返事は出来なかった。橘君の考えていること、思いを感じ取ることが出来ない。
私にとっては突然現れた同級生。「今」の中だけに生きている私にとって「過去」の彼は存在しなく、今初めて知り合ったという認識しかない。
どう返すべきか考えていると、自然と時間は流れた。

「夜なのに女の人の部屋に来ちゃってごめん」

沈黙を破ったのは橘君だ。
そうか、私は、全くそんなことを気にも止めていなかった。

「黒川さ、警戒心が強い癖に、こういう所無防備なんだよな、なんだか心配」

本当だ。関わりを持ちたくない為に、人を警戒しているのに、橘君をすんなりと家にあげてしまっている。
私は、橘君を前に、警戒を解いてしまっていた。
橘君の屈託のない笑顔と人当たりのいい雰囲気を見ていると、本心を見せず、表情を表に出さない自分が恥ずかしくなる。
「このままだとずっと居ちゃいそうだから、帰るね。明日の初詣楽しみにしてる。あ、朝、お願いします」
「うん、分かったわ」

橘君は、モモも頭をなでると、ハンガーに掛けてあったダウンジャケットを着た。
私は、マフラーを手渡すと、橘君は、それを黙って受け取った。

「じゃあ、明日ね」
「うん、気をつけて」
「おやすみ」
「おやすみなさい」

私は、橘君が階段を降りて姿が見えなくなるまで見送った。
なんども手で中に入れとジャスチャーしていても、私は、入らなかった。
姿が見えなくなり、家の中にはいると、もうすぐ新年を迎える時間になっていた。
いつもなら寝てしまっている時間だが、モモと新年を迎えることにする。
紅白歌合戦では、カウントダウンが始まり、私もモモを抱いて、数えた。

「あ、明けたわ。モモ、明けましておめでとう」

そう言って、いつもしてしまっているように、モモにキスをした。
すると同時に、携帯がなる。メールだった。

「橘君だ」

メールを読むと、「明けましておめでとう」とあった。
随分マメな人なのだなと、思った。
クリスマスといい、年末、に年明け。こんなに気にすることばかりで疲れないだろうか。
毎年、変らず過ぎてゆく日々が、今年はモモの出現で違っている。人の手を借りて生きているモモ。そして、拾って来た責任もある私。そこへ、高校の同級生だった橘君が加わった。たった半年の間で、これまでに自分の環境が変わったことなどなく、戸惑う事も多い。その一つが、「友達」という括りだ。
橘君は、「初めて声が聞けた」と言いたくらい、私は、話しをしなかった。会話など不要だった。
橘君の病院から遠ざかろうとしたことを今では反省している。
この僅かの期間で、私は、「友は選べばいい」という事を知った。
確かに人付き合いを避けていた私にとって、知り合いが出来る事が、かなりのストレスだったことは間違いない。でも、私の領域にずかずかと入ってくる橘君を、知りもしないのに、毛嫌いするのはどうなのだろうと、考えた。
これは、私が、社会人となり、一人で生活をして、大人になったから分かり得たことだと思う。
そんなことをつらつらと思いながら、橘君を起こすことを忘れない様に、目覚ましをセットして、ベッドに入った。
すると、待っていたかのように、モモが布団の中に入り込み、ゴロゴロと喉を鳴らした。
初めて感じるワクワクした気持ちを残し、私は、眠りについた。
翌朝、目覚ましより早く起きると、カーテンを開けて、ベランダの窓を開けた。
元日の今日は快晴だ。
今年も自分らしく穏やかに過したい、そう願う。

「わあ、いいお天気。モモもそう思う?」

ベランダには、モモが飛び出したりしない様に、ホームセンターで波板を買い、取り付けた。隣にも行かない様に、防災扉の下には、ブロックを置いてある。
足元にはモモが外を見られるくらいの隙間があり、そこから外を見ていた。

「う~ 寒い。モモ入って」

賢いモモは、呼ぶと傍に来る。
モモが入ると、すぐに窓を閉めて、ファンヒーターをつけた。
アパート自体は築年数もそんなに経っていない。隙間風が入ることはない。
ファンヒーターをつけると、すぐに部屋が温まり始め、モモはその前に陣取った。

「レオと一緒ね」

モモの様子をみて、レオを思い出す。
橘君を起こす時間を気にしながら、昨夜作っておいた簡単なおせちとお雑煮を食べた。
テレビは朝から賑やかで、新年を祝っている。
時間を気にしつつ、支度をする。

「あ、起こさなくちゃ」

時計を見ると、橘君を起こす時間になっていた。
携帯で橘君の着信からコールをする。

「出ないわ、どうしたのかしら」

留守番電話にもならないので、私は、しつこいと思ったが、約束なので、延々と鳴らし続ける。
やっぱり出ないので、一度電話を切る。

「もう、ぐっすり眠ってるのね」

昨日、帰ってから遅くまで起きていたのだろうか。新年のメールをくれてから、すぐに眠ればいいのに、夜更かしをしたのだろうか。
私は、再度、電話をかける。
そして、やっと電話がつながった。

「おはよう、橘君」
『ん……』

確かに電話はつながっている。だけど、何の応答もない。

「橘君、朝よ。起きて」
『ん……お、きた』
「電話を切るけれど」
『ん、ありがと』
「じゃあね」
『うん』

大丈夫だろうかと不安になりながらも、いつもでも電話を切らない訳にはいかず、私は、電話を切った。
いつも過した正月と違う朝だ。簡単なおせちとお雑煮を、正月番組をみて食べていたが、今年はそう言う訳にはいかない。
お雑煮だけを食べ、出掛ける支度をしなければならない。忙しい。
食事の後片付けをして、支度をする。時計は丁度いい時間をさしていた。
橘君を待たすのも悪い。
人と待ち合わせをするという事は、こうも忙しなくなるものなのだな。
いつもと同じことをしているはずなのに、何故か余計なことをしてしまう。
結局、アパートを出る時間がぎりぎりになり、慌てて靴を履いた。

「モモ、出掛けてくるわね、すぐに戻るから良い子にしていてね」

陽があたっている出窓に寝ているモモに声をかける。
一度、モモの所在を確認しないまま買い物に出てしまい、帰ったら、押し入れで鳴いていたことがあった。
それからというもの、指さし確認ならぬモモ確認を怠らない。
そう長い時間じゃない。混雑はしていても初詣だけだ。玄関に掛けあるダッフルコートを着て、ポケットに入れてある手袋をはめて、アパートを出た。