朝弥から貰った林檎は食べる気にならなかった。
美味しそうなのに。林檎を通して朝弥の笑顔を思い出す。左の胸がぎゅう、と痛くなり、ベッドに飛び込む。
その繰り返しだった。
朝弥。
毛先まで真っ黒な髪。さっぱりと短いのも清潔感が表れていて素敵だった。
じっと見ていられなかったけれど、顔は町でみた男性の誰より格好良い。目を細めて笑う表情は可愛らしくもあった。左目のすぐ下に小さな黒子があったのを覚えている。
背は平均的。私より少し高いくらい。それが気にならないのは、彼が目を合わせて話をしてくれるからだろう。安心感に包まれ、目線が近くて嬉しいと心から感じた。
こんなにドキドキするのに、会いたくないのは何でだろう。
林檎園へは、あれ以来行っていない。朝弥に会うかもしれないと考えると足が竦んだ。
それよりも、自分のことを知らなければ。

ギダの町へは電車で来た。それは覚えている。
電車を降り、ホームを出たところで初めて「ここはどこだろう」と自分の記憶が無い事に気が付いた。
名前は桜。それだけしか分からない。年齢も誕生日も、何故ギダへやって来たのかも。
家がすぐに分かったのは運が良かった。何となく行かねばならない方向を感じていた。記憶をなくす前の私がよっぽど念入りに地図を暗記していたのかもしれない。
とにかく家の前へ着いた時、「ここだ」と思わず呟いていた。一人暮らしにしては立派な一軒家だ。
荷物は少ない。お気に入りの家具が最低限と、服が二着。そしてテニスラケット。
「テニス選手だったのかしら」
そう思って素振りをしてみたが、てんで素人だった。
相談したい。誰かに頼りたい。けれど記憶喪失だなんて敬遠されてしまうかもしれない。
下手に会話しすぎないようにこの三日間を過ごしてきたが、孤独感に耐えられなくなっていた。

「桜!」
窓の外から聞こえた声で我に返った。
考えに耽りすぎてしまった。しっかりしなければいけないのに。情けない。
窓を開けてみると、圭介さんが手を振っている。昨日のような作業着ではなく、私服だ。
「呼び鈴壊れてるのか?何回か押したんだけど」
「ごめんなさい、考え事してて…。今日は何か?」
「頼みがあって」
圭介さんはメモを寄越してきた。
「買い物してきて欲しいんだ」
「お買い物?」
メモにはパンの名前が数種類書かれている。
サンドイッチ。食パン。クリームパン。
そういえば食べ物や道具に関する記憶は残っている。安心した。パンの味の想像もできる。
「商店街にパン屋あるの知ってるか?」
「看板だけ見ました。えっと、くるりのパン屋さん、みたいな。くるみのパン屋さんでしたっけ」
圭介さんが吹き出した。声を抑えて笑い始める。
「お前、朝弥と同じ間違いするな。くるるのパン屋だよ」
「朝弥も?」
「くるりのパン屋に入ってみたいって五月蠅いの何の。くるる。店主の名前。変わってるだろ」
若い女性が一人で経営しているのだ、と圭介さんは教えてくれた。
「でもどうして私に?」
「あそこさ、男は入店できないんだよ」
「え」
「信じられるか?凄いだろ。店の入り口に注意書きがあるんだ、男性の入店お断りって」
商売になるのかしら、と入ったこともないパン屋の経営が心配になった。
「けれど圭介さん、パン屋さんに林檎を持って行ったじゃないですか」
「裏口の前に置いて行くんだよ。本当に入店はできないんだ。信じられるか?礼の一つも言わないし、林檎置いたらさっさと帰れって手紙が裏口に貼られてた事もあるんだ」
でも、と一息置いて、圭介さんは笑顔を見せた。
「パンは美味い。信じられないくらい」
「はぁ」
「今までは近所のおばさんに頼んでたんだけど、無理になっちゃってさ。桜、頼めないか?」
「良いですよ。私も食べたくなっちゃった」
「アップルパイがオススメ。俺の林檎使ってるんだから美味の二乗」
そのくせ圭介さんのメモにはアップルパイは書かれていない。
林檎園を趣味でやっているだけあって、林檎の味には飽きてしまったのだろうか。
「お礼に良いことを教えてやろう」
圭介さんはそう言いながら、メモの一番下、シナモンロールと書かれている箇所を指さした。
「朝弥はこれが好き」
「え」
「買ってきてやったら喜ばれるぞ。あいつ、越してきたばっかりで周りに頼り辛いんだってさ」
私はそんなに顔に出やすいのだろうか。
圭介さんにはバレてしまっている。朝弥を意識していることが。恥ずかしい。
「もう一つ良いことを教えてやろう。ただし、これはパンのお使いの後で」
年上の男性に恋の協力をしてもらうだなんて、居たたまれない。
「林檎園に持って行けば良いですか?」
「それは悪いだろう。パン屋の近くまで一緒に行くよ。喫茶店があるから俺はそこで待ってる」
「わざわざ喫茶店に?」
「若い女が二人揃ったら長話しそうだろ」
失礼な。
ムッとなったが反論はしなかった。確かにおしゃべりは好きだけれど、記憶のない今、そう盛り上がれるとも思えない。
商店街のパン屋の前まで、圭介さんと並んで歩いた。私の歩幅に合わせて歩いてくれていたのだと気付いたのは、彼が私と別れて喫茶店へ向かうのを見送った時だった。