張り詰めた空気の中で、ボクの額から1粒の汗が床に落ちた。
その小さな音を合図にしたように、止まっていた時間は再び動き始めた。
冷蔵庫の下から素早くヤツが躍り出た。

デ、デカい!

5㎝はありそうな黒光りする体を見せつけるように、ヤツはボクに向かい突進してきた。
一瞬、その姿にボクは怯みかけたが、意を決し、振り上げていた新聞紙の棒をヤツめがけて振り下ろした。
鈍い音が床に響いた。

やったか?

ボクは確認のため、新聞紙を床から離した。
だがその刹那、突如黒い物体がボクの顔をめがけて飛んできた。

なにっ、打ち損じたのか?

黒光りする弾丸は強烈な羽音をたてながらボクの顔に向かってくる。
ボクは思いっきり上半身を反らした。
あたかも、某映画でキアヌ某が魅せたあのアクションのような体勢である。
ヤツは、ボクの顔のギリギリをかすめるように通過していった。

その直後、背後から耳をつんざくような悲鳴があがった。
ボクはその悲鳴にひとみさんを振り返った。
彼女の瞳は虚ろに宙を見つめていた。
彼女の豊かな胸の上に、黒いシミのようなものが確認できた。
まるで、銃で撃たれたような黒いシミが………

彼女は膝から崩れ落ちるように床の上にへたり込んだ。
完全に体中が弛緩しきっているようだ。

「ひとみさん、大丈夫っ!?」

ボクは彼女へ手を伸ばし、床に頭から倒れ込みそうになっている彼女の体を支えた。



完全にひとみさんは気を失っていた。
その時、彼女の胸の上にあった黒いシミは動き出した。
やはりそれはシミではなく、ゴキブリ本体であった。
ヤツは素早くひとみさんから離れ、再び物陰に隠れようと床を走り出した。

させるかぁっ!!

ボクは右手でひとみさんの体を支えながら、左手に新聞紙の棒を持ち、それをヤツに向かって振り下ろした。

なにか、とてもイヤな感触が手に伝わった。

ボクは、ヤツとの戦いに勝利を収めた。
だが、その勝利の代償はとても大きかった。

目を醒ましたひとみさんは、こう言った。

「あんな、ゴキブリのいるような台所には2度と入らない。だから、台所関係の仕事は全部、駿平君がやってね!」


結局、皿洗いまでボクがすることと相成ってしまった…………




大学が長い夏休みに入ると、有り余る時間の費やし方に頭を悩ませてしまう。
一応、家庭教師のアルバイトはしているものの、そんなの週に2日で2時間程度である。
さて、他の時間をどう使おうか。
おそらく、仕事人間の父みたいな人間にこんな話をしたら、羨ましがられるか、説教くらうかどちらかであろう。
まぁ、せっかくだから、毎日図書館にでも通って読みたい本を読み漁ることにしよう。

「いってきます」

ボクは眠そうな顔をしたひとみさんにそう告げ、家を出ようとした。

「ん~駿平君、夏休みでしょ?どこ行くの?」

「図書館に本読みにいってきます」

「ふ~ん、さすが文学部。じゃあ、私も行くからちょっと待ってて」

そう言って、彼女は2階の彼女の部屋へ向かって行った。

「えっ?なんでひとみさんも行くの?」

ボクの言葉に彼女はニヤリと笑った。

「だって、駿平君のせっかくの夏休みなんだから、図書館デートってことでいいでしょ?」

「はぁ?なにわけのわからないことを。だいいち、ひとみさん、本とか読むんですか?」

ボクの言葉に彼女は笑いながら答えた。

「読むわよぉ~失礼ね。雑誌とか漫画とかならね」



断る理由を見つけることが出来なかったので、ひとみさんの同行を許可してしまったが、やっぱりイヤだ。
なんだよ、その格好は。

相変わらず、彼女ご自慢の美脚を見せつけるようなミニスカートに、体の線を強調したタイトなTシャツって。
なんで図書館行くのにその格好なんですか?
ったく。


夏の強い日差しの中をボクたちは並んで図書館に向かった。

「ねぇ、駿平君、なに読むの?」

ボクは今話題になっている直木賞作家の名前と作品名をあげた。

「ふ~ん、私はなに読もうかなぁ」

そう呟いた彼女に、ちょいと皮肉混じりにボクは言ってやった。

「漫画や雑誌はおいてませんよ」

さすがに頭にきたのだろうか、彼女はまん丸な瞳を鋭くして鋭くボクを睨んだ。

「失礼ね。私、これでも文学少女なのよ!」

ボクは笑いながら言い返した。

「少女って歳じゃないでしょ?だったら、なんの本読んでたの?文学少女さん?」

ボクの言葉にひとみさんの目は一瞬泳いでいた。

「え、えぇと、『源氏物語』とか読んだわよ。『祇園精舎の鐘の音 春は曙いとをかし 岩に染み入る兵の 盛者必衰の理をあらわす』ってね」

ボクは思わず目が点になってしまった。

「あの、ひとみさん?それ、全然『源氏物語』じゃないし、『平家物語』と『枕草子』と滅茶苦茶になった芭蕉の句を継ぎ接ぎしただけじゃないですか?だいたい、『岩に染み入る兵』ってなんですか?」

ボクの言葉にひとみさんは恥ずかしさからだろうか、そっぽを向いてしまった。



「いちいち、うるさいわねぇ。別にいいじゃない多少違ってても。理屈っぽい人ねぇ。そんなんじゃ女の子にモテないわよ!」

あ、あの、ボクは間違いを指摘しただけなんですが、何故、そこまで言われなきゃいけないんですか?
正直、これ以上話などしたくないから、ボクは黙ったまま、図書館への歩みを速めた。

「ねぇ、待ってよ。なに怒ってんのよ!」

後ろからひとみさんの声が聞こえた。

「まったく、さっきのことでむくれてんの?ホントお子ちゃまなんだから、駿平君は」

ボクの隣に駆け寄って彼女はそう言った。
ボクはため息をひとつついた。

「もう、いいですから。それより、図書館着きましたから、中では騒がないでくださいよ」

「わかってるわよ、そんなことぐらい」

ひとみさんは心外そうな表情で言った。

「ひとみさん、『源氏物語』でも読んでみたらいかがですか?」

ちょっとしたあてつけに、ボクは彼女に言ってやった。

「ホント、失礼な人ね。『源氏物語』くらい読んだことあるって言ったじゃない。美男子の主人公が浮気しまくって最後に自分好みの女を育てるためにって小さい子供にまで手を出す、節操のない話でしょ?今の世の中なら放送倫理コードに引っ掛かるわね、絶対」

ひとみさんは、ボクの言葉にそう答えた。

ある意味正解な気がして、ボクは思わず吹き出してしまった。
そんなボクを見て彼女は笑いながら言った。

「ウブな駿平君を私好みの男に仕上げるってのもありねぇ。色々教え込んでさ」

その言葉と同時にボクの背筋に悪寒が走った。



彼女にはどうも静かすぎる図書館は合わないらしい。
あっちへウロウロ、こっちへウロウロしながらたまにボクのそばに来て読書の邪魔をする。
結局、読書にまったくもって集中できないので、ボクは本を借りることにして、図書館を出ることにした。

「ったく、ひとみさん、読書の邪魔しないでくださいよ。全然、話が頭に入ってこなかったじゃないですか」

軽く彼女に抗議してみたが、ボクの抗議などどこ吹く風。

「だって、ヒマなんだもん。ねっ、ねっ、それよりいい天気だし、デートしよ、ねっ?」

いったいこの人の頭の中はどうなってんだ、と素朴な疑問が湧き上がる。

「なぁにがデートですか。いつからそんな関係になったんですか?ボクら」

ボクの言葉にニヤニヤしながら彼女は言った。

「なによ、私の裸見て喜んだくせに。こういう時だけいい子ぶって。私たち、ひとつ屋根の下に暮らしてるのよ。それもふたりっきりでさ」

彼女の言葉に、思わず拝見してしまった彼女の姿を思い出してしまった。
そんな状況で、次の言葉に困って黙っていると、ひとみさんはボクの腕に彼女の腕を絡めてきた。

「ホント、純情ね。それこそ私が光源氏になってキミのこと育ててあげたいわ」

彼女の冗談を真に受けてしまいそうになる自分自身が情けなくてしかたない。



まぁ、そんなわけで、完全にひとみさんのペースに巻き込まれ、気が付くといつの間にかボクは彼女と腕を組んだまま街中にいた。

「お腹空いたわねぇ。なんか食べましょう」

ひとみさんはそう言ってボクの腕を引っ張った。
そんなくだらないやり取りをしていると、背後から突然、女性の悲鳴が聞こえた。
ボクらは振り返った。
そこで目に飛び込んだのは、若い男が老女のバッグを引っ張り奪おうとしている姿だった。

「離して!ひったくりよ!」

老女は必死に抵抗していたが突き飛ばされ、バッグを手から離してしまった。
バッグを奪った男は、こちらに向かって猛ダッシュで走ってきた。
ボクはその光景を呆気に取られただ見ていた。
だが、次の瞬間、ボクの視界に隣にいたはずの女性の姿が飛び込んできた。

ひとみさん?

彼女は一直線に男に向かって走っている。
そして、その勢いに乗ってジャンプした。
空中で彼女は右足を高く振り上げた。
ちょうど彼女の真正面に位置していたひったくりの男は、その姿に驚いたように足を止めていた。
しなる鞭のように美しく振り上げられた彼女の右足は、次の瞬間振り下ろされた。
勢いの乗った足はまるで放たれた矢のようだった。
ひとみさんの足は見事に男の頭頂部を捉えていた。
鈍い音とともに、男は地面に叩きつけられた。

「駿平君、なにやってるの!早くコイツを取り押さえて!」

彼女の怒鳴り声に、ふと我に返った。
ボクは慌てて走り出し、フラフラ起き上がろうとしている男に飛びかかった。



ボクは男を押さえつけようと、必死にヤツと取っ組み合っていたが、逃げようとする気迫が勝るのか、ひったくり男の力にかなわず、突き飛ばされてしまった。
尻もちをついたボクは、もう一度立ち上がろうと顔を上げた。
そしてその瞬間、周囲に再び鈍い音が響き渡った。

ボクの目に飛び込んできた光景は、ひったくり男の側頭部にひとみさんのハイキックが炸裂した光景だった。
再びボクの目の前に、ひったくり男の体がスローモーションのように崩れ落ちてきた。

周囲は水を打ったような静けさに包まれた。
だが、次の瞬間ひとみさんの一声によって再びどよめき始める。

「なに、見てるの!早く警察よんで!」

急に周囲ざわめきだし、彼女のハイキックでノビた男を取り押さえる者や、交番に走り出す者の姿が見えた。
そんな中、ひとみさんはひったくり男が奪ったバッグを老女に返して笑顔を向けた。

「ありがとう、本当にありがとうございます」

彼女は涙を流しながら、ひとみさんの手を握った。

「それより、おばあちゃん、ケガはない?」

ひとみさんの言葉は老女を気遣うものだった。
ボクは少しひとみさんのことを見直した。
いや、少しというより、かなり見直したってのが本当かもしれない。



その後、駆けつけた警官により、ひったくり男は連行された。
ボクやひとみさんも簡単な事情聴取をうけたが、もちろん罪に問われることなく、寧ろ感謝されることとなった。


「いやぁ、それにしても驚きました。ひとみさん、勇敢ですね。空手とか習っていたんですか?」

ボクの質問に彼女は笑って答えた。

「勇敢て………なんだろう、体が勝手に動いたっていうのかなぁ。おばあちゃんの悲鳴聞いたらスイッチ入っちゃって」

彼女はちょっと照れくさそうな表情のまま続けた。

「アメリカにいた時にね、空手習ってたの。近所に道場があってね。護身術として習っていたんだけど、まさか日本で役立つとは思わなかったわ。幸い向こうじゃ使う機会は無かったんだけどね」

「ハハハハ、ボクも気をつけなきゃ。ひとみさんを怒らせたら、必殺の踵落とし食らっちゃうからね」

彼女もボクの言葉につられて笑った。

「因みにね、駿平君、踵落としの後のハイキックの方が強烈なのよ」

「確かに凄い音がしましたからね。間違ってもボクには炸裂させないでくださいね」

ボクは真剣に言った。
さすがにあれは食らいたくはない。

「それにしても不思議だなぁ。ひったくり犯に立ち向かえるひとみさんでも、ゴキブリには勝てないなんてね」

彼女はタバコに火を点けながら渋い表情を浮かべた。

「ゴキブリに踵落となんてしたら足にくっついちゃうじゃない。そんなの死んでもイヤ、絶対イヤ」