小門は、2度も玲子を捨てることはできなかった。
約束された穏やかで幸せな未来を捨てて、玲子と腹の子を守る道を選んだ。
真澄さんには、ご両親も、家も、会社も、財産もあるから、と。
何もない玲子のそばにいてやりたい……苦渋の決断だったとは思う。

でも、結局、今、誰も幸せじゃない。
きついようだが、玲子は妊娠を隠して別れを受け入れたのなら、独りで育てるべきだったと俺は思っている。

一番かわいそうなのは、真澄さんの産んだ頼之(よりゆき)くんだろう。
ずっと父親に会えないまま、頼之くんはもう2歳。
愛らしい笑顔を思い出し、つい、小門の手をペシッと払うように軽く叩いた。



「マスター、お勘定。……そちらのお嬢さんの分も。」
コーヒーを飲み終えてしばらくボーッとしていた小門(こかど)が、重い腰を上げた。

なっちゃんが慌てて顔を上げた。
「彼女の分は、今日はいいよ。次回、また遭遇したら、よろしく。ありがとうございました。」


小門がいなくなってから、なっちゃんに声をかけた。
「失礼しました。お耳汚しだったでしょう?」

ぶるぶると首を横に振って、なっちゃんが言った。
「お友達、なんですね。古城(こじょう)さんの言葉が砕けてらして、新鮮でした。」
小門の事情には触れようとしないんだな。
いい子だな、と、改めてなっちゃんを見た。

将来、間違いなく美人になるだろう。
ハッキリした目鼻立ちに、意志の強そうな眉がかわいかった。

「そこの中学に通ってた頃からの悪友です。ああ、私のことは、店では『マスター』と呼んでくださいますか?」
ほほえみながらそう言うと、なっちゃんは目をパチクリさせた。

「マスター?」
「はい。」
「……和製英語ですよね?マスター。」

そう言われて少し鼻白んだ。
が、営業スマイルを張り付かせた。
「そうですね。でも私は先代のマスターに憧れてこの店を継ぎましたので、そう呼んでいただけると大変うれしいのですが。ちなみに、大学院の修士課程を終えてますので、マスターは嘘じゃありませんよ。」

……古城という名字は嫌いではないが、いささか目立つ。
両親が何も考えないで、「古城ビル」だの「アーバン古城」だの、やたら古城を強調した建物を周辺に建てたので、ちょっとめんどくさいことに絡まれることも多々ある。
まあ、持ちつ持たれつというか、どんなトラブルも最終的には街の顔役に預かってもらえるのだが。