『一緒に参加できると思っていた文化祭。君は、いつも裏方で接点を結ぶことが出来なかった』

クラスで、お揃いのTシャツを作り、一団結をして成功させようと、実行委員が頑張っていた。くだらないとも思わなかったが、そこまで燃える物があって羨ましいと思った。私は、冷めていた。

『いつも一人で誰ともしゃべらず、交わらない君が、気になって仕方がなかった』
『二年になると、僕は一人でいる君を理解したいと思うようになった』
『そうは思ったけど、君と友達になりたいと思ったし、作ってやりたいと思った。でもやり方が分からなかった』

友達はいらない。いて何の得があるのだろう。でも、それは私の望みじゃなかったはずだ。私と、友達になったりしたら、どうなるか。それが怖かったのだ。まだ子供の頃はいい。でも、金の匂いに敏感なあの二人は、きっと私に友達がいたら、いいカモと思うに決まっている。
それを避ける為に私は、一人になった。

『だけど、それは僕のエゴだとわかった』

この時、初めて時間が戻せるならと思った。
私には、過去も未来もない。今しかなかった。望みを持ってはいけない。それが私だった。
こうして毎月はがきを送ってくれる橘君は、寂しくないだろうか。落ち込んだりしていないだろうか。北海道は夏が短い。このはがきを書いたときはもう雪が降っているかもしれない。

「モモ、健康診断よ」

年に一度健康診断を受けてと橘君に言われていた。だけど、今年の夏は猛暑で、とにかく家から出られなかった。
夏に健診予定だったけれど、少し遅くなった今日、連れていくことにする。
健康なモモはすっかり病院から遠のいた。
寒く無いようにとバスタオルで包み、自転車で病院に向かう。

「こんにちは」
「こんにちは、モモちゃんは元気ですか?」
「はい、お陰様で。今日は健康診断をお願いします」
「はい」

いつもと変わらない受付の女性は、にこやかに話しかけてきた。
あの時、とても困った顔をさせてしまった。彼女には笑顔がやっぱりにあう。
待合室は、犬とリードで繋がれ、猫は怯えた様子でカゴに入っていた。
人間と同じで、猫もイヌも病院は嫌いだ。

「黒川さん」

診察室から名前が呼ばれた。お父さん先生だ。当然だ。橘君はいないのだから。

「はい」

モモのカゴを持って、診察室にはいる。

「こんにちは、どうかな? モモちゃんは元気かな?」
「はい、何とか。でも、ちょっと太り気味でしょうか?」

モモは日増しに大きくなり、甘やかしてばかりの私は、ついおやつをあげてしまう。
診察台で体重を測ると、4キロちょっとあった。

「う~ん、そんなに気にするほどじゃないけど、お腹がふとっちょさんだね」
「はい」

モモは、スタイルが良かったはずなのだが、大きくなるにつれ、お腹周りが中年太りのおじさんの様になってしまっていた。

「避妊手術をすると、肥満になりやすいから、運動とご飯を考えてね」
「はい、わかりました」

お父さん先生は、順に色々と検査をしてくれていた。
すると、先生はモモをあやしながら、橘君の事を話し始めた。
「光星はね、私よりいい獣医になるとおもうよ」

先生と言うよりも、お父さんとして私に話をしている。

「レオがね、死んだんだよ」

あの花の座布団の真ん中にふてぶてしく寝ていたおじいちゃん猫だ。橘君はとても大事にしていた。
私は、涙が溢れ、どうしようもなかった。拭う事も忘れ、先生を見つめた。

「レオの為に泣いてくれるのかな? 君の涙はとても綺麗だ。君の心には嘘がないね」

レオが死んだことは知っているだろうけれど、最後に会いに帰ってこられたのだろうか。落ち込んでいないだろうか。それが心配だ。

「もう年だったからね。大往生だよ。特に苦しむことなく、静かに息を引き取ったんだ。光星も慌てて帰って来てね。あいつ、声を出して泣くんだ。子供の頃から感受性が豊かで、すぐに相手の感情を持ってきちゃうところがあったから、命を扱う獣医には向かないと思っていたんだが、でも、やっぱりそうした優しい所があった方が、動物の医者にはひつようなのかもしれないと、私は思うようになった」

先生は、泣き止まない私にティッシュの箱を前に置いてくれた。
モモは傍で私が泣いているのをじっと見ている。

「何かあったと思う。急に北海道にいる先輩の所に修行だと言って出て行った。獣医の勉強をしたいと聞いてはいたが、はっきりと決まっていない内にそうしたんだ。初めは清掃係りだったそうだ。今でも、清掃係りの仕事をしながら、動物を診察させて貰っているそうだよ」
「頑張っていますね」
「これをね、見せようかどうしようか迷ったんだが、やっぱりみてもらうことにするよ」

そう言うと、先生は、モモのカルテの一番後ろを広げて、私に見せた。そこには、はがきに書いてくる字と同じ字体の文字が並んでいた。橘君だった。

”彼女は自分からしゃべったりしないし、答えもないかもしれない。でも、とても頭のいい人だから、何度も言ったり、返事を聞かなくたりしなくてもちゃんと理解している。俺の大切な人だから”

そう結んであった。

「親ばかだね、私も。北海道に発つまで、まるで元気がなくてね。いい大人の男だ、私が聞く事ではない。だが、知ってしまってね」

きっとそれは、賭けの話しだろう。
どういう付き合いをしていたなど知らないだろうけど、親なのだ、子供をよく見ていて当然だ。また、私は、羨ましい気持ちが出てきた。

「帰って来た時には、光星に許しを請う機会を与えて欲しい。悪いね、甘い父親で」
「いいえ」
「女性を泣かせてしまって光星に起こられてしまうな。あ、光星だけじゃなく母さんにも。ははは」
「すみません、長居をしてしまって」
「いや、いいんだよ。光星の代わりの研修医を入れているから、ゆっくりしていきなさい」
先生は、診察室を出て行き、一人にしてくれた。
今すぐに出て行っても、目が赤くて人に見られたくない。かといって引くまでには時間が掛かる。
深呼吸をして、バッグから化粧ポーチを出す。
手鏡をみると、やっぱり目は真っ赤だった。
軽く、ファンデーションを塗り、アイシャドウを引く。少しは、ましになった。
診察室でごめんなさい。そうモモと謝った。
こういう時の長い髪は役に立つ。なるべく顔が隠れるように髪を前にたらした。
診察室のドアを恐々開けると、誰もいなくてホッとした。
待合室に座ると、受付の人が、神妙な顔で近寄ってきた。

「黒川さん」
「は、はい」
「あの時、あれから、光星先生に話したんです。紙袋は渡さなくちゃいけないし、それはどうしたのかと聞かれて嘘がつけないし、ごめんなさいね」

受付の人は佐藤さんと言うらしい。いつも名札が何かに隠れていて見えなかった。今、こうして、対面で話をする機会があってよかった。お世話になった人だから。
佐藤さんは、本当に申し訳なさそうな顔をしていた。

「いいえ、私も面倒なことをしてしまって」
「光星先生、もう見ていられませんでした。あの時、待合室にいたのは同級生だそうです。高校の。何処かに出かける予定だったそうで、待ち合わせ場所が、ここだったようです」
「そうですか」

ということは、私のクラスメイトでもあるのか。全く知らなかった。

「いつものように明るく診察をしていましたが、どこか上の空で。それは深い落ち込みようでした。あの時の同級生もとても気にして、黒川さんに自分たちが説明をしに行くと言っていましたが、光星先生が止めていらっしゃいました」

すでに私が、賭けの話しを聞いていたことを橘君は知っている。でも当事者でなくてもその中に居たという事で、自分を責めただろう。それだけで十分だ。私なんかの為に自分を責めないでほしい。
はがきが届くようになり、私は、橘君に会いたくて仕方がない。
それはもう自分で分かっている。
同級生じゃなく、一人の男性として、橘君を好きなのだ。
橘君が私をそう言う対象として見ていなくてもいい。私は、自分の気持ちを伝える気はない。ただ、正直になりたいだけだ。

「私のことで、色々な方に迷惑をお掛けしました」
「いいえ、光星先生は少し頼りない所もあるけれど、すぐに感情移入してしまう優しい先生です」
「そうですね」

なんだか、病院総出で私と橘君の中を取り持とうとしているようだ。ケンカをした訳じゃない。でも、皆から愛されている橘君は幸せ者だ。
泣き顔が恥ずかしかったが、会計を済ませ、病院を出た。
『自分の価値観で可哀想だと思っていることに気が付いた』

次のはがきはこう書いてあった。
私に向かう言葉で一番多かったのは、この可哀想だった。
私は可哀想なんかじゃない。いつもそう思っていた。周りとつるみ、一緒に居ることがいいことで、一人でいることは可哀想なのかと、怒ったものだ。
お父さん先生から色々と話を聞いた後で、橘君のはがきを何度も読み返すと、また違った感情にもなる。
日増しに人間らしい温かな感情が、私をつつみ穏やかな日を過ごしていた。
送られたはがきをテーブルに並べて読み返す。それも毎日何度も。
はがきの動物はあと何種類あるのだろうか。
そんないい気持ちでいる時に、あの母親がやってきた。
乱暴にチャイムを鳴らし、ドアを叩いた。

「何? 近所迷惑でしょ?」
「茜、茜、お父さんが死んじゃったのよ」
「は? とにかく入って」

家の中に一度も入れたことはなかったが、仕方がない。

キッチンがある所まで入れた。それ以上はモモが怖がる。不思議なことに、モモは二人が来ると、唸ってベッドの下に隠れた。やはり性根の腐った二人のことは、動物にさえ嫌われるのだ。

「お父さんが、死んじゃった……」

あれだけ暴力を振るわれていたのにもかかわらず、これだけ泣けるのだ。どういう感情の持ち主だろう。
だけど、私は、全てを捨ててやり直したい。もう、暗く下を向いた人生はまっぴらだ。

「それで? 私にどうしろっていうの?」
「どうしろって……お父さんよ?」
「どうせ、お酒の飲み過ぎで心臓にでもきたんでしょ? 自業自得よ。それに父親だなんて思ったことは一度もないわ。あの人に流す涙はないの、私はあの人のサンドバッグだったんだから」
「茜」
「あなたもそうよ、母親だなんて思ったことはないわ、この金食い虫。私の猫に言った言葉をそっくりお返しするわ」
「ど、どうしたの?」

いつも話さなく、反抗しなかった私が、反撃に出て、そうとう戸惑っている。この時をまっていたのだ。

「今日だって、報告じゃなくて、葬式代の無心にでも来たんでしょう? 悲しみに暮れる女の演技はさすがだわ」
「……」

私は、ちゃんとまとめてあったノートを引き出しから持ってきた。

「よく見なさい。あなた達が私から巻き上げたお金が全て書いてある。こんなに貰っていないと言わせないために、日付と時間もちゃんと書いてあるわ」

ノートを渡すと、母親は、一心不乱にそのノートを捲った。

「初めは、高校一年の5月。それは、新聞配達を始めて、初めての給料よ。そこからずっと今までのもの。それにここ、ここは、私が、小学校からかかったと思われる、給食費とか。口癖のように言っていたわよね。誰のお陰で飯が食えている。誰のお陰で学校に行けている。って。それをざっと計算しても、十分すぎる程お金は渡したわ。見れば一目瞭然でしょう? 知ってるわよね? 私は、頭がいい事。あなた達なんか私の足元にも及ばないの」
「こ、こんなに……」
「いつもおばあちゃんが私に謝っていたわ。なんであんないいおばあちゃんからあなたみたいな碌でもない女が生まれたの? 世界の七不思議ね」

母親は、ずっと、ノートを捲ってひたすらに数字を追っていた。
「ずっと聞きたかった事があるの。なんで私を産んだの?」
「そ、それは……」

すぐに言葉が出ては来なかった。そんなことだろうと思ってはいた。だから、特にショックでもなかった。

「言えないなら私が代わりに言ってあげる。快楽で子供を作って、出来たら困った。でもおろすのは人殺しのようで気が引けた。幸いにして、若い母親がいる。面倒を見て貰えばいい。だけど、誤算があった。おばあちゃんは予定外の速さで死んでしまった。自分の時間が、やりたいことが、お金が全て娘に取られるのは我慢がならない。だから育児放棄した。そうよね」
「茜……」
「これでも、感謝はしているのよ。何もしてくれなくても戸籍があり、名前もある。両親の名前がある。学校にも行けた。でも全て義務的な書面での感謝よ。あなた達がこの世にいるだけで、虫唾が走るわ。離婚の様に母娘は縁が切れない。でも絶縁は出来る。そのノートのコピーがこれ、これを持って行きなさい。ノートは私が保管する。今後一切私に近づく事があれば、これを証拠に脅迫で訴える。覚悟しなさい。これが、あなた達二人が私にしてきたことへの罰よ」

既に母親は何も答える事が出来なかった。
今のこうした状態を見たら、橘君は幻滅するだろうか。いやする。当然だ。橘君の前ではこんなに激しい部分を見せたことがない。
普段の私は、怒る言う感情はない。常に穏やかにと心がける。
でも、お父さん先生の話、受付の人の話しを聞き、私は、前に進むと決めた。それには、断ち切らなくてはならないものがある。

「お母さんはこれからどうすればいいの?」
「だから、お母さんって誰よ。ただ産んだだけでしょ? 私だって出来るわ」
「お父さんが死んじゃって……」
「あなたのお得意の泣き落としで、妾にでもなれば? 一番お似合いよ。私は、この時を待っていた。いいたいことは沢山あるけど、もういいわ。自分の口が腐ってもいい、それくらい憎々しい言葉であなた達を叩きのめす。それだけを思って生きてきた。もう、私の人生に入り込まないで、帰って!! いい? もう一度言うわ。絶縁よ、二度と顔を見せないで。何処でのたれ死のうが知ったことではないわ、さようなら」

いつまでも動かない母親を、服を掴み、引きずりだした。靴を叩きつけ、ドアを閉めた。
やっと、これでやっと自分の人生が始まる。もう、あの人たちの陰に怯えずに暮らせるのだ。
ノートを見た母親の顔。流石にあれほど持って行っていたとは思ってもみなかったのだろう。私も計算をしたとき、びっくりした。楽にマンションの頭金になる程だった。
こんな性悪女は、橘君に好かれる資格もない。会いたくて、会いたくて仕方がない、そう思った初めての人だ。初恋は実らないという。私は、一生恋など実らない。
この思いを胸に秘め、前に進むのだ。
『近づきたい僕は、修学旅行を楽しみにしていた』

次のはがきはこう書いてあった。
父親が死んだと聞き、私は、会社に忌引き休暇を申し出た。もちろん、葬式があるのか、いつやるのかなど全く興味はない。もうとっくに葬儀は終えただろう。だが、申請できるのだから使う手はない。
父親なので、一週間の休みが取れた。だが、有給もたまっていた私は、「所用もあるので」と言って、更に一週間の休みを取った。
クリスマスの日、橘君が私に修学旅行で買ったと言って、シーサーのストラップをくれた。
今でもそれは家の鍵についている。

「黒川に見せたい所が沢山あったよ」

そう言った、橘君。私は、思い切って、休みを利用して沖縄に行くことにした。
二泊三日の予定だ。修学旅行は一週間だったけれど、モモもいることだし、そんなには留守に出来ない。
冬のこの時期に沖縄とは、自分でも笑ってしまうが、泳ぐわけでもないので、いいだろう。
ホテルは少しグレードアップして、海が見える部屋を取った。

「モモ、ごめんね。先生の所で泊まってね」

少し心配だが、橘先生のところだから安心だ。
もう、私は、人生に悲観した女じゃない。この沖縄旅行から生まれ変わるのだ。夢を探し、やりたいことを見つける。
きっと、今よりは少しいいことが待っているはずだ。
当然、罵倒してしまった母親の報いは受ける。それも覚悟でああ言った。
あんな両親をもっている子供は世の中に沢山いるだろう。そのかなでも健気に明るく生きている子たちもいるだろう。
そこに私は入れなかった。全て心が弱かったからだ。人と付き合うことを避けたのも、自分にあの両親がいることを知られたくない弱さからだ。私という存在を無視してくれれば、家族のことも気にならないだろうと考えた。
それに、もっと恥ずかしかったのは、いつもちゃんとした服を着せてもらえなかったことだ。子供なりに女だった。
近所のおばさんが、文房具工場で働いていた。そこは、夏祭りで、クレヨン、絵の具、シャープペン、ボールペンといった福袋を配ってくれていた。
その袋を毎年、持って来てくれていた。同じ歳の子供がいたから、私の情況を知っていたのだろう。私は、夏が楽しみだった。
まだ、正月休みにも、冬休みにも、クリスマス期間にもならない時期の沖縄は、旅行代金が安かった。
旅行には何度も行った。狭いと思っていた日本だが、以外と広いとも感じることができた。
朝の飛行機で沖縄に飛ぶ。那覇の空港に着くと、本土よりも当然だけど温かかった。
東京から来ていた服を脱ぎ、トランクにしまう。ゴロゴロとトランクを引き、タクシー乗り場を目指した。
運転免許を取ろう。そうだ、先ず、第一歩はそんな小さなことからでいい。こうやって車なしでは移動ができない沖縄などの土地で旅行をするなら、運転免許は必須だ。
旅行会社で予約した旅行は、那覇から車で一時間ほど離れたリゾート地だ。そこに行くまでは、アメリカ、それも米軍の色濃く、日本ではないような感じを受けた。大きな基地もあり、沖縄の人たちは、こうしたなかでずっと暮らしてきたのだ。
ホテルに着き、フロントで、チェックインの手続をする。
ホテルの正面に入ると、目の前には海が広がっていた。
正面は全部ガラス張りになっていて、海が全面に見渡せた。
一気に開放的な気分になった。
家具も南国ムード漂う籐家具がメインで、貼ってある生地はアロハシャツの模様のようだった。
同じ日本とは思えない雰囲気に、パスポートが無くても海外に来たと思わせる場所だ。
修学旅行で来ていたら、こんな観察眼や感覚もなく、友達とワイワイ騒いでいただけだったかもしれない。大人の今、こうして沖縄に来ることが良かったのかもしれない。
ロビーには、ぽつぽつと旅行者もいたが、コーヒーを飲みながら本を読んでいる人、これから帰る人と色々だった。
「黒川 茜様でございますね」
「はい」

パソコン画面で何か確認すると、宿泊表の記載を提示される。
備え付けのボールペンで必要事項を書くと、フロントマンは施設の説明をしてくれた。

「それと、お部屋でございますが、いつもこちらの旅行会社さんにはお世話になっておりますので、もう一つ別のお部屋をご用意させていただきました」
「え?」
「海の見えるお部屋のご予約ですが、その部屋の上階です。海の眺めも格別に違いますので、ゆっくりとご寛ぎ下さいませ」
「それは、ありがとうございます」

優しさのかけらもないようなことをしたあとで、いいことなど起こるはずがないと思っていたが、違ったようだ。
案内された部屋に入ると、目の前に海が広がっていた。

「わあ」

と思わず声を出すと、私のトランクを持って案内してくれたベルボーイが話し掛けた。

「この時期は海には入れませんが、波打ち際を歩かれたらどうでしょうか。砂がサラサラで風も気持ちがよろしいと思います」
「ええ、そのようですね」
「つかの間の休息をどうぞ」
「ありがとうございます」

そう言って、ベルボーイは部屋を出て行った。
シングルの部屋だったが、ダブルに代わっており、部屋も広かった。
籐家具のソファと、天版がガラスのテーブル。ベッドは大きなヤシの木の柄のカバーが掛けてあった。まさに南国といった感じでいい。
繁忙期の前で予約も少なかったのだろうが、私は、好意と素直に受け止めた。
着いてすぐに出かけるつもりだったが、海を見ながら少し休憩をすることにした。
短い期間の旅行の為、細かく予定を立てていたが、やめた。沖縄にはそういったいそいそとする時間は似合わない。
ルームサービスで、コーヒーと軽食を頼み、トランクから本を取り出す。
窓を開けて波の音を聞きながらの読書は、格別だ。
沖縄は時が止まったようだった。何度もみる時計は時間が進んでいない。
橘君は私に見せたい場所が沢山あったと言った。
旅行のしおりなど当然残していないけれど、ガイドブックに載っているようなところは回っただろう。
短い期間の旅行だ。主だった所だけを回ることに決めていた。
小腹も満たすと、なんだか本を読む時間が勿体ない気がして、ガイドブックとショルダーバッグを持って海にでることにする。
モモを写す為にと買ったデジカメでホテルからの景色を撮る。
ロビーから外に出るドアがあり、そこから外に出ると、屋外プールがあった。直線ではなく、くねくねと曲がりくねった形をしていた。泳ぐ目的ではないようだ。
階段を下ってプールの真ん中を突っ切ると、海に出た。
看板は、「遊泳禁止」と立てかけてあった。
だけど、ビーチパラソルとボンボンベッドが置いてあって、ホテルの宿泊客が何名か寝そべっていた。
首都圏からくると、強張っていた体が、沖縄の温かさに緩み喜んでいるようだ。
私も開いているベッドに座って、海を眺めた。
橘君が私に見せたかったと言った景色は、今、私が見ているのと同じだろうか。
北海道にいる橘君と私は今、日本の端と端にいる。
朝早い便で沖縄に付き、遅い便で東京に戻る。少々高い旅行代金となってしまったが、短い旅行期間を満喫するにはそれしかない。
ガイドブックをペラペラと捲って、おススメのレストランを探す。
沖縄に旅行に行くと決めてからは、毎日このガイドブックを見て目ぼしい所に付箋をつけた。
でも、実際来てみると、せわしなく観光をするのが嫌になってしまった。
どうしても見たかった首里城と水族館を廻り、あとはホテルでのんびりチェックアウトまで過ごそうと決めた。
「お客様、何かお飲みになりますか?」

銀のトレイを持ったホテルマンが声をかけてきた。

「こちらで頂けるんですか?」
「ええ、お持ちいたしますよ?」
「何がいいかしら」
「おススメはアセロラです。ビタミン豊富でお肌にとてもいいです。あとは、ゴーヤですね」
「え? ゴーヤ?」

苦味しか感じられないが、ジュースにするとどうなってしまうのだろう。

「はは、ゴーヤは皆さま、一口で降参なさいます」
「ふふ、そうですか。ではアセロラを頂きます」
「畏まりました」

ホテルはこうやって過ごすものなのかも知れない。海外にはまだ行ったことがないが、国内旅行では、見たいところを重点に置き、ホテルはビジネスホテルに宿泊してきた。こうした「もてなし」を受けるのは初めてだ。
長湯が苦手なので、温泉にも興味があまりない。ただ、浸かれればいいと思って来た。
ほんの少しだけど、違う視点から物を見て、感じるようになる。橘君のお陰だと思っている。
本当に嫌だった。何故、私にかまうのかと嫌で仕方がなかった。
一緒に買い物をし、ご飯を食べ、そして手を繋いだ最初の人。
抱きしられた温もりが忘れられない。
心がもやもやして、これは何なのだろうとずっと考えてきた。
その答えがやっと分かった。橘君が好きなのだ。

「お待たせいたしました」

パラソルのテーブルに赤い色のジュースが置かれた。
沖縄らしく、グラスの所に、ハイビスカスの花があしらわれていた。

「ありがとうございます」
「観光でご不明な点がありましたら、コンシェルジュにいつでもお尋ねください。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」

そう言って、ボーイの人は戻っていった。
ストローで一口飲むと、酸っぱさが先に来たが、程よい甘さもあり、とても美味しかった。
「橘君、このジュース飲んだ? とっても美味しいわ。橘君にも飲ませてあげたい」

彼が、私に沖縄で見せたい所が沢山あったと言ってくれたように、私も同じようなことを思もう。
いつまであのはがきが送られてくるのかは分からない。きっと、あのはがきは、橘君が私に対して、謝りたいことがあったから送ってくるのだと思う。特別な感情があるわけでもない。送られてくるはがきを私は待っている。
そして、はがきが送られてこなくなったら、自分の気持ちに終止符を打とう。それまでは橘君を好きでいることを許して欲しい。
初めてときめく人に出会えたこと、口に出さなくても通じる人に出会えたこと。
そのことに感謝したい。
そう思うと、いつも暗く重かった心が、晴れて行くのがわかった。
結局その日は、外には出ず、ホテルを散策して、恥ずかしながら、室内プールで泳いでみた。
施設までを詳しくみていなかった。25メートルの室内プールを見つけた時、「泳げる?」と聞いた橘君の言葉を思い出した。
ホテル内のショップで水着を買い、何十年振りかで水着姿になった。
プールに入るまで、恥ずかしくて仕方がなかった。ホテルのショップにはビキニばかりで、ワンピーズタイプの水着を探すのに苦労した。恥ずかしくてビキニなど着られない。
海に入れないせいか、プールには割と人が泳いでいた。
此処は屋外のプールとはちがい、ちゃんと泳げるように長方形の形だった。
泳げるのかひやひやしながら、平泳ぎをしてみる。
「結構、泳げるわ」。そう思ったけれど、プールの半分も行かないくらいで足をついてしまった。そこからクロールに変え、最後まで泳ぎ切る。
息継ぎの仕方も忘れてしまっていたようだ。苦しかった。でも、橘君に泳げると言えるくらいではないか。
それから何往復もして足をつかず、25メートルを泳ぎきるまで練習をした。私がスポーツをしていたら、きっとかなりの負けず嫌いだっただろう。
泳ぐことはこんなに疲れるものなのか。
部屋に入り、シャワーを浴びると、ぐったりして、ベッドに倒れ込んだ。
カーテンを引くことなく開けっ放しの窓からは、夕日がきれいに望めた。


「この夕陽も橘君と見たかったわ」

そう言いながら、夕日に呼ばれるようにバルコニーに出る。
沖縄といっても冬だ。流石に風はつめたい。
シャワーを浴びたばかりで濡れた髪が冷たい。
部屋の中に入り、沈むまで夕陽を見ていた。