「……諸君。今日がやってきた。我々の喪の日である」

厳かに、「書記長」原田先輩が宣言した。我々「非リア充男子学生」は、頭を垂れた。そして、安居酒屋の薄いビールで、「喪の御酒」の作法に従って、飲み干した。露文科の高木が言いだした、ソ連時代のウォッカのたしなみ方のように、Sジョッキからちびちびでなく、ぐいっと喉に押し付けるように飲むのである。高木曰く、グラスを一斉に割れば本格的だが、金のない学生にそんな贅沢は許されない。「喪の日」はブルジョアの日である。

そう、今日はバレンタイン。世のもてない男子にとっては、シベリアのマロースのように冷え切り凍える一日である。

この秘密結社「アンティヴァ」は、原田先輩が継いだ、伝統あるうちの大学の陰の組織である。そして、名の由来は、その昔「書記長」を務めた西洋史の学生が、戦間期に「アンティファ」という、ファシズムに対抗した運動から名づけたらしい。言いえて妙である。今日は、バレンタインファシズムが横行する日にして、資本主義の鬼子である。

「打倒リア充」

「Nieder!(倒せ!)」

隣に座る航空科学科の笹野がぼそりとつぶやき、独文科の森崎が酔い始めた焦点の合わない目で言った。激しく同感である。

「だがしかし!」

高木が叫んだ。

「裏切り者がいる!反逆罪と結社転覆の罪で銃殺である!」

どうもこいつはソ連時代の作家が好きなところから、やたらに「粛清」したがるが、裏切りとなると話は別だ。

「誰だ、裏切ったのは!」

「チョコか、女か、告白か!?」

いっせいにどよめいた。つるし上げられたのは、法学部の橋本だった。文化大革命か。

「わ、わたくしでございます……」

腰の低い橋本が、腰を落としそうに平身低頭した。

「なんだ、何をもらったんだ?」

「あの、近所の女の子に勉強を教えたら、お礼にチョコを……」

 中国史の原田先輩が声高に宣言した。

「その子はリア充ユーゲントである!橋本は罰に、結社の部室の床掃除一か月!下方政策である!」

我々は一同賛意を示した。秘密結社の結束は固い。橋本はおとなしく引きさがった。

「皆、『尊師(グル)』がいらした。静かにせよ!」

携帯で誰かと連絡を取っていた、インド哲学科の中尾が言うと、一気に場は鎮まった。もっとも、居酒屋はうるさいままで、鎮まったのは我々の周辺だけではあるが。

「みなさん、一年ぶりですな、ほっほっ」

小柄な好々爺といった老紳士が入ってきて、勧められもせぬのに上座についた。この方は、哲学科の元教授で、「終身書記長」の島田先生である。先生は、博士課程を卒業するまで長らく「書記長」を務められたあと、顧問となり、その後は、「終身書記長」という肩書で、年に一度、ビール付の「喪のリア充ひがみ全校人民代表大会」、略して「全人大」に来てくださる。これは原田先輩の命名、その前は「秘密結社『アンティヴァ』連邦最高会議」であった。

先生の名言は、デカルトをもじった「我望まず、ゆえにチョコなし」であった。何という発想の転換。コロンブスの卵とはこのことだ。そうである。我々が欲さないから、チョコは手元に来ないのだ。そして、この名言とともに、先生のニックネーム「グル」が脈々と受け継がれていた。「グル」は、七十を越しても独身である。既に悟っていらっしゃる。

「みなさん、例のアレですよ」

先生は、鞄からざあっと駄菓子を出した。決して高級チョコではない。先生は、「ブルジョア流儀」には染まっていらっしゃらない、きわめて澄んだ心の持ち主なのだ。

「これ、次のカラオケで一番取った奴にあげよう」

「そうだな」

我々は、ここでも血の結束を確認した。ファミリーのためなら冷酷になるゴッドファーザーの世界だな。ファミリーとはもちろん、「アンティヴァ」である。

「橋本、おまえ持て」

「はい……」

「おや、橋本君、どうかしましたか」

にこにこと先生が聞く。

「こいつが、裏切りを」

「それはいけませんね、一か月ねちねち恨み言を言われ続けるアイアンメイデンの刑です」

尊敬するグルからも有罪判決を受け、被告人橋本は、控訴もならず刑が確定した。人民裁判である。

我々は、居酒屋を出て、駄菓子を賭けてカラオケ店で思い切り、放歌高声に踏み切った。

「アンティヴァ万歳! インターナショナル」の歌も歌った。

それでも、来年こそは。ちょっぴり誰もが、心の中で「裏切り者」になる瞬間。それが、秘密結社「アンティヴァ」の、バレンタインの夜。
(了)