そうして、私は、橘君から、デジカメの使い方を教わった。
説明がうまい橘君だったが、言葉の意味から解らなかった。カタカナなのか、英語なのか、はたまた和製英語なのか。でも、最初の設定をしてもらってからは、スムーズに行った。
最初の一枚は、「レオ」だった。

「うまく撮れるなあ。黒猫ってさ、カメラが焦点合わせられないんだよね。スマホのカメラもそう、うにょうにょ動いて、真ん中はどれなの? 迷ってるんだよね。いいなあ、俺も最新機種買おうかな」

カシャカシャと連写をしたレオは、どれも寝ていたが、ピンボケや手振れをすることなく、凄くキレイに撮れていた。
私達はいつの間にか、ソファをおり、カーペットに座り込んで、レオを狙って夢中で写真を撮った。

「白髪」
「そうなの、レオはおじいちゃんだから、白髪になったの。黒猫も白髪になるんだよ」

所々にまじる白髪。レオはおじいちゃんだ。

「あ~疲れた」

玄関から、声が聞こえ、私は慌てた。
すっと立ち上がって、服を直した。
リビングに顔を出したのは、お父さん先生だ。診察が終わって家に戻ったのだろう。
だとすると、私は、知らず知らずに長居をしてしまっていたようだ。

「なんだ、光星。居たなら、診察を手伝え」

肩に手をクロスして乗せ、首を左右に振る仕草を見せる。肩が凝ってしまったようだ。

「すみません。お邪魔しております。私が、無理を言ってしまって」
「黒川さんがいたんだね、いらっしゃい」
「違うよ、黒川が悪いんじゃない。俺が、診察をしないと言ったんだ。父さん、俺だって休みが欲しいんだ、いいじゃないか、今日くらい休んだって」

まずい、私が、来てしまったことで、ケンカになってしまったらどうしよう。
人が争うのはもうこりごりだ。大きな声も、言い争いも聞きたくない。

「別に、休んだって、いいさ。ただ言ってみただけだ。黒川さん、ゆっくりしていきなさい」
「いえ、もう、用は済みましたので」
「父さん、黒川からメロン頂いたんだ。食べる?」
「おお、大好物だ。悪いね黒川さん」
「いいえ」

お父さん先生も休憩で昼ごはんを食べるだろう。私は、そろそろ失礼することにする。
テーブルに広げてあったデジカメを袋にしまい、レオに挨拶する。
モデルになってくれてありがとう、そう言って、喉を撫でてあげた。
橘君の言っていた通り、レオはびくともしなく、ずっと寝ていた。まるでこの家の大黒柱のようだ。
モモはまだ、本調子じゃないけれど、活発に動き回る。人間同様、猫も年をとると、動かなくなるんだな。

「すみません、お邪魔しまして。失礼します」
「ああ、一緒に昼でも食って行けばいいのに。母さんが用意してあるから」
お父さん先生は、橘君と並んで台所に立っていた。二人して、あーだこーだと言いながら、私が持ってきたメロンを切っていた。
母親は、父親が仕事でいない時は飲み歩いていた。まともなご飯を食べたことがない。父親が仕事の時は、当然家にはおらず、食事は自分で作っていた。
おふくろの味など知らない。
橘君とお父さん先生が肩を並べて、台所にいてその背中をみると、私には、珍しく、羨ましい気持ちになった。
父親は、母親にも容赦なく、気に入らないことがあると、手を挙げる人だった。
何故、離婚をしないのか、不思議だったが、母親は依存度が高い人で、用は、金に困るのが嫌だったのだ。
貧乏だったわけではなかった。それが分かったのは高校生の時だ。ふとした時、父親の給料袋を見た。タクシー会社に勤めていた父親は、現金支給だった。給料明細を見ると、かなりの金額を稼いでいた。
真面目なのか、不真面目なのか分からない仕事の仕方をしていたのにも関わらず、稼ぎは良かったようだ。
その金は一体、どこに消えていたのだろう。当然、母親の飾り物に消えていたのだ。これだけの給料を貰っていながら、マヌケな母親は、サラ金までに手を出し、借金していたのだ。その返済もあったのか、金には困っていたようだ。
稼げない私にとって、最大の屈辱ともいえる、学校に必要な文房具や積立、給食費を滞納し、学校から手紙をよく渡されていた。
それが父親にばれた時、母親は家中を引きずりまわされ、髪を掴み、それは半狂乱な程に父親に殴られていた。
私は、ざまあみろと思い、助けることなく、布団に入り、本を読んでいた。
ただ思っていたのは、明日の朝、近所の人と顔を合わせるのが嫌だなということだけだった。

「いいえ、これで」
「待って、黒川」

一礼をして、玄関に行く私を、橘君が追ってきた。

「橘君、せっかくの休みなのに、今日はどうもありがとう」

私は、玄関で靴を履くと、橘君に向き直った。

「モモが元気になると、もう黒川に会えないのかな」

それはそうだと思う。偶然から同級生と再会したが、私にとって、それは何も感じないことだった。
学校は友達を作りに行くところではない。勉強をしに行くところだ。私のような境遇の人間でも、平等に与えられた教育、それが勉強だ。
いじめもあったことはないが、そういう目に逢ったとしても、それに向かい打つ刃が必要だ。それが、勉強だった。
出来ることに越したことはない。
常に冷静で、動じない。毎日、怒涛の中で生活していた私にとって、静かに過すことは、この上ない贅沢なことだ。
でも、橘君と出会ってしまったことで、人間のドロドロとした感情が私にも出てきそうで怖い。
嫉妬、怒り、妬み、嫉み。
現に、お父さん先生と台所に立つ橘君を羨ましいと思ってしまっている。

「健康診断くらいには来ると思います」
「うん。あと、近い所では避妊手術だね。二日間入院だからね」
「はい。ありがとう、じゃあ、お邪魔しました」

ドアノブを掴み、押し、ドアを開く。家の中の涼しさとは違い、ムッとした熱風が体を包んだ。
早く、夏が過ぎないだろうか。
暑さには強いと言われている猫だが、モモは、体も本調子ではなく、ご飯の食が進まない。
静かにドアを閉めると、自転車置き場に向かった。
日陰に止めてあったはずだが、日が傾き、日向になっていた。

「熱い」

サドルに手を当てると、熱くなっていた。此処にお尻を乗せたら、すごく熱いだろう。
仕方なく、少し自転車を押すことにした。
アパートへの帰り道、橘君に教えて貰ったデジカメの使い方を、頭で復讐した。
モモの姿を想像しながら歩く道は、暑さも忘れ、楽しかった。
モモを放っておいて、長時間留守にし過ぎた。
サドルを触ると、さっきの熱さは無くなっていた。
私は、自転車に乗ると、急いでモモの待つアパートへと向かった。

消毒にも通い、私が見ても、いい感じでモモは回復してきていた。
高級な毛皮にも負けないくらいの、柔らかいモモの毛。お腹に口をつけてぶぶっと息を吹くと、モモは手と足をぐいーんと広げて爪を出した。
ずっと見ていても飽きない。
モモが疲れてぐっすりと眠ってしまうほど、遊んだ。
モモは、いびきをかいた。初めは分からなかった。静かに本を読んでいると、ぐーっと聞こえた。その音を辿っていくと、その音を出しているのはモモだった。
抱っこも大好きで、一度抱くと、何も出来なかった。
たまたまテレビを観ていると、変った抱っこひもをしているお母さんが映っていた。
斜め掛けのハンモックみたいな形で、その中にすっぽりと赤ちゃんが入っていた。

「あ、モモは入るかな」

まだまだ片手で抱ける大きさ。モモだったら、この中でじっとしているかもしれない。
大学に入学すると同時に、念願の一人暮らしを始めた。
敷金、礼金を出してくれるはずもなく、何とか、大学の近くで下宿を探した。
学生課で紹介してもらう時も、下宿を選ぶ学生が少なくなって、紹介する下宿が少なくなってしまったと、職員は言った。
その分、悩むこともなかった。
その下宿には一年程いた。その一年の間にバイトでお金を貯め、アパートを借りたのだ。
その時にミシンを覚え、カーテンなどを縫い始めた。
それからは私の趣味になった。手芸は、いい。没頭できるし、達成感もある。自分で作った物だから愛着もわく。
ミシンを手始めに、編み物も出来る様になった。
私は、ネットでこの抱っこひもを探し、誰か、手作りをしている人はいないか探した。
すると、けっこう自作をしているお母さんもいて、作るのには事欠かなかった。
生地は、沢山ある。
私は、その中から、一つを選び、ミシンでモモの抱っこひもを作ってしまった。

「モモ、おいで」

軽々と、片手でモモを持ち上げると、私は、その中にモモを入れた。
モモは、もぞもぞとしていたが、しっくりくるようで、丸くなって落ち着いた。
これで動いても嫌がらなかったら、大成功だ。
私は、モモを抱っこしたまま、台所に行き、料理を始めた。
胸の少し下に入っているモモは、少し邪魔だったけれど、大人しく抱っこされていた。
私の生活の中心はモモになった。
ご飯の時間、管理、衛生。全てにおいて、モモが中心だった。
仕事から帰ると、モモにご飯を食べさせ、病院に行った。
消毒だけだったので、すぐに診察は終わる。
最近は、橘君ではなく、お父さん先生が診察している。お父さん先生によると、研修先の病院で勤務時間が長くなったそうで、この病院の診察は、出来ない状態になっているそうだ。
まあ、私にとってはどうでもいいことだ。
そんな橘君だが、モモのことはとても気にしてくれているようで、避妊手術は自分が執刀すると言っているそうだ。
私は、何の問題もなく手術をしてもらえればそれでいい。そう思っている。
エリザベスカラーと呼ばれる保護用具も付け、仕事に行った。
仕事中も気が気じゃなかったけれど、それもなれてくると、ずっと寝ていることが分かって、安心した。
橘君の言う通りにゲージに入れて置いて正解だった。
身体が回復したら、ゲージから自由にしてあげよう。それを目標に、通院した。

あれだけ暑い夏も、すっかり遠のき、空も空気も秋めいて来ていた。朝晩は冷え込むようになり、冷え症の私には辛い季節になった。
モモは、傷もすっかりよくなり、病院に行くこともなくなっていた。
体重も増え、手術に最適な月齢になり、避妊手術をすることになった。
お父さん先生には、「出来れば午前中に連れて来て欲しい」と言われていた。平日は無理なので、土曜日の今日、連れて行くことにした。
自転車のカゴにモモのカゴを載せると、風が冷たいと寒いだろうと思い、カゴの全部をブランケットで覆った。
モモは、カゴに入ると病院だと分かっている。病院にいくと、自分の身体が楽になると知っている。だから、暴れることなく大人しくしてくれる。
通いなれた道を自転車で通ると、街路樹の葉も沢山落ちていた。

「こんにちは」

顔をすっかり覚えた受付の人に挨拶をする。愛想笑いでもない、親しみのある笑顔でいつも迎えてくれる。そこは若い人とは違う年配の落ち着きなのかもしれない。
この人は、この病院に勤めて長いのだろうか。受付にも資格がいるのだろうか。人と接することが好きな人じゃないと勤まらないだろうなと、65そんなことを考えた。
待合室には、誰も待っておらず、週末の休みは午後が混むのだろうかと、そんなことを思った。

「黒川」

そう、名前を呼ばれ、診察室のドアが開くと、久しぶりに橘君が顔を出した。
私は、モモのカゴを持ち、呼ばれた診察室に入る。

「久しぶり」

そう声をかけてくれた橘君。本当に久しぶりだ。きっと忙しくしていたのだろう。

「ずっと、研修先でこき使われてた。モモはどうしているか気になったよ」

瀕死の状態から救ってくれたのは、橘君だ。気にしてくれたのだろう。

「モモのご機嫌はどうかな?」

そう言われて、診察台の上に乗せておいたカゴの蓋を開ける。
モモは、ロックを外す音に反応して、上を見る。
私は、モモを出して、カゴを自分の足元に置いた。

「どれどれ」

橘君は、モモの様子を、身体を触って確かめ、体重計にもなっている診察台でモモの体重を計った。

「お、いいね。順調に体重が増えてる。じゃあ、このまま預かるよ。手術はお昼。明日のお昼頃に迎えに来て」

なんだか、淡々と、いや、軽々しい口調で簡単にいう。私にとっても、モモにとっても手術となると大事なのだ。人間だって、子宮を取るという事は、並大抵のことではない。意志を伝えられないモモは、もしかしたら、拒否したいのかもしれない。それを、私は、自分の意志で勝手に避妊手術をするのだ。モモには申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
産まれて、まだ4か月も経っていない赤ちゃんなのに、大変な思いをするのだ。
私は、橘君の口調で、連れて帰りたい気分になってしまった。

「ごめん、事務的に話しちゃって。獣医になってもう何匹もこうした手術をしてきたから、感覚がマヒしちゃったのかも。いや、俺は、大事な思いやりを言葉に乗っけてなかったんだ。ごめん黒川」

感情を顔に出してはいけない。そう思っていたのに、つい出てしまったのかもしれない。
これからお願いするのに、申し訳なかった。
そう感じて、私は、首を振った。
暫く、モモを挟んで沈黙が続いた。

「黒川、凄いひっかき傷だな、ちょっと待ってろ」

橘君は、私の手の甲を指でさして、診察室を出て行った。
すると、何かステンレス製のバットを持ってきた。
カチャっと冷たい金属の音がした。
向い合せに座っていたが、橘君は私の隣に椅子を移動して、座った。
そして、私の手を持つと、ピンセットでコットンを挟んだ。

「ちょっと沁みるかも」

モモの爪を切ることが出来ずにいた。まだ、透明で、柔らかなモモの爪。肉球をつまみ何度も挑戦したが、切ることが出来なかった。
モモとじゃれて遊び、噛まれたり、ひっかかれたりして手には傷が絶えなかった。
橘君は、傷に消毒をしてくれた。
少し、消毒薬が渇くと、軟膏だろうか、それも塗ってくれた。

「ありがとう」
「爪が切れない?」

診察台に大人しくして、丸くなっているモモを撫でながら言った。

「切り方を教えてあげる」

そう言って、橘君は、診察台にあった、ペンチのような形の爪切りを手に取った。

「いい? こうして」

そう言いながら、モモをうつぶせにして、上から覆いかぶさるようにモモの身体を覆った。
次に、前足の肉球をつぶすと、爪が飛び出た。

「うっすらと、血管が見えるだろ? そこまでは切ってもいいから」
「うん」

私は、乗り出して爪を切る様子を観察した。
パチン、パチンと軽快に切っていき、モモは暴れることなく、全ての爪を切らせた。

「もともと、猫は足を触られるのが好きじゃない。それに肉球は敏感だ。切れないのも無理はない。遊んだり、抱っこしたりするときに、肉球を触る癖をつけるといい。そうすると、触られることになれて、爪を切らしてくれるようになるよ」

そうなんだ。爪を切ることは対したことではないと思っていたが、生き物は奥が深い。

「それでもダメな場合は……ココに来て。一回500円だから」
「ぷっ……」

思わず笑ってしまった。お金を取るのは分かっていたけれど、以外と商売上手だということに、私はおかしくなってしまった。

「黒川……今、笑ったよね……もっと、笑って……」

そう言って、橘君は私の頬を両手で挟んで顔を上に向けた。
正直、びっくりした。
何が起こっているのか理解できない。目の前にあるのは橘君の顔で、その顔は真剣な表情をしていた。
身体が固まって動けなかった。
私は、他人に触られたことがない。
心臓が大きく鼓動を打って、発作でも起こしそうだ。

「こんなとこも」

やっと手を離してくれた。でも、その手は私の鎖骨をさした。
モモを抱っこするとき、モモは私の首筋に上る。首筋と髪の間に顔を埋めるのが好きなのだ。そして、手をモミモミとする。その仕草が可愛く、多少の爪の痛さは我慢していた。

「あ、俺、医者だから。獣医だけど」

きっと、手ではなく、鎖骨という微妙な部分を触るので、橘君はそう言ったのだろう。
私は、前に下がっていた髪を後ろに持って行き、治療しやすいようにした。
橘君の顔が近くにあり、恥ずかしい。
手と同じように軟膏まで塗ってくれた。

「ずいぶんと引っかかれたね。これでよし」

そう言って顔を上げると、私との顔の距離が異様に近かった。

「あ、お、俺、医者だから、あ、獣医だけど。別に、厭らしくは思ってなくて、えっと」

目が合ってしまったことが、恥ずかしくなった。
だから、顔を上げたくないのに、目が合ってしまった。
慌てて言い訳する橘君に悪い気がして、私が先にお礼を言った。

「ありがとうございます」
「あ、いえ、どういたしまして」

そんなことをしている私達を余所目に、モモは大人しく待っていた。

「ごめん、ごめん、モモ。黒川、モモを預かるよ」
「よろしくお願いします」

モモの頭を撫でて手術の成功を祈る。
どうか、無事に終わりますようにと。

「絶対に大丈夫だから、俺にまかせて」
「はい」

橘君の病院に連れて来たのだ。橘君を信じている。
橘君がモモを奥に連れて行く。チラリと見えた手術台。あそこにモモは乗るのだ。
人間でさえ、怖いのだ。モモもきっと恐怖だろう。
家に無事帰ってきたら、モモの好物となった、まぐろの刺身、それもとびきり新鮮なまぐろをあげよう。
来るときには重かったカゴも、帰るときには軽い。
一人が寂しいと思ったことはない私だが、モモが来てからは人恋しいという感情が出てきた。
アパートに1人いる寂しさを考えると、どうしていいか分からなくなる。
仕事も休みだ。きっと、迎えに行くまでの時間も長く感じるだろう。
そう思って、私は、少し憂鬱になった。
何となく暗い気分でアパートに帰ると、更に気分が悪くなった。
アパートの前に、厄病神一号の車が停まっていたのだ。
そこからは、私の全身が硬直する。そして、自分に言い聞かせるのだ。
何があっても目をそらさず、体全身で受け止める。そして、けして、怖がって避けたりしないこと。
それは、すぐに手を挙げる父親に対する、私の反抗だ。
視線を合さずに、アパートの自転車置き場に自転車を止める。
すると、車のドアを閉める音が聞こえ、私の名前を呼んだ。

「茜」

その呼びかけに私は、立ち止まった。

「なんだ、どこに行ってたんだ? 母さんから聞いたが、猫を飼い始めたんだって? 全く金食い虫なんか飼いやがって」
「あなたに関係ない事よ」
「なに!?」

やはり、短気な父親は、拳を作って腕を振りあげた。一瞬体が硬直するが、ここはがんばり所だ。父親に分からない程度の震えが足元に来ている。だが、大丈夫だ。
私は、もう子供じゃない。それに私には、厄病神に迎え撃つ刃を持っている。

「いつまで暴力を振るうつもり? お金が欲しくないの? その手を下げなさい」

私は、少々ドスを効かせた低い声でそう言った。自分でもそんな目つきが出来るのだと不思議な程、きつく見返した。

「あ、いや、ここの所天気が悪くてなあ、水揚げが悪かったんだ」

ああ、夏特有のゲリラ豪雨や台風ね。この夏は、どれくらい仕事にでたのだろう。どうせ休んでばかりで給料がないのだろう。天気が悪い日は仕事に出ない、だらしのない人だ。
私は、財布から、一万円を二枚取出し、道路に置くと、それを足で踏んだ。

「どうぞ」
「あ? ああ、ありがとう、悪いなあ」

そう言うと、馬鹿な父親は、跪いて私の足の下にある札を両手で丁寧に引っ張った。
ざまあみろ。私は、もう既に両親に対して、感情も何もない。血も涙もない冷血漢となっている。そんな姿を見ようとも、高笑いしか出ない。
私という人間をどう言ってくれても構わない。育った境遇を経験すれば、きれいごとを並べる人間も、きっと、同じことを思うに違いない。こんな両親でも健気に生きている人間はマンガやドラマの中だけだ。
私は、この男のサンドバック代わりだった。

「ねえ、あなたを殴らせてくれたらもっとお金を挙げてもいいのに」
「茜……それは、その……」
「自分の身体を使って稼いだら?」

私は、自分でもぞっとするような事を言っていると思った。
父親は、自分がしてきたことを少しは悪いと思っているのだろうか、私が言い放った言葉に愕然とした顔を一瞬のぞかせた。
静かに、怒らせないように暮らしていれば、「辛気臭い」と殴り、ご飯を食べていれば、「ただ飯ぐらい」と殴られた。
私は、何度も、大好きだった祖母の墓に行き、迎えに来て欲しいと泣いたことか。
あの優しく、慈愛に満ちた祖母から、どうして、悪魔のような母親が生まれ、育ったのか、私の七不思議の一つだ。

「さっさと消えて、目障りだから」
「ああ、悪かったな、じゃあな、ありがとな」

腰を低くして、金を両手で頭の上に挙げ、私に礼を言う。顔も見たくないが、なんと気持ちがいいことか。
こんなに気分が悪くても、帰れば玄関に迎えに来てくれるモモが今日はいない。
この気分を酒で紛らわしたいが、昼から、モモの手術だ。そんなことは出来ない。
アパートに入ると、鍵を閉め、チェーンをかける。
私は、いつもの場所にモモのカゴを置くと、テーブルに座り、パソコンを開いた。
いつも必ずチェックするのは、投資情報だ。
社員であっても、工場で働く私の給料はたかが知れている。それに、給料日を知っている厄病神は、交代で金をせびりに来る。ボーナスには手を付けない。それだけは私の信念だ。
そうしなければ、一人で生きている私には、支えになってくれる安心材料がない。
それに、今は、モモがいる。モモも為にも貯金を始めた。毎月決まった金額を貯金している。保険の効かない動物の病気。それに対応するためだ。
親に金を渡せば、私も生活が苦しくなる。
私は、経済学を学んだ。だが、こうした投資は、大学の勉強位ではどうにもならない。金は毎日動く化け物だ。投資雑誌を買い、ひたすら勉強した。
損の連続だった。自分に無理のない金額で投資を始め、やっとここの所、損から脱却した。
投資をすることによって目標が出来た。
それは、「家」を買う事だ。
そして、あの両親と絶縁をする。夫婦のように離婚して、戸籍から離れることができない親子関係。それは仕方がない。だが、連絡を一切断ち切ることは可能だ。
私は、父親が年齢的にもう仕事が出来なくなる時に、絶縁をするつもりだ。それが私の復習だ。
怖い女だと思う。中にはいるだろう、「どんな事があっても親なんだから、話せばわかる」という偽善者が。
そんな生優しい物じゃない。私は、高校卒業までにかかった費用を算出した。
碌に食事も作って貰えなかったが、材料はあった。それを食べていたのは確かな事だ。
給食費、積立と小学校から、中学校までどれくらいかかったのかと、大体だが、調べて計算した。
一番高かったのは制服代だったが、それは買って貰えたので、一応感謝する。
高校では、一切学業に関係する費用を貰っていなかったし、逆に、バイト代を渡していた。
お小遣い帳はつけてある。いくら渡したのかもしっかり記載してある。
どんなことがあっても戦える。恐喝だと訴えたっていい。今の私にはそれだけの知恵と力があった。
モモがいると、何かと遊んでしまっていた。
いけないなあ、と思いつつ、あの目で見られると、つい、甘くなってしまう。
モモのいない昼下がり。いつものように、掃除と洗濯を済ませ、昼を食べる。
ちらりと時計を見て、そろそろモモの手術が始まるな。と思った。
橘君、どうかモモをお願い。私は、思わず、両手を合わせ祈る。
じっとしていると嫌な事ばかり考えてしまう。私は、録画してあったドラマと映画を観ることにした。
今回のドラマはどれも面白い。恋愛ものもコメディでなかなか笑えた。
私は、恋愛感情を持ったことがない、故に、初恋と言わるものも体験したことがない。人に興味がないのだ。関われば嫌なこともある、一人が一番気楽でいい。
ただ、アイドルや、タレント、俳優で好きな人はいる。恋愛感情では全くないが、それが異性を好きな感情と言うならば、初恋なのかもしれない。

「あ~眠い」

モモより緊張していた私は、昨日も夜更かしをしてしまい、なかなか寝付けなかった。
昼ごはんも食べ、お腹も一杯になると、自然現象で、眠たくなった。
横に転がり、テレビを観ていたが、いつの間にか、眠っていた。

「はっ……何? びっくりした」

殆ど鳴らない携帯が鳴り、私は、びっくりして飛び起きた。

「えっと、どこにあったっけ? 眠っちゃった」

音のする方に行き、病院に行ったとき持って行ったバッグを探る。

「あ、病院」

モモに何かあったのだろうか、私は、慌てて通話ボタンを押した。

「もしもし!」
『ああ、俺、橘だけど』
「はい、モモがどうかしましたか?」
『いや、無事に終わったよって報告をしようと思って』

良かった。何事かと思った。わざわざ病院では、こうして電話をしてくれるのだろうか?

『黒川?』
「え? ああ、ごめんなさい。ほっとしちゃって」
『腰でも抜けた? モモは術後の麻酔もとけて、今は寝てるよ。明日の昼に来る?』
「あ、はい」
『そう、じゃあ、準備しておくよ』
「ありがとうございました」
『よそよそしいよ、ははっ』

だって、モモの主治医さんだから。
電話だと話さなくてはならない。どうしていいか戸惑ってしまう。
いつも橘君と話をするときは、橘君が私の感情を読み取って会話が成立していた。だけど、電話だとそうはいかない。
暫く沈黙が流れ、私は、切った方がいいと判断した。自分から切るのは好きじゃない。出来れば橘君から切って欲しかった。

「あの……じゃあ、明日」
『うん、明日な』

そう言って、私は、耳元から携帯を外して、電話を切った。
いつもと違う橘君の声が、まだ、耳元に残っている。
どんな顔をして電話をしていたのだろう。
おかしい、会って話をしているときは、常に下を向いているのに、電話の会話では顔の表情が気になるなんて。
持ってはいけない感情が、私の心に芽生え始める。
本当に近づくことは危険だ。
橘君は同級生に逢えたと思って懐かしいだけだ。私は、同級生の認識すらなかった。
モモの病院通いも、この手術が最後で暫く行かなくなる。
あとは、健康診断として、年に一度くらい行けばいいだろう。
家が近いことが不安材料だが、この土地に越してきて、モモを拾うまで、橘君とは偶然でも会わなかったのだ。これからも街で出くわすことはないだろう。
橘君みたいにいい人は、私みたいな人間と関わってはいけない。負の悪魔の連鎖は、私で食い止めなければならない。あの厄病神が生きているうちは。