神社からアパートに着くまでの間で、私達の荷物は増えていた。
橘君は出店で買ったご飯。私は、コンビニに立ち寄って買ったお菓子とアイス。
会話は、「どれにする?」「何がいい?」それくらいで、あとはアパートに着くまで、さほど話はしなかった。だけど、不思議なことに窮屈でもなんでもなかった。
きっと橘君は、人にそうさせないオーラがある人なのだろう。
コートのポケットから家の鍵を出すと、

「使ってくれているんだね」

また、そう言った。

「うん、かわいいわ、ありがとう」
「どういたしまして」

鍵をさすと、中からはモモの鳴き声が聞こえた。

「あら、モモが鳴いているわ。珍しい」

玄関で私の帰りを出迎えるモモだが、鳴くことはなかった。急いで鍵を開けてドアを開けると、モモはいつもの場所で座っていた。

「モモ、どうしたの? ただいま」

コンビニの袋を置いて、靴を脱ぐと、すぐにモモを抱き上げた。喉をゴロゴロと鳴らしていつもとかわらない。

「何ともないわ」
「寂しかっただけさ」
「そう?」

私の後ろから玄関に入って来た橘君も、抱っこされているモモの頭を撫でた。

「どうぞ、中に入って」
「お邪魔します」

橘君には悪いけれど、先に手を洗い、モモのご飯を用意する。
そう言えば朝ご飯をいつもより食べていなかったきがする。お腹が空きすぎて鳴いていたのだろう。私の足回りに頭をこすりつけてご飯を催促している。心配することはなさそうだ。

「はい、モモ。お待たせしました」

いつもの食事場所にカラカラのフードと、缶詰を混ぜ合わせ、置いた。
モモは勢いよくがっつきあっという間に完食してしまった。
次は橘君だ。
温かかったお好み焼きや、焼きそばも、すっかり冷めてしまっている。
お皿に盛ってレンジで温める。
キッチンから橘君を見ると、こたつにも入らず正座をしていた。
いけない、食事よりも橘君だ。

「ごめんなさい、こたつに入って」
「ありがと」

スイッチを入れ、傍に脱ぎ捨ててあった橘君のダウンジャケットをハンガーにかける。
そのままテレビのスイッチを入れて、リモコンを橘君の傍におく。

「いま、支度するから、好きな番組をみていて」
「分かった」

いそいでエプロンを着けて、食事の支度をする。
何もかもペアでは用意していない食器。お茶を淹れるのにも湯呑みがない。仕方なく、マグカップを用意して、急須にお茶の葉を入れる。
レンジで次々とご飯を温めている間に、こたつの上にどんどん運ぶ。

「何か手伝う?」
「ううん、いいの、座っていて」

ぱたぱたと狭い部屋の中を世話しなく歩いている私にそう言ってくれた。
でも、温めるだけのご飯だ。何も難しいことはない。難しくしてしまっているのは自分だ。
「もてなし」という事をしたことがない。だから、手順が分からないだけだ。
橘君にそういう事を教えてもらって、ありがたく思う。
私が少しでもこうして心が開くことが出来るのは、橘君だからだ。皆が皆そうでないことは分かっているけれど、私のような臆病者は人付き合いにも限界がある。だから、これくらいでいいのだ。

「はい、お茶。ごめんね、こんなカップしかなくて」
「ペアであったらどうしようかと思った」

全て用意して、いつもの自分の定位置にすわり、買って来た屋台料理を食べる。

「いただきます」
「朝めし食ってないから腹減った」
「たくさん食べて」

小皿に取り分け、どんどんなくなる。そうとうお腹が空いていたらしい。
他人と食事をすることに少し緊張したが、大きな口を開けて平らげる橘君を見て、その緊張もほぐれる。

「黒川も食わないと、俺が食っちゃうぞ」
「いいのよ、どんどん食べて。私はお菓子があるから」
「虫歯になるぞ」
「そうね」
冷蔵庫にはいっているおせちと鍋にあるお雑煮が頭を過ったが、それは忘れることにする。
おふくろの味は何かと聞かれても、何も浮かばない。それくらいあの母親は料理をしなかった。
父親がいる時は、惣菜を買って、便利な調味料で食事を作ってはいた。しいていうならそれがおふくろの味なのかもしれない。しかし、長い年月夫婦で暮らしていて、買って来たおかずなのか、そうでないのかの区別がつかない父親もまた馬鹿だ。
私は、一人ということもあり、殆どの味付けを自分でしている。そういった「素」はめったに買わない。
腕に自信がある分けじゃないが、パソコンや料理本で料理を勉強して、自分好みの味付けで料理をするようになった。
外食は節約もあり、滅多にしないが、外食もまた料理のレパートリーを増やすのにいい。

「あ~食った」

沢山食べて満足した橘君は、お茶をすすって、お腹を摩った。
なんだかんだ言いながら買ってきたご飯は、全てなくなった。

「コーヒーでも飲む?」
「う~ん、まだいいや」

食後にコーヒーを飲む習慣のある私は、そう聞いたが、今の橘君ではコーヒーもお腹にはいらなさそうだ。
食べ終えた食器を二人でキッチンの流しに入れ、片付ける。

「いいのよ、座ってテレビでも観ていて」

キッチンの隣に立って一緒に手伝おうとしていた橘君をそううながした。

「そんじゃ、お言葉に甘えて」
「どうぞ」

アパートのキッチンは、部屋に向かって背を向けている。
食器を洗っていても、橘君の様子が分からない。

「なんか、エプロン姿がいいね」

背中側から橘君が話し掛けた。
後ろを振り向くと、こたつに横になって肘をついていた。
恥ずかしさのあまり、なにも堪えられず、すぐに食器洗いを再開した。
今でも観ているのかな。嫌だな。そんな背中に緊張をしつつ、いつも以上に出た洗い物を終えた。
ゴム手袋をはずし、冷蔵庫の上に置いてあるハンドクリームを塗り、エプロンを外した。
随分静かだと思って、様子を見ると、橘君は、お腹にモモを乗せてすっかり眠っていた。
モモは私の上にだけ乗ると思っていたのに、ちょっぴりヤキモチを妬く。

「風邪をひいちゃうわ」

ベッドから掛け布団を外して、それをかける。頭には、傍にあったクッションを乗せた。
モモは、布団をかけられてのそのそと出てきたが、また上に乗って丸くなった。
つけていたテレビを消すと、本棚から本を取り出して、読み始める。
部屋は、橘君の寝息が聞こえるだけだ。
ふと橘君の寝顔を見ていたら、なんとも言えない感情が沸き起こった。それがなんなのかわからない。もやもやしたものが心臓の辺りを覆っているようだ。
浮かれてはいけない。この人は同級生なだけで、高校卒業以来あっていなくて、懐かしいだけ。連絡を取らなくなれば疎遠になる。深入りをしてはいけない。
以前の私に戻らなくては。
モモの主治医。それだけ。私にとって必要なのは、モモとお金だけ。それはずっとそうしてきたはずだ。私の人生でいいことなど起こらないのだ。期待をすれば、大きな落とし穴に落ちることになる。そうなれば、私は、這い上がってはこられないだろう。
我に返る様に頬を軽くたたき、本の続きを読み始めた。
「そんな所で寝ていたら風邪ひくぞ」

ずっと前、どれくらい前だったか忘れたけれど、同じことを言われた覚えがある。
部屋にはいる温かな日差しが、顔にあたっているのはわかる。でも、眠たさの前に目が開けられない。
声をかけられない私は、そんな些細なひと言が頭に残っていたようだ。頭は起きていなくても、なんとなく意識は起きている。一体、どこで誰が声をかけてくれたのか。
身体の上に何か掛けられる気配があり、やっと目を開ける。その前には日差しがその人の背からあたって、表が黒いシルエットで見えた。

「橘君?」
「寝てていいよ」
「……もっと、ずっと前……そうやって声をかけてくれたこと……ある?」
「……あるよ」

そうすると、どんどん記憶が鮮明になり、どこで言われたのか思い出し始めた。
確かあれはいつもの中庭だったはず。お弁当を食べて、本を開くと自然と眠気が襲った。毎日の習慣になってしまっていた「ちょっとの昼寝」だ。
その時もその声をかけてくれた人の背中から陽があたって、顔が分からなかった。
それに、とっても恥ずかしくて、走って逃げたような気がする。

「橘君だったのね」
「……そう」

そうして思い出して、私は、目を開けた。
目の前の橘君はシルエットではなく、はっきりと顔が見えた。
すると、橘君は私を抱きしめた。

「橘君?」
「黒川……黒川には俺がいる」
「どうしたの? 急に」
「俺がいるってことを知って……もう肩肘張って生きなくてもいいから」

いつも冗談じみて軽く話す橘君だが、真剣な声だった。
それがどういう事だったのか、後から分かったが、この時の私は、初めて女性としての喜びを感じていた。
それが途轍もなく恥ずかしい一方的な思いだったことを知る。
お正月休みの間、橘君と少しの時間でも会い、話しをした。
話しの中心はもちろん高校時代のことだった。そっぽを向いて感心を示さなかった私は、橘君の話しで高校はおもしろかったのだと知った。
彼はしきりに、正月に女の人の家で寝てしまったことを反省していた。
でも、「なんだか落ち着く」と言ってくれたことは、嬉しかった。
もっぱら連絡を寄越したのは橘君だ。電話の度にドキドキした。メールを見れば何回も読み直した。
でも会っているときは常に気を引き締めた。この人の傍にいるのは私じゃない。ただの同級生なのだ。浮かれてはいけない。
人に対して免疫のない私は、勘違いを起こす。だから、橘君と会う時には、鏡に向かって「浮かれちゃダメ、勘違いをしてはダメ」と言い聞かせた。
何故、つないだ手を離さなかったのだろう。
何故、抱きしめられた腕を振りほどかなかったのだろう。
心がもやもやしているのがこの答えなのかもしれないが、まだそれが何かわからない。
一月も終わりになったころ、母親がまた来た。

「ごめんねえ、お正月はなにかと用入りでね」

言い訳がましい。使ってないならそう言えばいい。今さら言い訳は通用しないのだ。

「いち、いちでいいの」

始まった、「いち」だ。この人が今着ている品のない派手な服も、きっと私のお金から出ているのだろう。
橘君と浮かれた日を過ごしてしまった私には、ちょうどいいタイミングで現実に戻ることができたようだ。
滅多にないこの人への感謝だ。
玄関に立たせて置き、財布を取りに行く。

「ねえ、茜。あの獣医さん? 良い人見つけたじゃないの」

私は、耳を疑った。
獣医と聞き、知っている人は一人しかいない。

「獣医じゃあ、お金もってるだろうし、生活には困らないわよ。お父さんもお母さんも助かるわ」
「もう一度言って見なさい」
「く、くるし……」
「何処で、見たの?」
「は、離して」

私は、怒りのあまり、母親の胸倉をつかんでいたらしい。はっと気が付き、その手を離した。

「あんたんちから出てくるのが見えて、後をついて行ったのよ。白衣を着ているから医者だと思って。病院に入って行く前に声をかけたのよ、それだけよ」
「いい加減にして!! あの人は同級生なだけ、何も関係ないわ!!」
「あ、茜?」

私は、腹の底から大きな声を出して、怒りを露わにした。

「何を言ったの! 言いなさい!」
「稼ぎがいいんでしょう? 茜に不自由はさせないで、いい関係を続けましょう。って言っただけよ、何がいけないの? 獣医なら稼げるし、お母さんたちの老後の心配もないじゃない。お父さんみたいな運転手じゃどうしようもないわ。それに引き替え医者はいいわ」
「橘君はなんて言ったの」
「分かってますって、感じのいい青年だったわ、お母さんは賛成よ」
「何が賛成よ!! いい? 金輪際彼には近寄らないで。私は一生結婚をする気はない。あの人はただの同級生、何かしたらただじゃおかないわ。あんたなんか殺したっていい」
「茜……」
「出て行って!!」

そう言って、玄関のドアを開くと、母親をおもいっきり押し倒した。高いヒールを履いている母親は、すぐに転び、蹲った。そして、玄関にまだ入っていた足を蹴飛ばし、外に追い出した。
終わった。
橘君との同級生の関係が終わった。もう会ってはいけない。
彼だって、突然そんなことを言われたら、分かっているとしか答えようがない。
病院は沢山ある。モモには悪いけれど、違う病院で診察は受けてもらうことにする。
頬をつたう涙を拭くけれど、どんどん溢れて拭いきれない。
橘君と携帯の番号とアドレスを交換した日から、目立つところに置いていた携帯を手に取った。
病院と会社しか登録していない連絡帳には、ただ一人、橘君と言う「友達」の名前があった。
私は、その登録を削除した。そして、登録外の着信も受信も出来ない様に設定をして、前のようにバッグの底にしまった。
外ではまだ母親がいるようで、少しうめき声が聞こえたが、次第に不規則なヒールの音が聞こえ、帰ったのだと思った。
浮かれてはいけないとおもいつつ、私は、橘君との時間を楽しんだ。
楽しく、嬉しい時間など私には不釣り合いだったのだ。こうした時には、必ず大きな落とし穴がある物だ。それを十分分かっているはずの私は、橘君を前にその警戒を取ってしまった。
だから、奈落の底に落ちるのだ。
最後に会ってちゃんと謝りたかった。でも、きっと橘君のことだから、何とも感じていないように振る舞ってくれるだろう。それが痛かった。
現に母親に会ったことを言わなかった。知らなかったとはいえ、浮かれていた自分が恥ずかしい。
もしかしてお正月に言ったあの言葉の意味。それは母親に会ったから言ったのではないのか。きっとそうだ。守ってくれるとでも言うような感じだったし、突然だった。おかしいと思っていたのだ。
母親の流れで、ようやくそれが分かった。
幸いにして、モモは健康に育っている。病院に行くこともない。
橘君家族を巻き込んではいけない。
幸いにして、私から電話をしたり、メールをしたりしたこともない。だから、連絡が途絶えても大丈夫だ。
モモが心配そうにすり寄ってきた。モモも橘君が大好きだった。

「ごめんね、モモ。もう橘君はこないのよ」

言葉に出していうと、悲しみは倍増した。
今だけ、今だけ泣いたら、もう忘れよう。もともと記憶にもなかった人だ。
また元に戻ればいいだけのこと。孤独の人生があっている私に不釣り合いな事をしてしまった。
なんとしても許せない。更に私の憎しみは増して行った。

橘君を拒否してどれくらいの日が過ぎたのだろう。寒い季節が通り過ぎ、また桜の咲く季節がやってきた。
橘君は何度かアパートにも訪ねて来てくれた。でも当然だけど、居留守を使った。
携帯には拒否していても、履歴が表示され、連絡をくれていたことも分かった。
だけどそれも過ぎると、音沙汰は無くなった。

「そんなものよ、人なんて」

と、以前のような、人に対する投げやりな思いも復活する。それでいい。私が、楽しいことをすると、良い人達が不幸になる。
朝はいつものように天気予報を確認する。

「今日も晴れ。モモ、いってきます」

モモの湿った鼻にキスをして、仕事に出かけた。
仕事は良かった。流れてくる代わり映えのない商品をただひたすら処理していく。何も考えることもなく淡々と。橘君の事がよぎると、必死になって見たテレビ番組を思い出して、モモは何をしているのかと考えた。
そう簡単に消せる人ではなくなっていた。それが私を苦しめた。

「いやな感じの天気だわ」

仕事が終わって自転車を乗るとき、空の雲行きが怪しかった。天気予報で雨の予報は出ていなかった。急いで帰れば雨が降る前に家に着くだろう。そう思いながら自転車を漕いだ。
嫌な事は続くもので、職場を出てすぐに何かを踏んだようで自転車がパンクしてしまった。

「もう、どうして」

パンクはどうにもならない。
嘆いていても仕方なく、自転車を降りて押すことにした。此処から一番近い自転車修理は、あのホームセンターだ。この自転車もそこで買った。少し歩くけれど、通勤に使っているし、修理は必要だ。
ホームセンターに向かっているときに、もう雨が降り出してきてしまった。

「だめだわ、このまま帰った方がいいみたい」

通勤に使っているとは言っても、会社がある工業地帯は、バス亭も沢山ある。修理をするまでバスを使えばいいのだ。
進行方向をアパートに変え、早歩きで自転車を押した。
雨は酷くなる一方で、止む気配は全くない。
温かくなって来たとはいえ、雨に濡れ寒さが堪える。
服よりも髪の毛がどんどん濡れて、しずくとなって落ちる。

「黒川? どうしたの!」

顔に雨がかからないよう下を向きっぱなしで歩いていると、懐かしい声が聞こえた。

「橘君」
「自転車パンクしたのか。これさして、早く」

橘君がさしていた傘を差し出され、素直に受け取る。
自転車は橘君がもって押してくれた。
橘君も濡れないようにと傘を斜めにする。
橘君は私服だったが診察の日じゃなかっただろうか、傍に自転車はなかった。何か用事で出ていたのだろう。
「この先の商店街に自転車屋さんがあるから、そこで修理をしてもらおう」
「うん」

そうか、商店街にたしかあった。
ホームセンターで買った自転車だ、そこの店しか思い浮かばなかった。
アーケイドがない商店街をひたすら歩く。

「あそこ、駅と橋の真ん中あたりにあるから覚えておくといいよ」
「ありがとう」

自転車を持ち込むと、橘君は私に待っているようにいい、何処かに行った。
自転車のパンクが直るころ、走ってくる橘君がいた。

「ほら、拭いて」

前に差し出されたのは、タオルだった。
吸い取りの悪い感じと、袋からだしたので、買って来てくれたのだ。
お願い、これ以上私になんか優しくしないで。せっかくストップをかけたのにまた走り出してしまう。私には合わせる顔がない。

「手が紫色になってるじゃないか、早くふかないと風邪をひくぞ」
「うん、ありがとう」

酷い事をした私に、優しく言う。まともに顔も見られない。

「終わりましたよ」
「え? あ、はい、ありがとうございます」

パンクの修理が終わったようで店主が声をかけた。
修理代金を支払い、店を出る。

「傘とバスタオルをありがとう」
「送るよ」
「ううん、大丈夫……あ、ちょっと、橘君」

そう言ったのに、橘君は話も聞かず、私の自転車を押して歩いて行ってしまった。
まだ雨は激しい。傘もさしていない彼をそのままにできない。
後ろから走って追いつくと、傘をさして二人で入った。
アパートに着くまで何もしゃべらなかった。
聞きたいこと、謝りたいことがあったのに、言葉に出来なかった。

「俺さ……」

アパートが見えてきたころ、橘君が口を開いた。
何を言われるかと、気が気じゃなかった。橘君が先に言う前に私から謝った方が礼儀なのではないか、きっとそうだ。先に謝ろう。

「あの……あの……」
「俺さ、動物園の獣医の仕事も体験っていうか、勉強したいんだ」

私が、どもっていると先に橘君が話しを切り出した。

「動物園の獣医ってなかなか狭き門でさ、俺が大学に行っている頃に就職したのは知っている先輩で、たったの二人なんだ」

そうか、獣医にも色々あるのだ。イヌや猫ばかりじゃない。動物園だって水族館だって動物はいる。

「本当に動物病院が増えてきているし、飼っているペットも多様化している。それに対応できるか出来ないかで、これから先は違ってくると思うんだ。たちばな動物病院だったら、どんな動物も診察してくれる、っていうことにならないと、経営も難しくなる」

確かにそうかもしれない。動物の番組をみていると、そんな動物までペットにしているのかと思う事が度々ある。

「嫌な裏側を話す様だけど、コネがないと、なかなか動物園は難しいんだ。で、今、その動物園で働いている先輩と話しをしてきたところなんだ」
そこまで話したところで、ちょうどアパートに着いた。
橘君が自転車置き場に自転車をしまってくれると、私は傘を渡した。

「もしかしたら、バイト扱いで働けるかもしれないんだ」
「そう、それはよかったわ」
「でも、北海道。俺の目標は二年間で勉強してくること」

北海道、それは遠くて、寒いだろう。でも橘君なら大丈夫だ。もっと大きくなってさらにいい獣医になるに決まっている。

「どうなるか分からないけど、先輩が話しをしてくれるってことで別れたんだ」
「大丈夫よきっと。橘君ならいい獣医さんになれるわ」
「そうかな……不安だらけだよ……じゃあな、ちゃんと風呂入れよ」

橘君は、母親のことも、私が連絡を絶ってしまったことにも触れずに帰ろうとした。
私は、やっぱり謝らなければならない。

「待って」

歩き出していた橘君は、足を止め、振り向いた。

「私の母親のこと、本当に申し訳ありません」

そう言って、深々と頭を下げた。
橘君は黙っていた。

「私にはもう関わらない方がいい。分かったでしょ? 高校生活で隠していたこと。私は、何があっても絶対に二人を許さない。悪魔に魂を売ったっていい。私には幸せは似合わないし、望まないの。私に関わると、橘君まで害が及ぶの。だからもう、出会う前のように知らない人にして下さい。橘君にはよくしてもらって本当に感謝をしています。ありがとう」
「黒川、誰にだって言いたくない過去はある。俺はそれを知りたくないし、知ろうとも思わない。憎しみが生きる糧になっているならそれでいいじゃないか。今、ここに居る黒川が俺の知る全てだ。優しくて、思いやりがあって、繊細で気が弱く、傷付きやすい。俺にとって今の黒川が全てで、両親は関係ない」
「そんな簡単な事じゃないわ、一度捉えたらのみ込むまで話さない蛇のような人達よ。橘君を巻き込みたくないの、だから分かって」

母親はああいったけれど、きっとそれだけじゃない。もっとひどいことを言ったに違いない。それを聞く勇気すらない情けない私は、友達でいる資格はない。
私は、泣かないと決めていたのに、もうそれは出来なかった。でも雨に打たれ濡れている顔はそれを誤魔化すことが出来た。

「もう出会ってしまったんだよ……俺は、黒川がこうして泣いているときも、笑っているときもじっと傍にいられる強い男になっていたい」

そんな優しい言葉をかけてくれる価値は、私にはない。
さらに関わらない方がいいと、強く思うようになる。

「さあ、本当に風邪ひくぞ、入って。またゆっくりと話そう。いいね?」

指で私の涙を拭うと、橘君は帰って行った。
私は、その姿を見て、やっぱり離れよう、同級生でも友達でもなく、全くの知らない人になろう。そう思っていた。
あの雨の日からもう何日も経った。
私は、引っ越しする勇気もなかった。それなのに、橘君を拒否し続けていた。
橘君もそれは分かっていたようで、私をそっとして置いてくれている。
川沿いに植えられている桜の木が、つぼみになり芽吹き始めていた。
どんどん温かくいい季節になるのに、私の心だけは吹雪いていた。
母親は、足を酷くくじいたらしく、父親がそれを報告しに来た。

「慰謝料でも請求するつもり?」

もう、私には、情けをかける感情は残していなかった。まだ、お金を渡していればと思っていたけれど、怪我と聞いても鼻で笑うくらいの気持ちしかなかった。

「何処にも出かけられなくてヒステリックになってるぞ」
「だから何?」
「お母さんなんだから、少しは心配したらどうだ?」
「は? ちゃんちゃらおかしいわ! お母さん? そんな名称で呼ぶわけがないでしょう? 母親らしいことは何一つしないのに。子供だと思っているの? 私が熱を出したときどうしてた? 風呂に入れば下がるとか言って、無理やり湯船に浸からせたわよね? 薬も飲ませず、病院にも連れて行かず! 外で遊ぶことはしなかった。どうしてだか分かる? あんた達が、病院に連れて行ってくれないことを子供ながらに分かっているから、怪我をするような体育や遊びをしなかったのよ! 賢い子でよかったわね!」

私は、金も渡さず、母親にしたように今度は父親を押し出した。
体格のいい父親は転びこそしなかったが、よろけていた。
でも、不思議なことに、手を挙げる素振りもなく、追い出しても静かに帰って行った。
私は、両親に対しても会話などしなかった。
こんなに憎しみを露わにしたところを初めてみたのだろう。それで、何も言えなかっただけだ。
もっと言いたいことはある。だけど、ちょっとやそっとの時間じゃ終れない。
橘君と母親の一件があって以来、私は、両親に渡してきた金を計算し始めた。
小学校から高校までの教育費は、平均を取った。特に高校は制服代と、教科書代だけだった。社会人になってからの金の流れ。それを計算すると、もう既に世の中で「親孝行」をしました。と言ってもいい程の金額になっていた。
絶縁をするときがきた。
それは、突然するものではなく、じわじわと飼い殺しのようにする。私は鬼だ。どうせ地獄に行くことは決まっている。もう何も怖くない。悶え苦しみながら最後の死期をむかえるだろう。それも覚悟の上だ。

「モモ? どうかしたの?」

昨日もそうだったが、頻繁にトイレに行く。昨日、ゆるいウンチが出たが、今は殆ど水のような粘膜だけになっている。
ご飯を多く上げ過ぎても下痢になると聞いていた。昨日の夜から、少な目のご飯をあげていたけれど、どうもそうじゃないようだ。
もしかしたら、私のストレスやイライラが伝わってしまったのだろうか。
時計をみると、午後の診察が始まったばかりだった。急いで、カゴを用意して、自分の支度もする。

「モモ、すぐに楽になるからね」

お尻が痛いのか、痒いのか頻繁に舐めている。
財布の中身を確認して、バッグに入れる。
モモをカゴに入れると、急いで病院に向かった。

ピュア・ラブ

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