実家を離れて一人暮らしを始めてからこっちに来るまで随分と世話になっていたものの残りだった。

忘れようと努めていた出来事たちが頭の中に沸き出る気配がして、頭を振った。朝見た夢のことといい、妙にノスタルジックな気分になる。

レンジの前のカウンターに寄りかかりながらシンクの方を向くと、カインは律儀にも食器を洗っていた。

やはり育ちがいいのだろうか。どうせ後で食洗機に入れるのに、と思わないでもなかったが、奈緒美は黙ってその様子を眺めた。

「じゃあ、おれ今日仕事なんだ」

大学時代からの、英文の一人称をその人の性格で訳す癖によれば、カインの一人称は"おれ"だった。

僕でもなく、俺でもなく、おれ。きっとカインが日本語を話せば、舌ったらずにそう言うだろうと奈緒美は感じていた。

ところで、奈緒美の店の定休日はカレンダーと変わらず、毎週日曜である。

そもそも家族サービスをする日である日曜に、風俗に客が入る訳はなく、奈緒美は普通の人と変わらずこの日に休みを取る。

つまり、カインは本日、休日出勤をするという事だ。日本人でもないのに、なんてご苦労なことだな、と思うが、知的な雰囲気から見るにやり手のサラリーマン以上の仕事に就いているのであろう。

休日出勤もやるかたなしといったところなのだろうか。

「そう、頑張ってね」

何気なく言ったつもりだった。
友達を励ますみたいに、何気なく。

しかしカインは奈緒美の方を凝視して近づいてきたかと思うと、その唇に柔らかくキスを落とし、うん、頑張る、とそう子供のように行ってこれまた幼い笑顔を見せながら、奈緒美のアパートメントから出て行ったのであった。