普段、全く人としゃべらない私が、これほどの大きな声が出るのかと自分でも驚く。
私は子供のころから人と会話をしない。
母親からは、失語症なのではないかと言われたが、そうじゃない。
無駄に喋りたくないだけだ。
私がこうなったのも全て、悪魔のような両親のせいだ。そのお陰で、私は、自分の存在を消し、余計な事を考えず、自分のことだけを考えればいいという、合理的な人生を選択した。
困ることなど何もなかった。
世の中にはいじめにあったり、仲の良かった友達に裏切られり、親友に男を取られただのと人間同士が関わる面倒なことに溢れている。私はそれらのことから関わらないで生きてこられているのだ、なんと幸せなことだろう。
好きな時にご飯を食べ、出掛けたくなったら外にでる。観たい映画を譲り合わずにもすむ。こんなに心地の良いことはない。
中学時代はなんと呼ばれていたか忘れたが、高校生になると、名前の「黒川」からとり、「黒子」と陰で呼ばれていた。
まさにその通りで、私は、そうあだ名がつけられた時に、「うまいことをいう」と心で笑った物だ。
影の存在。だから「黒子」。でも、私は、それにも不満だった。願いは、「存在自体を忘れて欲しい」という事だからだ。人として気にしているからあだ名がつく。私もまだまだだなと思った。

「はい、どうしました?」

診察室と書かれた部屋から出て来たのは、若い先生だった。
つけていたマスクを提げ、対応してくれた。
私の顔をじっと見たが、すぐに持っていた紙袋の方に視線を移した。

「凄く怪我をしているんです、死んじゃうかも! すぐに診察してもらえませんか?」
「はい、こちらへどうぞ」

獣医が出てきた診察室に通されると、袋からバスタオルごと猫をとりだした。

「よしよし、もう大丈夫だ。どこかで拾われたんですか?」
「はい」

診療用のゴム手袋をはめて、猫の目、体の傷、尻とあらゆるところを見て行く。
私は、診てもらっていることで、やっとホッとした。助かる。そう思った。
動物様の小さな診察台で力なくいる猫を明るい所で初めて見ると、拾った時よりも酷い傷があることに気が付く。

「ネコちゃん……」

私は、絶句と言う言葉を初めて思い浮かべた。
口元に両手を持って行き、声が出てしまいそうになるのを我慢する。

「色々な病気の検査をしないといけませんが、鳴いているし大丈夫。今日は入院しましょう。傷はカラスに突かれたのでしょう。カラスは子猫をおもちゃと思って攻撃してしまうのです。子猫が運ばれてくるときは大抵そういう理由です。傷は治るまで投薬と塗り薬が必要ですが、あとの病気は、血液検査をしないとわかりません」
「は、い」

カラスか。憎きカラス。そう言えば、猫がいたところは、アパートのゴミ集積場だ。

「多分、お腹に虫もいるでしょうし、ノミもいます。傷の状態で退治をしましょう。沁みちゃうと可哀想ですから」
「よかった……助かるんですね、命」
「大丈夫。あ、でもこれだけは……血液検査でわかる猫にある白血病ウイルスがあります。これは、なかなかやっかいです。捨て猫に多いので、それだけは安心できません」
「いいです。少しでも命が長らえれば。いい治療があればなんでもします」
「わかりました。じゃあ、猫ちゃんは入院で、預かってしまいますね。ほら、バイバイして。じゃあ、待合室でお待ちください」
獣医は、弱っている猫の手をそっとあげ、私にバイバイをした。
腹を痛めた子供でもないのに、涙がでそうになる。
私は、泣いた記憶がない。映画を観たってどこか他人事で、感動はするが、それ以上の感情は湧かなかった。
血も涙もない女だ、と思っていた。だけど、今目の前にいる瀕死の猫をみて、愛おしさに胸が締め付けられた。
診察室の奥にもう一枚ドアがある。そこのドアを開け、獣医は私の猫を連れていった。

「よかった、ほんとうに」

この病院とあの獣医が、私の救世主に見えた。それほど安心したのだ。
実際、親が死んでも喜びはするが、悲しんだりはしないだろう。
拾った猫のように道端で、怪我をして瀕死の状態であっても助けはしないだろう。私の両親への憎悪は、ある域に達するほど深いものだった。
座って待つソファもあるのに、落ち着かない気分で立っていた。
診察室とは別に受付の後ろにあるドアが開く。
猫を診察した先生がそこから出てきた。
受付の中にある引き出しを開けて、紙を一枚取り出した。
それをカウンターに置くと、こう聞かれた。

「ぐったりとしてはいますが、これから治療して行けば大丈夫でしょう。大変失礼ですが、確認をさせて下さい。あの猫ちゃんは飼われる予定ですか?」
「はい、もちろんです」
「野良猫を保護した場合、預けてそのままにされてしまう方もいらっしゃるので、確認をさせていただきました。気を悪くなさらないで下さい」
「いいえ」
「ではこちらに、住所、お名前、電話番号、それから、猫ちゃんの名前を書いて下さい」
「はい」
私は、当然飼うと決めて病院に連れて来た。
だけど、そう言う人ばかりではないらしい。
動物病院は自由診療だ。治療代もバカにならないだろう。それでもいい、私のたった一人の家族になるのだ、満足のいく治療をしてあげたい。あの時、こうしていればと後悔したくない。
名前はもう決まっていた。
「モモ」
私は、猫の名前をそう書いた。
必ず猫を飼う。そう決めていた。今のアパートもペット可を重点に決めた物だ。
買うのではなく、いつか廻り逢う猫の為に住まいを決めた。命は買わない。私を頼りにきっと逢うはずだと信じてきた。
それが、今日拾った「モモ」だ。

「お名前は決まっていたんですね」
「え?」
「拾われたのに、ほら、名前が書いてあるから」
「あ、はい」
「何か容体の変化とかありましたらご連絡します。これが診察券、次回からは、これをお持ちください」
「わかりました」

あまり上手とは言えない字体で、診察券に「黒川 モモ」と猫の名前が書かれていた。字は大きく、きっとおおらかな性格の先生なのだろう。
私の子供。家族。自分で名付けた愛おしい名前。診察券をじっと見つめてしまった。

「今日は、治療代は結構です。明日また来てください。入院や検査の結果もありますので、そこで精算しますから」
「わかりました」
「朝は、9時から診療して、夜は10時までです。その間の都合のいい時間で来て下さい」
「よろしくおねがいします」

私は、受付にいる獣医に頭を下げ、バッグに財布をしまった。
チラッと診察室をみて、「頑張れ」と心で声をかける。
そして、軽く獣医に会釈すると、病院のドアを開けた。
アパートに着くなり、私は、パソコンを開いた。
猫のトイレ、ご飯と必要なものを買い揃えなくてはいけない。
口コミを読みつつ、一気にネットで買う。
キャットフードやミルクだけは、獣医と相談しよう。もしかしたら、病気で指定の食事しか出来ない可能性もある。

「あとは、トイレの置き場所を考えなくちゃね」

私は、ガラにもなくウキウキしていた。猫が来る。そう思っただけで、暖かい気持ちになれた。
子猫の頃は、食事する場所のすぐ傍にトイレを設置した方が良いと、書かれていた。子猫はトイレまでの距離がないがいと、間に合わないらしい。

「ふふ、そうよね」

さほど広くもない部屋をぐるりと見渡す。
やはり、食器棚を移動して、そこにトイレと食事場所をつくったほうがいい。
家財道具は少ない。移動は簡単だ。
自分なりに充実はしていたが、支える何かが出来たことが、嬉しい。
世の中は金が全て。信じる物は金だけだった。自分で稼ぎ、自分の為に使う。人は裏切るが、金は裏切らない。
だが、モモは別だ。モモだけは違う。
モモが暮らしやすい環境を作ってやりたい。生まれたばかりで、あんな辛い目に逢ったのだ。これからの生きる道は、楽しくさせてやりたい。

「あそこの出窓……モモのお気に入りになりそうね」

アパートの二階の角部屋が私の住居だ。
出窓から差しこむ日差しは柔らかくてとてもいい。花を飾っていたが、猫が来るならそれも出来なくなる。
猫の好きそうな、もこもこの生地でも買って、敷いてあげよう。
私は、今から来るモモの姿を想像しては、楽しんだ。
今日の私は、気が急いていた。
時間が過ぎるのがとても遅く感じたし、時間を気にしたのもそう経験ない。
モモの様子が気になる。獣医は昨日ああいっていたが、検査の結果、悪い方向だったらどうしようかと、気が気じゃなかった。
あれだけの傷があるのだから、すぐに退院は出来ないだろう。だけど、会えると思うだけで、嬉しかった。
工場では終業のベルが鳴った。
私は、持ち場を離れ、タイムカードを急いで押すと、ロッカールームに急いだ。
素早く着がえ、他の工員が来る頃には、工場を出ていた。
動物病院の看板が見え、私は急ぐ。
自転車を止めると、病院のドア前で息を整えた。

「はあ、疲れた」

深呼吸をして呼吸を整えると、病院のドアを開けた。

「こんにちは」

にこやかにあいさつをしてくれたのは、昨日はいなかった受付の女性だ。
私は、会釈だけをして、診察券を渡す。

「お預かりします。お待ちください」

そうか、昨日は夜だったから受付がいなかったのか。
待合室では、昨日とは違い、患者がいた。
二人程椅子に座っていたが、どちらもイヌのリードを持っていた。
この犬たちはどんな病気なのだろう。きっと人間と同じで、待っているときは嫌な気分なのだろうな。
持っていた本でも読もうかと、バッグに手を入れ、ふと、座っていた横にあったマガジンラックに目がいった。
ペット用品のカタログと雑誌だった。
私は、猫雑誌を手に取り、読む。
最新号ではないが、子猫特集だった。
目次を見て、特集ページを開く。そこに写っている子猫は、どれも可愛く、健康そうだった。
爪きりやトイレトレーニング、食事に至るまで、事細かに書かれていた。表紙を見てタイトルを覚えると、帰りに本屋に寄ることを考えた。
初めて猫を飼う。飼い方を勉強しなければ。
雑誌に没頭していると、隣にいた犬の飼い主は、会計をして、最後の一人が帰る所だった。

「黒川さん、どうぞ」
「あ、はい」

診察室のドアが開けられると、昨日の獣医が私の名前を呼んだ。
雑誌をもとのマガジンラックに戻す。

「今連れてきますから、待っていて下さいね」
「はい」

私は、落ち着きなく髪を触ったりして、モモがくるのを待った。

「モモちゃん、ママだよ」
「モモ」

連れて来られたモモを見て、私は、診察室の椅子から立ち上った。真っ直ぐに手を伸ばしてモモを抱いた。
モモは私がくるんでいたバスタオルの中にいた。
まだ、毛は汚いままだった。

「モモちゃんの怪我が酷くて、シャンプーはまだしていません。ノミの駆除もしたので、毛は拭いてあります。まだ毛が汚いですが、白ネコちゃんですね」

モモは体が白い毛で、尻尾だけ模様があった。細く長いしっぽだ。何処も曲がっていない。
まだ産毛のモモは、肌のピンク色が分かる程だ。
目やにも綺麗になり、瞳をみると、金色に輝いていた。
「検査の結果ですが、野良猫だったので、お腹に虫はいました。これは薬で駆除が出来ます。モモちゃんは生後一か月半というところです。自分でご飯も食べられるので、直前まで親と一緒に居た可能性がありますね。まだ、ミルクも必要ですね」
「よかった」

私は、診断結果を話してくれている獣医の顔は見ず、ずっと、モモを見つめていた。

「それから、血液検査も問題はありませんでした。良かったです。ウイルスがあると、病院に定期的に注射を打ちに来なくてはいけなくなりますから」
「よかった、ね? モモ?」
「まだ、見て分かる様に、退院はできません。傷口が化膿している所が何か所かありますし、栄養状態も悪い。一週間はお預かりします」
「一週間……」

そんなに長い事一緒に暮らせないのか。まあ、この先ずっと一緒に居られるのだ、この一週間はモモにとって大事な期間。それはぐっと我慢しよう。
私は、離れ難さにその場を立ち上がることが出来なかった。

「黒川さん、病室まで一緒に行きますか?」
「え?」
「モモちゃんを安心して預けて下さい」

いつまでたってもモモを離さない私に痺れを切らしたのだろうか。獣医は、人懐こそうな優しい顔で笑った。
そう言えば、私は人の顔さえ見ない。いつでも斜め下を向き、人とは、目を合さないで来た。
だが、獣医とは病院に駆け込んだ時から、顔を上げて話しをしていた。それだけ、必死だったのだろう。
私は、獣医に促されるまま、診察室の奥に入って行った。
病室と呼ばれる所には、犬と猫がゲージの中に入ってじっとしていた。
具合が悪いのだろう。チラリと私を見た目に生気がなかった。すぐに視線をずらすと、目を瞑ってしまった。
モモの「病室」は子猫だからなのか、少し小さなゲージだった。
表札の様にゲージの外には、「黒川 モモ」と名前のプレートがついていた。
私は、思わず、そのプレートの名前を撫でた。


「ずっと抱っこしてしまうと、子猫は疲れますから」
「すみません」
「いいえ、心配ですもんね」

ずっと離さない私をやんわりと誘導する。
バスタオルでくるんでいるモモに顔を埋め、別れの挨拶をする。
そっとバスタオルごとゲージに戻すと、少しだけモモは体勢を変えて、寝てしまった。

「すみません、お願いします。また、明日も来ていいでしょうか」
「あ、毎週木曜日は休みなんですよ」
「そうですか、では、金曜日に。モモをよろしくお願いします」

年中無休な訳がない。休みだってあるのが当然だ。でも、会えないのはかなりつらい。
それは仕方がない。

「黒川さんだよね?」
「え?」
「昨日、顔を見てひょっとしたらと思ったんだけど、診察カードの名前を見て、やっぱりそうだって思ったんだよね」

急に親しみのある声のかけられ方をして、私はびっくりした。誰も知り合いのいない土地に越してきたつもりだった。それに知り合いなどこの世に存在しない私の名前を呼ぶ。この獣医は一体誰なのか。

「明峰高校特待生、1年1組、2年1組、3年1組、三年間特進クラスで、成績は常に学年1番。全国模試は100位以内の頭の良さ。大学はそのまま奨学生制度で進学。の黒川さんだよね」