「ラーメンが食べたいなあ」
蒸し暑い夏、冷やし中華がぴったりだが、冷えた体には、熱くこってりした味噌ラーメンがいい。
「あそこにしよう」
商店街に気になる店があった。今時の洒落っ気はなく、ただひたすらラーメン屋という店構えだ。
私は、ラーメン屋をめざして自転車を漕いだ。
「味噌辛ラーメンをお願いします」
「はいよ」
カウンターに座り、ラーメンを注文した。
初めて一人でラーメン屋に入った時は、緊張した。何度も店の前を行き来してやっと入ったのを思い出す。
人は全く気にしない私でも勇気がいった。もう少し女が入りやすいラーメン店が増えて欲しいと思う。
ファミレスやファストフードは難なく入れたが、ラーメン屋はなかなか入れなかった。
立仕事の一日を終え、やっと座る。足がパンパンだ。
ラーメンが出来るまで、ふくらはぎを揉む。
店内を見渡すと、女は私しかおらず、客は全て男だった。客の入りをみてもなかなかの繁盛店の様だ。
いつも持ち歩いている本を忘れた。
手持ち無沙汰で何もすることがない。天井の角を見ると、テレビが設置してあった。頬杖をつき、流れる画面をみた。
「はい、お待ちどうさま」
「あ、はい」
ラーメンは出来上がるのが早い、待っている時間が少なくてすんだ。
カウンターにある箸立てから割りばしを一善とり、心の中で「いただきます」と言う。
スープから飲むと、期待していたこってり感が口の中から食道に流れる。後から来る辛さがたまらない。
好みの味だった。
スープを全部飲み干したいところだが、胃がたぷたぷしてしまうのは頂けない。
「ごちそうさまでした」
カウンター越しに店主に声をかけると、白衣で手を拭きながら、私に向かって近づいた。
「あ、ありがとうございます、850円です」
財布から、千円札をだしてカウンターから支払う。
おつりを貰って、店を出た。
「さて、DVDを借りて、スーパーに寄って、帰えろっと」
週末は出かけたり、家でごろごろしていたりと気分次第だ。友達も必要ない私は、時間を有意義に自分のしたいように過ごすことができる。
本を読むのは好きだ。いつもバッグに入れている。もっぱら図書館を利用するが、人気の本はなかなか順番が回ってこないのが、難点だ。
荷物を増やさないように生活をしているが、どうしても好きなコミックを買ってしまう。新刊で買いたいところだが、財布事情と処分する時の感情を考え、中古本を買っている。
洋服だって、一枚買えば、一枚処分。収納ケースなどは増やせばまた物が増えるという悪循環を生むため、それも買わない。
アパートは女の一人暮らしにしてはとても質素だ。
「あー疲れた」
全ての用事を済ませ、やっと帰路に着く。
自転車に乗り込み、アパートへ向かう。
アパートに着くと、自転車置き場に自分の自転車を置くと、近くから、猫のかすかな鳴き声が聞こえた。瀕死のようなか細い泣き声だった。
「ネコちゃん? そこにいるの?」
アパートは新築じゃないが、大家さんの趣味で、庭がとてもすてきに整備されている。所謂ガーデニングと言うやつだ。その一角に桜の木が植えてある。そこから鳴き声が聞こえる。暗くてよくわからない場所を猫の鳴き声を頼りに、前かがみになって足を進めた。
「あ、いた……どうしたの? 大変!」
見つけた猫を見ると、大きな猫にやられたのか、鳥につつかれたのか、体中から血がでて、目やにもひどく、目も怪我をしているようだった。暗くてよくわからないが、毛も抜けている所がある。
「そこにいるのよ、今すぐに来るから待っててね」
両手に持っている荷物を取り敢えず部屋に持って行かなければいけない。
何故か分からないけれど、身体が震えた。心臓が早く鼓動を打って、血の気が引いていくのが分かった。
鍵を開けて、袋をキッチンに投げると、洗面台からバスタオルを取り、バッグと猫をいれられそうな袋を持って、猫の所に急いだ。
「はあ、はあ、猫ちゃん、今、助けるからね」
蹲って動かない猫をバスタオルで優しく包抱き上げると、まだ、片手にすっぽりと収まるほどの子猫だった。
まだ泣いている。大丈夫だわ。
私は、座り込んで、目を閉じる。
動物病院、確か何処かにあったはず。工場の帰りに看板を見た憶えがある。動物を飼ったことがないから、気にも止めていなかった。
思い出すのよ、落ち着いて。
腕の中にいる猫の命は私が握っている。何とかして病院に連れていきたい。
「あ! あそこだわ」
工場からの帰り道の記憶を辿ると、大通りのコンビニがある交差点に看板があったことを思い出した。
少し危ないかと思ったけれど、これだけ衰弱していればカゴから落ちることはないだろう。そう判断して、バスタオルでくるみ、持ってきた袋に入れ、自転車のカゴに入れた。
「怖くないからね」
もうすでに鳴き声も出ない状態になっていた。だけど、子猫はあまり開いていない目で私の顔をしっかりと見て、声は出ていないが、口を開けて鳴くような様子を見せた。
振動で何かあったら大変だ。
縁石の所はブレーキをかけ自転車を漕ぐ。
気持ちは焦っているが、自分に落ち着くように言い聞かせる。
すぐに目的の動物病院の看板が見えた。「夜間診療」と病院名の下に書いてあった。
「たちばな動物病院。良かった、診察してもらえるわ」
病院が閉まっていたらどうしようかと思っていたが、「夜間診療」と書いてあり、安心する。
病院自体は、古くからあるような感じだった。人間の病院のように無機質ではないが、築年数は経っているようだ。
自転車を病院の駐車場にとめ、子猫を入れた袋を取り出す。
「ネコちゃん、もう大丈夫だからね」
袋をカゴから取出し、底を手で支える。猫の重さは感じられず、心配になる。
病院のドアを開けると、患者は誰もいなかった。受付にも人がいなく、私は、中に向かって声をかけた。
「すみません! お願いします!」
普段、全く人としゃべらない私が、これほどの大きな声が出るのかと自分でも驚く。
私は子供のころから人と会話をしない。
母親からは、失語症なのではないかと言われたが、そうじゃない。
無駄に喋りたくないだけだ。
私がこうなったのも全て、悪魔のような両親のせいだ。そのお陰で、私は、自分の存在を消し、余計な事を考えず、自分のことだけを考えればいいという、合理的な人生を選択した。
困ることなど何もなかった。
世の中にはいじめにあったり、仲の良かった友達に裏切られり、親友に男を取られただのと人間同士が関わる面倒なことに溢れている。私はそれらのことから関わらないで生きてこられているのだ、なんと幸せなことだろう。
好きな時にご飯を食べ、出掛けたくなったら外にでる。観たい映画を譲り合わずにもすむ。こんなに心地の良いことはない。
中学時代はなんと呼ばれていたか忘れたが、高校生になると、名前の「黒川」からとり、「黒子」と陰で呼ばれていた。
まさにその通りで、私は、そうあだ名がつけられた時に、「うまいことをいう」と心で笑った物だ。
影の存在。だから「黒子」。でも、私は、それにも不満だった。願いは、「存在自体を忘れて欲しい」という事だからだ。人として気にしているからあだ名がつく。私もまだまだだなと思った。
「はい、どうしました?」
診察室と書かれた部屋から出て来たのは、若い先生だった。
つけていたマスクを提げ、対応してくれた。
私の顔をじっと見たが、すぐに持っていた紙袋の方に視線を移した。
「凄く怪我をしているんです、死んじゃうかも! すぐに診察してもらえませんか?」
「はい、こちらへどうぞ」
獣医が出てきた診察室に通されると、袋からバスタオルごと猫をとりだした。
「よしよし、もう大丈夫だ。どこかで拾われたんですか?」
「はい」
診療用のゴム手袋をはめて、猫の目、体の傷、尻とあらゆるところを見て行く。
私は、診てもらっていることで、やっとホッとした。助かる。そう思った。
動物様の小さな診察台で力なくいる猫を明るい所で初めて見ると、拾った時よりも酷い傷があることに気が付く。
「ネコちゃん……」
私は、絶句と言う言葉を初めて思い浮かべた。
口元に両手を持って行き、声が出てしまいそうになるのを我慢する。
「色々な病気の検査をしないといけませんが、鳴いているし大丈夫。今日は入院しましょう。傷はカラスに突かれたのでしょう。カラスは子猫をおもちゃと思って攻撃してしまうのです。子猫が運ばれてくるときは大抵そういう理由です。傷は治るまで投薬と塗り薬が必要ですが、あとの病気は、血液検査をしないとわかりません」
「は、い」
カラスか。憎きカラス。そう言えば、猫がいたところは、アパートのゴミ集積場だ。
「多分、お腹に虫もいるでしょうし、ノミもいます。傷の状態で退治をしましょう。沁みちゃうと可哀想ですから」
「よかった……助かるんですね、命」
「大丈夫。あ、でもこれだけは……血液検査でわかる猫にある白血病ウイルスがあります。これは、なかなかやっかいです。捨て猫に多いので、それだけは安心できません」
「いいです。少しでも命が長らえれば。いい治療があればなんでもします」
「わかりました。じゃあ、猫ちゃんは入院で、預かってしまいますね。ほら、バイバイして。じゃあ、待合室でお待ちください」
獣医は、弱っている猫の手をそっとあげ、私にバイバイをした。
腹を痛めた子供でもないのに、涙がでそうになる。
私は、泣いた記憶がない。映画を観たってどこか他人事で、感動はするが、それ以上の感情は湧かなかった。
血も涙もない女だ、と思っていた。だけど、今目の前にいる瀕死の猫をみて、愛おしさに胸が締め付けられた。
診察室の奥にもう一枚ドアがある。そこのドアを開け、獣医は私の猫を連れていった。
「よかった、ほんとうに」
この病院とあの獣医が、私の救世主に見えた。それほど安心したのだ。
実際、親が死んでも喜びはするが、悲しんだりはしないだろう。
拾った猫のように道端で、怪我をして瀕死の状態であっても助けはしないだろう。私の両親への憎悪は、ある域に達するほど深いものだった。
座って待つソファもあるのに、落ち着かない気分で立っていた。
診察室とは別に受付の後ろにあるドアが開く。
猫を診察した先生がそこから出てきた。
受付の中にある引き出しを開けて、紙を一枚取り出した。
それをカウンターに置くと、こう聞かれた。
「ぐったりとしてはいますが、これから治療して行けば大丈夫でしょう。大変失礼ですが、確認をさせて下さい。あの猫ちゃんは飼われる予定ですか?」
「はい、もちろんです」
「野良猫を保護した場合、預けてそのままにされてしまう方もいらっしゃるので、確認をさせていただきました。気を悪くなさらないで下さい」
「いいえ」
「ではこちらに、住所、お名前、電話番号、それから、猫ちゃんの名前を書いて下さい」
「はい」