『恋を喰らう魔女』。人は皆、私をそんな風に呼んでいた。
街を転々としていたけれど、『バク』『恋魔』『溺れた魔女』。私につくのはそんな名前ばかりで、自分の本当の名など忘れてしまった。
名は、音にすることで初めて意味を成す。誰にも呼ばれぬ名など、名ではないのだ。名前に思い入れなどない。好きに呼べばいい。私にはただ、人の〝恋〟があれば、それで。

コロリ、と舌の上で転がる恋の玉。触れる角度が変わる度に、一緒になって変化する恋の味。
───今日の恋は少しだけ、酸味が強い───
コロリ、カラリ。
人の恋は一種の麻薬。私は何度もそれに魅せられてきた。部屋中に置かれた透明の瓶と、中にぎっしりと詰められた色とりどりの恋玉。全部、人の恋玉。

じわり、と舌に溶けて消えた恋。それから数秒もしないうちに、呼吸が苦しくなった。
ああ、欲しい。恋が、欲しい。頂戴、全部。
じゅるり、垂れた唾液、震える両手。とうの昔に恋玉と引き換えに失ったはずの左目までもが、欲しい欲しいと疼き出していた。
次の、恋玉を。
そう瓶に手を伸ばしたその時。家にある唯一の扉が、自身の存在を強調するかのように開け放たれた。
眩しい。外の光なんて、何時ぶりだろう。

「…はじめまして、醜い魔女さん」

人だ。そこに立っていたのは、人だった。不気味なほどに乾いた笑みに、ゾクリと身震い。誰、と口にすることさえ出来なくて、私はただその場に倒れ込んだ。気持ち悪い。恋に染まっていない世界なんて、いらないのに───



きゅ、と擦れた音がした。視界をぐるり、回した先には、一人の青年。

「ねぇ、これ不味いよ」

コトリ。棚に戻されたのは、瓶だ。恋玉を詰めた、瓶。私の、恋。

「…あなた、何をしているの…?」

まだ朦朧とする意識の中、ありったけの敵意を込めて、彼を睨みつけた。けれど、彼は何のことかと笑うばかりだ。

「ある噂を耳にしてね。それを確かめに来たら、本当に恋を喰らう魔女がいるから驚いた」

馬鹿にしているのだろうか。人に恐れられることはあっても、好奇心でここを訪れた者など今まで誰一人いなかった。一体何だと言うのだ。私の生き方に、文句でもあるのだろうか。

「アンタ、恋を口にしないと死んじゃうの?」

これ、と舌の上に乗った恋玉を見せつけられて、心臓が踊った。欲しい、欲しい。

欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい
「返せ!!!!!」
浮いた身体、伸ばした腕。でも、彼に届くことはなかった。
ガリ、と音が聞こえた。恋を砕く、冷酷な音が。

「不味い、不味い。他人の恋ほど、不味いものはないね」

黙れ、お前に私の何が、
「可哀想だ」
ぴりっと空気に電流が走って、痛みがちくり。
可哀想?私が?なんで、そんなこと

「アンタ、すごく可哀想だよ」

ふと見えた彼の表情。それは今まで出会ったどんな人間よりも優しく、それでいて美しかった。恋をする人間の魅せる顔だって特別だったけれど。それ以上に、もっと。
私を哀れだと嘆くその顔が、この世のものとは思えないほど、至極艶やかだった。



あれから、彼は度々私の家を訪れるようになった。それも、意図的なのか偶然なのか、恋玉が口の中で溶けて消える瞬間に、だ。

「はい、今日はこれ」
手渡されたのは、小さな赤い包み紙。彼はそれを〝チョコレート〟と言った。

「すごく甘いんだ。疲れた時に食べると、体に染み込むっていうか。まぁ、食べればわかるさ」
ほら、とわざわざ包み紙まで取ってくれたのだが、どうにも気が進まない。今日だけじゃないのだ、彼が私に人間の食べ物を勧めてくるのは。
昨日はイチゴ、その前はプリン、その前はクッキー。口に含まないと帰ってくれないから、渋々食べるのだけれど、私はいつも途中で吐いてしまう。受け付けないのだ、身体が。美味しいなんてわからない。甘いなんてわからない。恋の味しか、私は知らないから。

「…君はどうして、恋を喰らうの」

ふと、投げかけられた疑問。真剣な目。また、だ。また、彼はこんな顔を私に魅せる。

「そうやって生きてきた。それ以外の生き方を、私は知らない」

いたたまれなくて、視線を逸らす。私だって、タダで恋を喰らうわけじゃない。恋と引き換えになにか一つ、人間の願いを叶えてきた。
中でもとびきり滑稽な願いだったのは、『恋を差し出す代わりに、彼が私に振り向いてくれる魔法をかけてほしい』というものだった。彼女の恋は消えるというのに、想ってほしいと願う意味を、私は理解出来なかった。
人間は、愚かだ。単純で、馬鹿。けれど、彼らの〝恋〟だけは、とても美味しい。
それが、私の人に対する印象だった。

「君は勘違いをしている」

暗く淀んだ私の瞳を、彼の透き通った瞳が躊躇なく抉っていく。

「恋は、奪った時点で腐ってる」

パキ、とチョコレートを食らう。指に残った液を、舌でなぞる。
その時初めて、食べたいと思った。恋以外のものを食べたい、と。



朝、昼、夜。また朝、夜。夜、夜。
彼はあれから姿を見せない。
退屈だった。お腹が減った。恋玉を、何故だか喰らう気にもなれなかった。

「…腐ってる」

彼の言葉を木霊する。すると驚くことに、瓶に詰まった恋玉の色が、みるみるうちに変化した。
濁った、黒。灰色、茶色。おかしい、と透明な瓶にゆっくりと近付いて、違和感に気付く。

「赤、い…?」

右目が、赤いのだ。今まであんなに暗く染まっていたのに。
どうして、と考えてすぐに答えが出た。最初から、恋玉に色などついていなかったのだ。

「濁っていたのは、私の目だった…」

ぽたり、と落ちた透明の水。不思議なことに、役目を使い果たした左目からも雫が落ちてきて、頬を濡らした。
唇に触れた、涙。初めて舐めた自分の涙は、驚くほどに不味かった。



「寂しかった?」
久しぶりの第一声は、とても弾んでいて楽しそうに聞こえた。
「暇だったわ」
口にするものがないんだもの、と周りを見渡して、いかに家の中が窮屈だったのかを思い知らされる。恋玉を除いただけで、こんなにも家が広くなるなんて。

「綺麗だね、君の瞳」

どきっとした。最初出会った頃とは全く異なる笑顔を向けられて、心臓が跳ねた。彼はこんな風に笑うことが出来るのか、と。

「変わったね」

何が、だろう。私の瞳が?心が?
それとも全て?

「今日は、君に特別なものを持ってきたんだ」
そ、と頬に触れた彼の指。絡み合う、視線。



「見えてる?君に…本当の恋は、見えている?」



恋は、奪うものじゃない。喰らうものでもない。
自然と湧き上がる、世界にたったひとつだけ、私のもの───









溶ける温度
重なり合った唇は、痛いほどに甘かった