お水とメニューを持って妊婦さんのもとへ。
彼女は、何も見ないまま言った。
「コーヒーをください。とてもいい香りが外にまで漂っていたわ。」

「かしこまりました。……カフェインレスの豆もございますが、普通のブレンドでよろしいですか?」
妊婦さんに対しては毎回そうお伺いすることにしている。
カフェインレスを注文するかたもいるが、たいていのかたは「一杯だけなら」「今日だけ」と、自分とお腹のあかちゃんに言い訳する。

しかし今日の妊婦さんは、冷めた目で言い放った。
「かまわないなわ。どうなろうと。」

さすがに眉をひそめた。
が、取り繕って
「かしこまりました。では、お好みのお味はございますか?うちのブレンドでよろしいですか?」
と聞いてみた。

妊婦さんは、ボソッと言った。
「タレーラン。」

「……かしこまりました。」
めんどくさいお客さまが来たな。
そう思いながらも、俺は妙にわくわくしていた。


いつものブレンドに、さらに贅沢に豆の配合と量を増やし、粗挽きでそーっと入れる。
雑味のない、よりクリアーなコーヒーを、よく温めたカップに注いだ。

妊婦さんは、カップを静かに持って鼻を近づけた。
「……」
感想を言わず、静かに口を付ける。
まだ熱いだろうに、彼女はじっくり味わったらしい。

カップをソーサーに戻してから、俺を見上げた。
「ありがとう。本当に美味しいわ。」
そう言った彼女の目から大粒の涙がホロホロとこぼれ落ちた。

新しいおしぼりとティッシュペーパーを妊婦さんに届けてからカウンターに戻る。
空気を読んだ高校生達は、代金を支払って、静かに去って行った。

……俺的には、よくあることなので、特に興味もわかない。
マタニティブルーなのかな、と、静かに放置しておいて、カウンターを片付けた。
よく見ると、妊婦さんはまだ若いキリッとした美人さんだった。

いかにも勝気そうな彼女の涙に、2年前の玲子(れいこ)を思い出した。
このタイミングで小門(あいつ)が来なければいいな。
願いは虚しく、いつも通り飄々と小門がやってきた。
……間の悪いやつめ。

「いらっしゃいませ。」
笑顔を張り付けて迎えると、小門は少したじろいだ。
「ただいま。なになに?なんかあった?」
「いーや。なんにも。」

小門は首をかしげながら、カウンターに座った。
ぐるっと店内を見渡し妊婦さんを見つけると、小門は少しかたまった。

……元恋人の妊娠が原因で、妊娠した最愛の妻を家に残して去った男にとって、妊婦さんは特別な意味を持つらしい。

しかも涙をおさえている妊婦さんとくれば、動揺するなと言うほうが無理だろう。

小門はポケットから取り出した煙草を、懐(ふところ)に納め直した。