「・・・まだ・・・駄目」
力を入れていた両手から、一瞬にして力が抜けていく。
開いた口が塞がらない、まさにそんな状態だった。
「私・・・その言葉・・・聞きたくないな・・・今は、まだ・・・」
「・・・」
「だって、その言葉を聞いちゃったら、今から話さなきゃいけないこと・・・話せなくなっちゃう」
「どういうこと?」
こちらが前かがみになったのを避けるようにして彼女は顔をそらし、目を閉じて口元に手を当てた。
大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。
彼女にとって・・・いや、二人にとって、それは言いづらいことなのだろう。
しかし、今は彼女の話を聞くしかない。
「あのね・・・私、こっちの大学・・・来れなくなっちゃった」
心の中では、かなり動揺している。
しかし、それを彼女に見せてはいけないと思い、必死で冷静さを保つ。
「実はね、昨日、電話したとき・・・お父さんと喧嘩しちゃって・・・私って、馬鹿だよね。嘘ついてあなたと会おうとしてたの、それがばれちゃって・・・」
「・・・そうなんだ」
「お父さん、もう勝手にしろって。私・・・どうしたらいいの・・・」
彼女は口元に当てていた手を目に移した。
それでも留め切れない涙が溢れ、頬を流れていく。
泣いている・・・
それは、彼女が初めて見せる、はっきりした泣いている姿だ。
どうにかしてあげたい。
しかし、好きという気持ちだけでは、どうしても越えられない壁が目の前にある。
静かな部屋に玄関の呼び鈴が鳴り響き、約束の一時間が経ってしまった。
「もう・・・行かなきゃ」
「えっ・・・そ、そんな」
「ごめんなさい・・・でも、もう行くね」
彼女は涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
こちらを見つめる仕草が、まるで忘れないように目に焼きつけている気がして、胸の辺りが痛くなる。
「じゃあ・・・送るよ」
そうは言っても、姫希さんは玄関先にいる。
そんなことは分かりきっていることだが、こうすることしかできなかった。
「・・・ありがとう」
部屋から玄関まではすぐに着き、彼女はこちらを振り向いた。
涙目だが、笑顔。
笑顔だが、泣いている。
そんな彼女の手すら握れない自分がいる。
「じゃあ・・・ばいばい」
こうして、彼女は行ってしまった。
聞けなかった。
「また、会えるか」なんて、聞けなかった。
あの日から、さくらさんからの電話はない。
ただひたすら彼女の電話を待つこと以外、どうすることもできないまま卒業式の前日になっていた。
あのとき・・・
自分のなかで、答えは出ていた。
覚悟も決めていた。
それなのに、結局どうすることもできなかった。
自分の無力さを見せつけられ、そのことが無性に腹立たしかった。
本当に自分には何もできないのか。
一日が自問自答の繰り返し・・・
「俺たち・・・もう駄目なのかな」
最後には、そう呟いて下を向いた。
「あっ、思ったよりも早かったのね」
正門を出たところで、聞き覚えのある声に立ち止まる。
言葉はこちらに向いているようだったので、視線を前に移す。
「乗っていく?」
姫希さんは指で車の鍵を回し、笑顔でこちらを向いていた。
「ありがとうございます」と軽く会釈し、今度は自分で助手席のドアを開けて入った。
以前に指示した道とは違い、今日はなるべく車通りの少ない道を選んでいるようだった。
「電話・・・かかってこないの?」
「・・・はい」
「そっか・・・まあ、無理もないか」
あの日の別れ際のさくらさんの表情を思い出す。
涙目なのに精一杯の笑顔を作り、目の前から去っていった。
両手の拳に力が入る。
さくらさんにあんな表情をさせてしまった自分が、たまらなく情けなかった。
「お父さん、厳しい人だからなあ・・・私も小さい頃は、よく怒られたっけ」
何かを思い出して優しく笑う、その横顔がさくらさんと重なって見える。
当たり前のことだが、二人はやはり姉妹なのだと実感した。
「そうなんですか。あの・・・どうして、俺なんかに会いにきたんですか?」
「あっ、別に用事があるわけじゃないんだけど、ちょっと気になったから」
「俺のことが・・・ですか?」
「まあ、あなたのことというよりは、あなたと紗希、二人のことがね・・・私にも責任がないことも無いわけだし、一所懸命なあなたたちを見てたら、なんとか応援してあげられないかなって」
信号が変わり、止まっていた車は右へと曲がった。
家の方向に背を向けたが、姫希さんは何事もないように運転を続ける。
その表情は知っていてこの道を選んだようで、姫希さんに道はこのまま任せることにした。
「紗希、言ってたよ・・・離れるのが辛いって」
「えっ」
「このまま離れたままなんて、我慢できないって。もう会えないなんて、嫌だって・・・」
さくらさんがそんな事を言っていたとは・・・
「同じ大学に行くんでしょ」
「はい・・・でも、こっちにはもう来れないって」
自分で口にして、改めて現実を突きつけられた気がした。
同時に、こちらもこのまま離れて会えなくなることなど・・・やはり、嫌だ。
「けど、お父さん・・・きっと、許してあげるんじゃないかな?勘違いしないでね、紗希がこっちの大学に来ることを許すってことだから。あなたのことは別問題」
「・・・」
「私も紗希は妹だから、何とかしてあげたいけど・・・こればかりは、私じゃどうにもならない」
自分が馬鹿だと思った。
そして、愚か者だと思った。
姫希さんに何を期待しているのだ。
何も関係ない姫希さんに、これ以上何をしてもらおうというのか。
「でもね、考えたって仕方ないよ・・・それとも、あなたたち・・・」
「距離が離れたら・・・気持ちも離れるの?」
胸の奥から、何かが込み上げてくるようだった。
いや、言葉では現せない何かが、確かに込み上げてくる。
「信じてあげて・・・紗希のこと・・・ね?好きなんでしょ?」
「えっ、あっ・・・はい」
「こらっ。男だったら、もっとはっきり返事する」
以前も同じように言われた気がする。
これだけでも十分に姫希さんは背中を押してくれ、二人を支えてくれている。
この人がさくらさんのお姉さんで良かった。
その横顔を見ながら、「はい」と力強く返事をした。
「ふふ・・・元気出しなよ。私、あなたたちのこと、応援するからね」
気がつくと、車は家の近くまで来ていた。
今は信じて待つしかない。
そう思い、もう一度拳に力を入れた。
夜ももう夜中になろうとしていた。
電話を目の前に置き、ただひたすらさくらさんからの電話がくることを待った。
彼女はもう一度、絶対に電話をしてきてくれる。
根拠などない。
だけど、彼女を信じる想いが、それが今日だと感じたのだ。
電話の着信音が鳴る。
すぐに手をつけたが、そこで大きく深呼吸をした。
そして、気持ちを落ち着かせ、その電話に出た。
「もしもし・・・桜沢です」
「あっ、さくらさん」
その声を随分と久し振りに聞いた気がする。
その声が隋bんと懐かしく感じる。
「ごめんなさい、こんな時間に・・・ずっと、電話しようと思ってたんだけど」
「ううん、全然平気だよ。でも、大丈夫だった?その・・・お父さんとのこと」
「うん・・・でも、すっごく怒られちゃって」
落ち着かせたはずの気持ちを、もう一度落ち着かせようとする。
胸の鼓動が鳴っているのが分かる。
目を閉じて、彼女の姿を思い浮かべる。
その横に自分を立たせることで、彼女の言葉はしっかりと耳に入ってこれそうだ。