「黒川も来て」
そう言われて、素直に車を降りる。モモの様子を見ると、じっとしていた。
まあ、何かあっても獣医である橘君が一緒なのだから安心だ。
私が、車を降りて、橘君の傍に行くまで、ずっとそこに立っていた。
待たせてしまっただろうか、少し焦る。
傍に近寄ると、また橘君は私の手を取った。
もう、大丈夫なのにと思って言ってみた。
「橘君、もう、振らつかないから大丈夫」
「そうじゃないんだけど……いいから繋いでおいて」
「うん」
私は、それに従った。そうした方が、いいのだろうと判断したからだ。
コンビニの小さなカゴを持って、橘君は弁当売場に行く。
「何が食べたい? どうせ、料理までする気力はないだろう? 買っていったらいい」
その通りだ。帰りは、コンビニで買って帰ろうと思っていたので、ちょうどいい。
「えっと、これ」
コンビニで売られているお弁当は、揚げ物がおおい。だけど、揚げ物は遠慮したい。おこわが何種類か入っている和風弁当を手に取った。
橘君は私の前にカゴを持って来て、入れてという合図を送る。
「俺は、そのとんかつ弁当を食べようかな、入れて」
「うん」
繋いでいる手を離せば、自分で取れるのに。そう思っていたけれど、揉め事はしたくない。言われた通りにとんかつ弁当を同じくカゴに入れた。
弁当売場から、デザート売場に移って橘君の指示された商品をカゴにいれる。
「さ、会計に行こう」
レジカウンターにカゴを乗せ、会計をする。レジが金額を言うと、橘君が、
「さっきの封筒」
「あ、うん」
ポケットにしまってあった封筒を取出し、お金を出す。金額は封筒に入っていた2000円でおつりがくる金額だ。
手を離してくれないかな? 店員もそう思っているに違いない。だけど、そうはしてくれない橘君だ。私は、繋いだ手も使って、お金を封筒から出した。
おつりは私が受取り、商品は橘君がもつ。
そして、コンビニから出て、車に乗るときに手を離してくれた。
車にのると、真っ先にシートベルトを締めた。
「出すよ」
「はい」
コンビニだったら、もっと近所にもあったはずだ。橘君はどうしたいのだろう。診察は大丈夫なのだろうか。
そう思ってはいても、ここまで来てしまったら、歩いて帰るのは辛い。
車は、どこに向かって走っているのだろうか。自転車では来たことがない風景が広がる。
明るい場所は通り過ぎ、道路の街燈だけになっていく。前の景色は暗く、吸い込まれそうで怖い。
海だ。
辺りは暗かったが、月明かりが海に反射して綺麗だ。この海が気に入ってこの土地に引っ越してきたはずなのに、まだ、一度も訪れたことがない場所。
海の駐車場に車を入れ、停車した。
辺りは、一台も車が停まっておらず、ど真ん中に適当に停めても問題なさそうだ。
「外に出たかったけど、肌寒いから」
そう言った橘君は、コンビニの袋から、買ったお弁当を出して、一つを私に渡した。
「お金、突き返しちゃたけど、黒川が気にすると思って。この弁当をごちそうになるよ、いい?」
やっぱり、橘君は気遣いの人だった。
いつでも私は、自分が傷付かないように生きてきた。
物心がついたとき時には既に、しゃべらなくなっていた。
確か、遠い記憶では、小学校に入学したとき、学校が楽しくて、今日の出来事を学校から帰ると、母親に話をした。
「うるさい、おしゃべり」そう言われた。私の家族がおかしいと感じ始めたのもこの頃だ。
祖母が、口癖のように私に「ごめんね」と謝っていたことが、理解できた。
リサイクルショップで買って来た洋服ばかりを着ていた。母親は自分の身なりだけは常に気を配る人だった。それでも臭い洋服を着させられるようなことはなく、一応、母親なりに、気を使った洋服を買って来てくれてはいた。
私の顔は母親にそっくりだった。
母親は、「ハーフなのか」と聞かれるような顔つきをしていた。憎らしく思っていた私でも、綺麗だと思っていた。
だけど、私はこの顔が大嫌いだ。
「男をたぶらかす顔をしている」そう言われたことがあった。私は、全く身に覚えがないことだったが、どうやら私のことを好きな男子がいたらしい。そう言った女子が、告白したが、断られた。その理由が、私だった。
女の恨みは女に向かう。私は、その男子のことも知らないし、告白もされていない。いわれない中傷を受けた。私は、しゃべらなく存在を消していればいいと思っていたが、肉体も消さなければならないのかと思った出来事だった。
そして、存在を消せない私は、立ち向かう強さを身に着けることにした。自分の境遇に悲観せず、身になることのみをする。自分が金を作り、身になる。努力が対価として支払われる国だ。
勉強が身を助ける。
そう信じて、ひたすら勉強をした。自分の時間は全て勉強と共にあった。
「女が勉強出来たって、クソの役にも立ちゃしない」そう言った、教養のない父親の言葉も忘れない。
私の想い出は勉強だけだ。
「温めて貰うの忘れたな」
「実習生のバッチがついてたから」
「そうか、聞くのを忘れたんだな」
「おにぎりといい、弁当といい、なんか俺、しゃれてないよな」
そんなことはない。誰かと食事するのは、緊張するけれど、私に負担がないようにしてくれたことだ。
モモのお陰で、全く無縁だと思っていた同級生と、こうして、近づく事ができた。
でもそれには、ちゃんとブレーキをかける。モモも抜糸をしてしまえば、余程の事がない限り、病院には行くまい。
私には、入ってはいけない世界がある。
あの厄病神が生きている限り、私につきまとうだろう。天変地異が起きて、私に好きな人でも出来たら、その人にたかりに行くに決まっている。
そんなことは出来ない。
だから、私は、地獄の中を生きて行くのだ。
「黒川も食べて、モモは、う~ん……モモ、ごめんな。もう少し待ってよ?」
箸を渡してくれ、後部座席にいるモモに言葉をかけた。
エンジンが止まった車の中は、海の波打つ音が聞こえた。
もっと早く来ればよかった。この音は、なんと心が穏やかになる音なのだろう。
「少し開けるよ。波の音がいいよね」
私は、食べる箸が止まっていた。波の音に聞き入っていたのだ。それを橘君が察してくれたのだろう。
開けられた窓からは、海の匂いがした。
イヌがいれば、海辺を散歩しただろうが、モモは散歩もしないし、水も苦手な猫だ。
モモには悪いけれど、留守番をしてもらい、週末は海に来ることにしよう。図書館に行くのが、いつもの週末の過ごし方だったが、海も加えよう。
「泳げる?」
「多分」
中学生以来、泳いでいない。あのころは、確か、100メートルは泳げていたはずだ。
身体が覚えていれば、泳げるはずだ。
「来年の夏、この海で一緒に泳ごう」
そう言ったきり、橘君は私のアパートに送り届けてくれるまで、何もしゃべらなかった。
モモの抜糸も無事に済み、私は、「たちばな動物病院」に行くこともなくなった。
モモはどんどん大きくなり、橘君のアドバイスで買ったデジカメは、大活躍で、パソコンの中には、モモの写真でいっぱいになった。
手のひらに乗る程の小ささだったモモは、あっという間に大きくなり、あの可愛かった赤ちゃんの面影は無くなっていった。
それでもあの「抱っこひも」は大好きで、中に入ると、いつまでも出では来なかった。
子猫の時と違い、肩にずっしりとくる重さに、湿布を貼る日々だ。
私は、橘君の電話番号と、アドレスを携帯に登録しなかった。
人と関わってはいけない。それだけは決めていることだからだ。
橘君と出会ったことで、私の周りが変りだした。いつものように振る舞っているはずなのに、会社でも声をかけられるようになってしまった。
昼休みは、食堂ではなく、工場の外の公園でお弁当を食べている。
なのに、そこに、昼ごはんを食べ終えた、工場の男性が野球をするようになり、話し掛けられる。
向こうは私を知っている。私は、名前も知らない。社員なのに、いけないことだ。
バリアを張っていた私の周りが、はがれはじめたのかもしれない。
仕方なく休憩の場所を変えた。
年末に近づくと街はせわしなく、賑やかになる。クリスマスと正月の年末商戦が激しい。
私は、憂鬱だ。
厄病神ともいえる両親が、二人そろってくる。
その日が、やってきた。
アパートで、モモをお腹の上に乗せ、ゴロンと横になり、テレビを観ていた私は、家のベルで、起き上がる。
「モモ、待ってて」
インターフォンを取ることもない。誰だか分かっているからだ。
だけど、よく恥ずかしげもなく来られるものだ。そこだけは感心する。一生懸命自分の力だけで生きている娘に対し、骨の髄までしゃぶってしまうような行為。
世が世なら、私は、遊郭にでも売り飛ばされていただろう。
「茜、元気にしてる?」
「おう、寒いぞ、風邪ひいてないか?」
ドアを開けると、品のない二人の親が並んで立っていた。
それに、一度も体のことを心配したことなどない癖に、心にもないことを言わないでほしい。
私は、腕を組んで二人の前に立ちはだかる。
「正月は来ないのか? おせちも用意してるぞ、母さんが」
「そうよ」
その金を貰いにきたんでしょう? それに、おせち? 私は、テレビで見るまで、正月におせちと言う物を食べるという事を知らなかった。
娘を娘とも思わず、今は銀行とでも思っているのだろう。
新春麻雀だと言って、ずっと居ない父親と、新年会と称して飲み歩く母親。私の正月はいつもカップラーメンだった。
「で、いくら?」
「え? ああ、これくらいあると助かるわ」
そう言うと、母親は片手をパーにした。
五万ね。大丈夫、きっちり、専用の出納帳に記入はするから。今までもそうだ。
私は、財布から、五万円を抜き、一枚一枚数えた。
「茜、ありがとう、ありがとう」
真っ先に手を差し出して、金を受けとろうとする母親。家事をしていない女の手はなんと綺麗な事か。私はこの金額を得る為にどれだけの単純作業を繰り返してきたのか分かっているのか。はらわたが煮えくり返る。
「え? 大金を貰う人の態度じゃないけど」
手に持っていた札を私は、さっと、自分に引いた。
「何を!」
「あら、大きく出たわね。いらないの? 前にも言ったけど、殴らせてくれたらもっとだすわよ」
「そ、それは……」
「自分が同じことをされて、人の痛みを知ったらいいんじゃないの? 頭の悪い人ね」
汚く罵る私は、もはや、般若の顔だ。恨みと苦悩が表情に出ているだろう。そうさせているのはあなた達だ。
「今まで育ててやったのは誰のお陰だと思ってるんだ」
「は? 育ててやったですって? 偉そうにいわないでよ。そんな憶えなどないわ。お金が欲しいんでしょう? どうなの?」
父親は顔を真っ赤にして、殴る準備をしていた。母親は、慌てて、その手を掴んだ。
両親は、金の前に弱者になる。
二人して、私に向かって深々と頭を下げた。
私は、その姿が本当に可笑しくて、大きく笑ってしまった。
お腹が痛くなる程笑ったことは初めてだ。
いつか母親にしたように、二人の間をぬって、札を天に向かってばらまいた。
「帰りなさい」
そう言って二人をドアから押し出すと、乱暴にドアを閉めた。
外では、二人で、「あそこ、あ、あそこにも、枚数を数えてよ」と言う声が聞こえ、それもまたおかしかった。
だけど、私の目からは涙がとめどもなく流れた。もう私の心は悲鳴をあげている。
もう、生きていたくない。こんなことをしたって、すっきりも何もしない。
自分から命を絶つ勇気はない。
もう直ぐクリスマスだ。サンタは私のお願いを聞いてくれるだろうか。
「どうかお願い。私を、心穏やかに光で満ちた世界に連れていって」
そう願うと、心配したモモが私の足元に来た。見上げる顔は、私がいるから大丈夫と励ましてくれているようだった。
社会人になると私は、「歳時」という事を大事にした。それは、一度も経験したことがない子供時代を過したからだ。
正月には、鏡餅を置き、玄関飾りも付ける。クリスマスは、リースを作り、家の中に小さなツリーを買って飾った。
その他にも十五夜、冬至のゆず湯、しょうぶ湯と全てスーパーで教えて貰ったものだ。スーパーはよくしたもので、商品を売る為に、こうした歳時を教えてくれる。
そうした時に、「そうか、今日は冬至か」と知ったものだった。
そして楽しみでもなく、大っ嫌いなのが誕生日だ。なぜ産まれたのか、なぜ産んだのか、私は自分自身を忌み嫌うように、誕生日もまた嫌いだ。
クリスマスも正月も憂鬱でもあり、楽しみでもあった。
職場は、仕事納めの前に忘年会があった。これが苦痛だったが、パートさんが参加するのに、社員である私が参加しない訳にはいかない。
ものの30分程でいつも消えてしまっているから、いいけれど、「皆で親睦を深める」という主旨が苦手だった。
この日は、その忘年会だった。会費は飲み放題をつけて五千円。これは、暑気払いも、忘年会も変わらない金額だ。
いつも自転車通勤をしている私は、パンツを履く。だけど、忘年会のこの日、座敷に座ることを考え、ロングだったが、スカートにした。
大勢の従業員がごった返す会場は、毎年、ホテルと決まっていた。居酒屋では入りきらないのだ。
ホテルならば、もう少し会費がかかりそうなものだが、何かにつけ、このホテルを利用している会社は、幹事になったことがないので知らないが、きっと特別なのだろう。
父親の姿を思い出してしまう私は、酒を毛嫌いした。
今まで一口も口にしたことがない。乾杯はウーロン茶でした。
飲むピッチが速い従業員は、挨拶もほどほどに盛り上げって来ていた。
私は、腕時計を見ると、長居をしてしまったことに気が付いた。
いけない。モモが待っている。
今日は、少し遅くなるので、ご飯をいつもより多く置いて来てある。それは心配ないが、私の生活リズムが狂った事がないので、モモはきっと窮屈な思いをしているに違いない。
周りを見渡しても、誰も私には、気が付いていない。
横に置いておいたコートとバッグを持つと、そっと会場を出た。
ここまでは、会社の送迎バスで来ていた。
通勤で使っている自転車は会社に置いてある。
ホテルから会社までは、少し距離がある為、フロントにお願いして、タクシーを待った。
いつも入り口前にいるタクシーも、年末でいなかった。稼ぎ時なのだ。
だが、ぐうたらな父親は、寒いからとか何とか言って、休み、私が渡した金で満足しているのだろう。
10分程、ロビーで待っていると、タクシーが来た。
「お客様、お待たせいたしました、タクシーが参りました」
「ありがとうございます」
フロントマンがわざわざ、私に言いに来てくれた。
深く入り込んでしまうふかふかのソファから腰を上げ、私は、玄関に向かった。
自動ドアがあくと、冷たい風邪が吹き、髪が顔の前にかかる。
タクシーのドアが開いて、名前を名乗り、工場の名前を言うと、「かしこまりました」と言ってタクシーを発進させた。
運転手は走り出すとすぐに、
「今日は風が冷たくて、寒いですねえ」
と言った。初老の男性で、のんびりと仕事をしている風だった。
「そうですね、寒いですね」
と、答えた。
タクシーのメーターは一回更新された料金で工場に着く。
「ありがとうございました」とお礼を言って、タクシーを降りた。
残業を誰もしてない工場は、暗かった。駐輪場はなんとか、電気がついていたが、風の音が、何か出そうな前触れに感じて、急いで、自転車に乗った。
帰りの道は、向かい風で自転車を漕ぐペダルが重い。
「はあ、疲れる」
履きなれないスカートが、風にあおられて下から冷たい風が入ってくる。
タイツと、オーバーパンツを履いているけれど、やっぱり冬のスカートは寒い。
捲り上がりそうになるスカートを片手で抑えながら自転車を走らせる。
暗い道を通り過ぎると、駅前の大通りにさしかかった。
両側の道は、忘年会の帰りとみられる人が固まって歩いていた。
肩をくんだり、大声で歌を歌ったりして楽しそうだ。
私は、橋を渡ればアパートなのだが、モモのトイレの砂を買うのを忘れていたことに気が付いた。
いつも重いキャットフードとトイレの砂はネットで買って、届けて貰っていたが、うっかりしてしまった。
明日に先延ばしは可哀想だ。それにいつ何が起こるか分からない。
人間の食べ物や日用品は直ぐに手に入るが、ペット用品は後回しだ。私は、自分の非常袋よりもモモの非常事態に備え、余裕の準備を怠らない。
遅くまで開いているホームセンターを目指すため、橋を渡らず、その手前で方向を変える。
風は冷たいが、これだけ一生懸命に自転車を漕ぐと体も温まってくる。
明るい外灯で周りを囲ってあるホームセンターに入る。
店内に入ると、入り口でカゴを持って、天井から下がっている案内表示を見て、ペット用品売り場に向かった。
「あった」
一袋がずっしりと重い砂を一袋だけ、カゴに入れる。
ついで、と、おもちゃを見て回った。
モモは、毛糸玉が好きだった。冬になると編み物をする私は、モモが寝る様になったあの出窓に、毛糸で座布団を編んでいた。
それにじゃれついて、遊んでいた。編み物が進まないので、違うおもちゃで気をそそっても、最初だけで、やっぱり毛糸玉に戻って遊んでいた。
「ねずみがある」
一度もネズミのおもちゃで遊んだことがない。もしかしたらこれも気に入るかも知れないと思い、一つ手に取って、カゴに入れた。
自転車で重い物を運ぶのも容易じゃない。買い物はこれだけにして、レジに向かった。
ホームセンターの袋を下げ、自転車に乗るときには、すっかり体は冷めていて、また、体が震えた。
「風邪を引いちゃうわね」
ぶり返すのはよくない。手袋をはめて私は、アパートを急いだ。
いつもの橋の近くにさしかかった時、信号待ちをしていた。すると、学生らしい二人組が、酔っているのか、私に絡んできた。
「お姉さん、一人? めっちゃ綺麗なんだけど。俺達、これからカラオケに行くから一緒にどう?」
「結構です」
「いいじゃん、寒いしさあ」
「止めて!」
一人の男が肩に手をかけ、私の顔を覗きこむ。私は、肩を掴まれたことによりふらついてしまい、自転車を降りた。
周りには誰もいない。助けを呼んでも誰も来ない。
私は、過去を思い出した。
高校の時、新聞配達のバイトをしていたが、早朝でも不審者はいた。
一番、配る部数が少ない区域を負かされたが、少し暗かった。
アパートを配り終え、階段を降りた時、階段の下から男が、私に向かって、露出した下半身を見せた。
あまりのことに、私は、全く声が出なかった。
それ以上なにもされなかったが、一度、全ての新聞を配り終わって販売所に帰るとき、こうした若い男性に声をかけられたこともあった。
その時も、「綺麗な顔をしているね」だった。
販売所の奥さんは「大事な娘さんをお預かりしているのだから」と言って、区域替えをしてくれた。
私は、その時初めて、祖母意外に自分を大事に思ってくれている人と出会った。と思った。
女の力では振り払うことなど出来ないし、相手は酒を飲んでいる。何をされるか分からない恐怖で、本当に怖かった。
「おい! 何をしている!!」
その声の主は、乗っていた自転車を放りだして、私を掴んでいた男に掴みかかった。
橘君だった。
「橘君!」
橘君は、私を背中に隠してくれた。橘君の背中に私はしがみつき、離れなかった。
男達とは、もめていたようだし、ゴンという鈍い音を聞いたが、殴られたのか、殴ったのか分からない。
「やってらんねえ」
捨て台詞をいい、私に絡んできた男たちは、その場を去っていった。
「黒川! 大丈夫? 怪我はない?」
橘君は、私の顔を両手で上に挙げ、全身の様子を見た。橘君は殴られたようで、頬の辺りが、あかくなっていた。
「橘君こそ、ごめんね、ごめんね」
「とにかく帰ろう、送っていくから」
「うん」
倒れた自転車をそれぞれ起こす。
「自転車に乗れる? 寒いから急ごう」
「うん」
橘君を先頭に、私は、後を付いて自転車を漕いだ。何度も何度も後ろを振り返っては、私の様子を窺ってくれていた。
橘君が通りかからなかったら、私は、どうしていただろう。そう思うと怖い。
橋を渡って、曲がる。
もう、アパートは見えた。私は、全く寒さも感じないほど、恐怖でいっぱいだった。
自転車置き場に自転車を止めると、橘君は、
「もう、大丈夫だね」
自転車から降りずにそう言った。きっと、帰るつもりなのだ。私は、そのまま帰って貰う事が出来なかった。
橘君の自転車の傍に行く。
「すぐに帰らないで」
違う、私は、そう言いたかったんじゃない。傷の手当をするから、寄って欲しいと言うつもりだった。でも、口からは、そんな言葉が出てしまっていた。
「うん、いいよ」
橘君は、自転車を降りて、スタンドを立てかけ、鍵を掛けた。
二階に向かう階段を昇る。
部屋の鍵を開けると、家の中からモモの鳴き声が聞こえた。
「モモが、お帰りって言ってるね」
「うん、いつも……」
モモをゲージに入れるのを止めていた。治療も何もかも終わり、問題ないからだ。入っては危険そうな場所は閉めていたが、モモは、お気に入りの出窓で陽が入っている間はそこに寝ていた。
レンタルで借りていたゲージは返却し、部屋が広くなった。
ドアを開け、壁のスイッチをつけると、玄関にモモが座って出迎えた。